第2話
第2話
祭壇の階を一段下りた私の足元で、絹の裾が石畳の冷たさを撫でた。
香の煙が柱のように立ちのぼり、色硝子から降る光と混ざり合って、聖堂全体がゆるやかに震えている。合唱隊の余韻はまだ天井の梁に絡みついたままで、神官たちは額を石に押しつけたまま動こうとしない。──まるで、この瞬間を長く長く引き延ばしたいとでもいうように。
『ええ、いくらでも、見ていらして』
心の奥で、私はひそやかに囁いた。
見ていてほしかった。祭壇を下りるこの一歩を、裾の翻り方を、伏せた睫毛の角度を。処刑台の石段を登った娘が、どのような所作で二度目の階を下りるのか。その一部始終を、誰ひとり瞬きもせずに目に焼きつけてほしかった。
二段目。三段目。私はけっして急がなかった。急げばそれは、赦免を求める罪人の足取りになる。遅ければ、それは芝居がかった聖女の気取りになる。──ちょうど、雪がひとひら、風を選びながら落ちていくような速度。幼い頃、王妃教育の教師が「歩幅ではなく、沈黙を歩きなさい」と繰り返したあの速度を、私の膝はまだ覚えていた。
大司教が、震える手を差し伸べた。節くれ立った指は、けれど決して私に触れようとはしない。聖女の身体は、もう老司祭の慰めすら超えた場所にあるのだと、その指先の遠慮が雄弁に物語っていた。
「聖女様。まずは、祈りの間へ……」
「いえ」
私は微かに、首を振った。
「神がこの身をお降しになった場所で、まず神に祈りを。──それが、礼儀でございましょう」
*
どよめきが、さざなみのように広がった。
二百年ぶりの聖女が、大司教の差配を受けるより先に、自らの意志で祭壇前に膝を折ろうとしている。そのことの意味を、神官たちは即座には飲み込めぬようだった。規範は揺れ、しかし、誰もそれを諫める資格を持たない。紋章はすでに神の名で語ってしまったのだから。
私は祭壇の下、白い大理石の円の中央に、静かに膝をついた。
絹が石に触れる瞬間、祭服の裾が完璧な扇を描いて広がる。両手を胸の前で組み、親指の腹をそっと重ねる。公爵家の娘として十七年、数えきれぬほど練習した「王家の前で捧げる祈り」の型。指の角度、肘の高さ、項の傾き──すべてが、躾という名の呪いのように、私の骨に染みついていた。
目を閉じる。長い睫毛が頬に影を落とすのを、自分でも感じた。
『神よ、と呼びかけるべきかしら。それとも──』
少しだけ、迷った。神という存在を、かつての私は心のどこかで疑っていたのだ。神がいるのなら、なぜ偽証はまかり通り、父の沈黙は赦され、十七歳の首は秋空の下に転がされたのか。──けれど、今の私は、紋章の熱を手の甲に宿している。疑うには、すでに身体が先に知ってしまっていた。
だから、私はただ短く、こう唱えた。
「──この身を、意のままに」
囁きほどの声だったのに、祭壇の高い天井がそれを拾い、細やかな反響となって聖堂中に降り注いだ。神官の幾人かが息を呑む気配があった。貴族の列からも、扇を持つ手が凍りついたような沈黙が伝わってくる。
『……ええ、いい感じ』
心の中だけで、そっと頷く。
派手な奇跡は要らない。泣き崩れる必要もない。貴族という生き物は、騒ぐ者より黙る者を恐れる。騒ぐ感情は読み解けるが、黙った背筋の意味は読めないからだ。王妃教育の老教師は言ったではないか──「アデリア様、貴女の最大の武器は沈黙の長さですよ」と。
膝を折ったまま、私はわずかに顔を上げ、ステンドグラスの光を正面から受けた。虹の欠片が額を、頬を、組んだ指の関節を順に撫でていく。大司教が、堪えきれず再び涙をこぼした。幾人かの神官が「おお……」と声にならない声を漏らす。
そして──その沈黙の余白に、誰かが呟いた。
「……まるで、名家の姫君のようだ」
貴族の列の、どこか奥。
「所作が……所作が、あまりに整いすぎて……」
「聖女様は、どちらの家の血筋に……?」
「いや、突然の顕現と聞いたぞ。孤児の出かもしれぬ」
「孤児があの指の組み方を知るものか。あれは大聖堂の前で覚える型ではない。代々、王家の前で膝を折る家の者にしか──」
ざわめきが、小さな渦になって広がり始める。
『さあ、どうぞ、お考えになって』
私は伏せた睫毛の奥で、静かに微笑を噛み殺した。聖女の出自、所作の完璧さ、名家の影。──この謎が貴族たちの舌に転がり始めた瞬間、今日という日は私の勝ちだ。種はもう、蒔かれた。あとは、自分で育ちたがる。
