第1話
第1話
処刑の刃が落ちる音を、私は確かに聞いたはずだった。
首筋を裂くはずの冷たい鉄、石畳に転がる己の髪、群衆の歓声──そのすべてを覚悟した瞬間、瞼の裏が突然、白く灼けた。痛みはない。重みもない。ただ、眩しさだけが、私の中に残っていた最後の呼吸を優しく押し広げていく。
『……これは、死後の世界でしょうか』
ゆっくりと瞼を持ち上げる。真っ先に飛び込んできたのは、高い高い尖塔の天窓から降り注ぐ光の柱だった。色硝子を透かして虹色に染まったその光は、白い大理石の祭壇を抱きしめるように落ちている。香が焚かれ、聖句が低く唱えられ、そして──無数の視線が、私ひとりに注がれていた。
「──聖女様。新たなる聖女様の、ご降臨にございます」
大司教の震える声が、広い聖堂にこだまする。
私は自らの手を見下ろした。爪先まで白い絹の祭服に包まれた腕、その甲に、見覚えのない金の紋章が光っている。薔薇と剣を組み合わせた、古めかしい意匠。触れれば微かに熱を帯び、脈打っていた。
『紋章……神託の、紋章』
そこまで思考が回って、ようやく私は理解する。
アデリア・フォン・ヴェルテンベルク公爵令嬢──悪役令嬢として断罪され、群衆の罵声の只中で首を刎ねられたはずの私は、いま、王都大聖堂の祭壇の上で、聖女として目覚め直していた。
*
膝をついた大司教の白い法衣が、視界の端で小刻みに揺れていた。
「手の甲の紋章、光の気配、そして突然の顕現。……間違いございません。二百年ぶりの、聖女様の御降臨にございます」
周囲の神官たちが、一斉に床へと額をつけた。衣擦れの音が波のように広がる。私は動かない。いえ、動けなかったと言うべきかしら。指先は微かに震えていたし、胸の奥では、つい先刻まで自分を罵っていた声々が、耳の奥でまだ生々しく反響していた。
──淫婦。毒婦。王太子殿下を誑かした悪女。
石が頬を掠めた感触も、髪を掴まれて引き倒された屈辱も、まだ皮膚のすぐ下で燻っている。ひとつ瞬きをするたび、処刑台へ続く石段の冷たさが足裏に蘇り、縛められた両手首の縄の痕が、今も祭服の袖の下で疼いているような錯覚に襲われた。あの朝の空は、不思議なほど澄んでいた。青い、残酷なほどに青い空を見上げながら、私はただ「この国の秋の空は、やはり美しいのね」とだけ、ぼんやり考えていたのだ。
私の何を知って、あの者たちは石を投げたのだろう。婚約者であった王太子エドワルド殿下は、男爵令嬢ミレーヌの涙ひとつで私の十七年を砕いた。宰相派の誰かが用意したのだろう偽の証言、偽の書簡、偽の証人。抗弁は「見苦しい」と遮られ、家名を守るためにと父は沈黙を選んだ。
あの時の父の横顔を、私は一生忘れないだろう。老いた頬を伝った一筋の涙を、父は誰にも見せまいと袖で押さえていた。「堪えてくれ、アデリア」と、唇だけが動いた。私は頷いた。頷くしかなかった。公爵家という器を守るために、私という中身は捨てられた──ただそれだけの、古くからよくある話。
『……思い出すのは、もうおやめなさい』
胸の内で、自分に言い聞かせる。冷静に、冷静に。怒りで息を乱してはいけない。涙で視界を濁らせてはいけない。ここは祭壇。私は今、見られている側の人間だ。
そう、見られている──これは新しい舞台なのだと、遅れて血が理解し始める。
私は背筋を伸ばし、ゆっくりと顔を上げた。ステンドグラスから降る光の粒が、睫毛の先を金色に染めている。祭壇の下、列を成す神官たちの奥に、貴族の装束がいくつも並んでいるのが見えた。紫の外套、金の肩章、宝石をちりばめた扇。公爵家の令嬢として数え切れぬほど並んだ顔ぶれ。その中に──。
『……嘘でしょう』
心の声が、ひときわ低く沈んだ。
王太子エドワルド殿下。
その隣に寄り添うように立つ、ミレーヌ・ド・ソレイユ男爵令嬢。
私を殺した二人が、神妙な面持ちで祭壇を見上げている。あれほど憎悪に歪んでいた口元は、今は敬虔な祈りの形を取り繕っていた。ミレーヌは胸の前で両手を組み、潤んだ瞳で聖女の降臨を眺めている。まるで、自分こそがこの奇跡を喜んでいるとでも言いたげに。
エドワルド殿下の金の睫毛が、光の中でゆっくりと上下する。あの瞳に、かつて私は未来を見たのだ。婚約式の日、十二歳の殿下が恥ずかしそうに差し出してくれた小さな白薔薇。あれを押し花にして祈祷書に挟んだまま、私は処刑場へ連れて行かれた。今頃あの花は、没収された私物の山の底で、誰にも開かれぬまま枯れているのだろう。
指先に、かっと熱が走った。爪が掌に食い込み、薄い血の味が唇を掠める。鉄のような味だ。処刑の朝、口の中に残っていたあの味と、まったく同じ。私の身体は、まだ覚えている。覚えていて、いま、静かに怒っている。
──駄目。ここで叫べば、すべてが台無しになる。
私は祭服の袖の下で、そっと息を整えた。鼻からゆっくり吸って、下腹までゆっくり落とす。幼い頃、王妃教育の教師が繰り返し叩き込んでくれた呼吸法だ。「感情を殺すのではありません、アデリア様。感情に、時間を与えるのです」と、あの老教師は言った。いまその教えが、これほど鋭く胸に戻ってくるとは思わなかった。
お父様がよくおっしゃっていた。怒りとは、一度吐けば矢となり、吐かねば剣となる、と。私が今、胸の奥に飲み込んだのは、矢ではない。時間をかけて研ぎ上げるべき、一振りの剣だ。鞘はこの祭服、柄はこの紋章、そして刃は──私自身の、まだ誰にも知られていない名前。
*
「……大司教猊下」
ようやく紡いだ声は、自分でも驚くほど澄んでいた。合唱隊の余韻のように、祭壇の空気を柔らかく撫でる声。自分の喉から、こんなにも静かな音が出るとは。まるで別人の声帯を借りたかのようで、私は内心、ひそやかに笑ってしまった。──ええ、別人でいい。アデリアはもう、あの秋空の下で死んだのだから。
「この身に何が起きたのか、まだ、正しく理解できぬままにございます。けれど──この紋章が神の御意志であると仰るのなら、私は、その意志に従いましょう」
大司教が顔を上げ、涙ぐんだ目で深く頷いた。皺の刻まれた目尻から、ひとしずく、本物の涙がこぼれ落ちる。その涙の純粋さが、なぜか胸を微かに刺した。この老人は、何も知らない。何も知らずに、ただ神の慈悲を信じて泣いている。
「なんと慎ましく、お労しいお言葉か……。聖女様、どうぞこの国を、お救いください」
救う、という言葉に、私はそっと目を伏せる。
救うべきは、この国なのか。それとも──踏みにじられたまま処刑台に消えた、あの娘の尊厳なのか。いいえ、きっと両方だ。どちらかを選ばずに済むよう、神はわざわざ二度目の生を与えてくださったのかもしれない。そうであるならば、なんと都合のよい、そして残酷な祝福だろう。
『ごきげんよう、皆さま。お久しぶりですわね』
心の中でだけ、私は貴族令嬢の挨拶を捧げる。エドワルド殿下。ミレーヌ嬢。そして、この祭壇の向こうで涼しい顔をしているだろう、宰相閣下。
『今度は──私の手順で、進めさせていただきます』
祭壇の下、ミレーヌがふいに顔を上げた。目と目が、ほんの一瞬だけ合う。彼女の薔薇色の唇が、小さく「聖女様」と形作られた。勝ち気で、甘やかで、何ひとつ疚しいところなどないという、あの微笑。かつて私の目の前で、エドワルド殿下の腕に縋りついて泣いてみせた、あの同じ唇。
私は静かに微笑み返した。
それは、かつてアデリア・フォン・ヴェルテンベルクが決して浮かべなかった種類の笑みだった。怒りでも、憎しみでも、嘲りでもない。──ただ、品位だけを完璧に纏った、聖女の微笑。ミレーヌの瞳が、ほんの僅かに揺れたのを、私は見逃さなかった。聡い娘だ。自分に向けられた微笑の温度が、他の誰に向けられたものとも違うことを、彼女の本能はもう察している。
その瞬間、手の甲の紋章が、とくん、と熱く脈を打った。まるで、長い眠りから目覚めた刃が、主の手に馴染んでいくように。血管を伝って、見知らぬ熱が全身へと巡っていく。指の先、爪の根、項のあたり──かつて刃が落ちたはずのその場所まで、温かな光がゆっくりと縫い直していくようだった。
*
祈りの合唱が、ふたたび聖堂を満たし始める。
香の煙、色硝子の光、ひれ伏す神官たち。そして、私を殺した者たちの、何も知らぬ祈りの横顔。そのすべてを視界に収めながら、私はゆっくりと祭壇の階を一段、下りた。
絹の裾が、石の上を滑る微かな音。衣擦れが、聖堂の高い天井にまで吸い込まれていく。たった一段。されど、その一段を下りるために、私は十七年と、一度の死を必要とした。
『まずは、この所作ひとつから』
胸の奥で、静かに呟く。
聖女としての一歩目を、誰よりも美しく。誰よりも完璧に。この足音のひとつひとつが、やがてあの者たちの足元を崩す礎になるのだと、今はまだ、誰も知らない。
天窓から降る光の柱の中で、私の手の甲の紋章が、もう一度、静かに煌めいた。