*
祈りの時間が、ゆっくりと解かれていく。
大司教が合図を送り、神官たちが左右へ分かれ、祭壇の下に道が作られた。その道の先に──貴族たちの列がある。拝謁の礼を取るための位置取りに、彼らは既に移動を始めていた。金糸の肩章、紫紺の外套、婦人たちの扇。綺羅びやかな色彩の中を、私は祭壇の段を下りきった素足のまま、ゆっくりと歩き出す。
視線が、いくつも刺さるのを感じた。
畏れ。好奇。値踏み。そして──かすかに混ざる、疚しさ。それらを肌で仕分けながら、私は顎をほんの少しだけ引いた。高すぎれば傲慢、低すぎれば卑屈。ちょうど、薄氷の上で水鏡を覗き込むくらいの角度。
そして、歩みの中途。視界の端が、ふいに、あの二人を捉えた。
エドワルド殿下。
その半歩後ろで、慎ましやかに膝を折る、ミレーヌ・ド・ソレイユ男爵令嬢。
二人は臣下の列の、最前ではなく、敢えて三列目ほどに身を置いていた。王太子ならば当然の最前を辞し、「聖女の前ではまず一臣民として」という体裁を、念入りに整えているのが見て取れた。ミレーヌの薔薇色のドレスは控えめな色合いに改められ、胸元の宝石は小ぶりの真珠ひとつ。涙ぐんだ瞳を伏せ、祈りの指を完璧に組んでいる。
──見事ね。あなたたち、本当に見事。
『私を処刑台に送っておいて、こうも綺麗な顔で跪けるなんて』
胸の奥で、剣の柄がとくん、と脈を打った。
指の先が、冷たくなる。いえ、冷たくなろうとするのを、私は意志で押しとどめた。ここで顔色を変えてはいけない。ここで足を止めてはいけない。二人の目の前を通り過ぎる──ただ、それだけの動作を、祭壇から降りた聖女の、あまりにも自然な歩みとして果たさねばならない。
私は視線を二人に合わせなかった。合わせる必要もなかった。ただ、歩幅を一切変えぬまま、彼らの前を横切った。ドレスの裾がエドワルド殿下の靴先から、ほんの指一本ぶんだけ離れた位置を通る。近すぎず、遠すぎず。冷たすぎず、親しすぎず。──かつて婚約者として、幾度もその横顔の距離を測り続けた私だけに許された、正確無比の距離。
エドワルド殿下の金の睫毛が、ほんの一度だけ、揺れた。
ミレーヌの呼吸が、小さく乱れた。
私は聞かなかった。見なかった。ただ、祭服の裾を静かに運び続けた。
けれど、通り過ぎ際、ほんの一瞬──私は二人のちょうど正面で、ふわりと裾を翻した。風もないのに、絹が祈りのように揺れる。その拍子に、手の甲の紋章が二人の視界を掠める角度に上がり、金の光が一筋、彼らの睫毛の上を走った。
『お久しぶりですわね、殿下』
『ごきげんよう、ミレーヌ様』
唇はひとつも動かしていない。けれど、貴族という生き物は、動かない唇の挨拶を読む訓練を幼少より受けている。エドワルド殿下の肩が、微かに強張るのがわかった。ミレーヌの組んだ指の関節が、白くなる。
気づかれたのかしら。いいえ、まだ。けれど、何かが喉の奥に引っかかった──その程度の違和は、もう植えつけた。
*
拝謁の間へと続く回廊の扉が、音もなく開かれる。
振り返らぬまま、私は回廊へ足を踏み入れた。背後で、神官たちの深い礼の気配と、貴族たちの息を呑む音が、ひとつの層になって残された。扉がゆっくりと閉ざされていく。閉ざされる直前、ほんの一瞬だけ差し込んだ聖堂の光の中に、祭壇前に佇む二人の影が、小さく滲んで見えた。
扉が、静かに閉じる。
途端、回廊の冷えた空気が、祭服の下で熱を持った肌をそっと包んだ。私は胸の前で組んだ指を、ようやく、ほんの少しだけ緩めた。掌にはまだ、爪が食い込んだ薄い痕が残っている。処刑の朝と同じ、鉄の味がかすかに口の中に蘇った。
『一歩目は、果たしました』
心の中で、亡き日の自分にそっと報告する。
次は、夜。誰も見ていない夜の聖堂で、この手の甲の紋章が本当のところ、何ができるのか──それを確かめなければならない。神が与えた刃の切れ味を、まずは自分の手で検分する。研ぎ具合を知らぬ剣を、戦場に持ち込むわけにはいかない。
回廊の先、半ば開かれた窓から、夜気の気配がひと筋、忍び込んできた。陽はまだ高いのに、私の肌はもう、来たるべき夜の冷たさを正確に嗅ぎ分けていた。手の甲の紋章が、応えるように、とくん、と一度、小さく脈を打つ。
──今宵。
誰もいない祭壇の前で、私は初めて、自分自身の聖光に触れることになる。