第3話
第3話
薬指の指輪が、ポケットの中でひとつだけ重みを変えている気がした。
——『大丈夫か』
その二行に、私はやっぱり返信できなかった。返信しない、という選択を、自分でもめずらしいと思った。三年間、私はどんなメッセージにも必ず何かしらの返事を打ってきた。柊一郎さんの「先に寝てて」にも、先輩の「これお願い」にも、母の「元気?」にも。返事をしないことは、私にとって失礼で、怠惰で、罪のようなことだった。それなのに、今日は、画面を伏せたまま、机の引き出しの奥に押し込むことができた。押し込みながら、ほんの少しだけ、息がしやすくなった。
定時が過ぎても、オフィスはまだざわめいていた。蛍光灯の白い光が、みんなの肩の上を平等に照らしている。私は議事録の最後のひと段落を打ちながら、キーボードの音が、今日はやけに遠く聞こえることに気づいていた。カタ、カタ、と、自分の指先から出ている音なのに、まるで隣の席の誰かが打っているみたいだった。
「紗月ちゃん、もう上がりなよ。今日ずっと顔色よくないよ」 斜向かいの先輩が、デスクの上から気遣わしげに声をかけてくれた。私は反射的に微笑んで、「もう少しで終わりますから」と答えた。三年間、この受け答えだけで何百回、私は自分の本音を押し戻してきたんだろう。頬の筋肉が、言葉より先に動く。笑顔の型が、顔に彫り込まれている。
先輩たちが帰っていく気配を、私はモニターの反射越しに数えていた。ひとり、ふたり、三人。やがてフロアには、私ひとりになった。
【展開】
議事録を保存ボタンひとつで送信してしまえば、今日の仕事はおしまいのはずだった。それなのに、私はなぜか立ち上がって、化粧室の方へ歩いていた。歩幅がいつもより狭い。足の裏が、床にきちんと吸い付いてくれない感じがする。廊下の非常灯だけが緑色に灯っていて、自分の影が、壁を低く這うように進んでいった。どこかの空調の唸りが、耳の奥で低く響いていた。その音が、自分の鼓動と少しずつずれて重なっていくのを、私は他人事みたいに聞いていた。
化粧室の扉を押すと、蛍光灯が一拍遅れてぱちりと点いた。洗面台の上の大きな鏡に、女がひとり立っていた。
それが私だと分かるまでに、少しだけ時間がかかった。
青白い頬。目の下の、薄いけれど確かな陰。前髪が、昨夜の雨で癖になったまま、こめかみに一筋だけ貼りついている。口紅は朝の薄い桜色のまま、ほとんど剥げていて、唇の輪郭だけが妙にくっきりと白んで見えた。鏡の縁に触れた指先が、思ったよりずっと冷えていて、自分の体温がどこかに置き去りになっていることを、そこではじめて知った。私はずっと、自分のことを「地味だけど、清潔感のある女」だと思い込んでいた。柊一郎さんの隣に立つにふさわしい、悪目立ちしない女。誰の邪魔にもならない女。——その「誰の邪魔にもならない」は、いつの間にか、「誰にも見てもらえない」と同じ意味になっていた。
鏡の中の女の、左の薬指が光った。
細い、安物の銀。
三年。三百六十五日が三回。一日に何度、柊一郎さんのことを考えただろう。今朝のコーヒーは熱すぎないか。会議の資料のホチキスの位置は揃っているか。シャツの襟の裏が汚れていないか。お腹は空いていないか。眠れているか。——彼のことばかり考えて、私は「私のことを考える」という引き出しを、いつの間にか使わなくなっていた。使わない引き出しは、やがて開け方を忘れる。そして、引き出しそのものの存在も忘れる。気がついたら、鏡の中には、自分の中身がどこにあるのか分からない女が立っていた。
献身、という言葉を、急にひとつずつ解体したくなった。献、の字と、身、の字。身を、献じる。自分を差し出す。差し出したものは、普通、返ってくるか、せめて受け取ってもらえるはずだった。けれど私の三年は、差し出したものが、差し出された先で一度も開封されていない小包みたいに、どこかの棚にそのまま積まれていた。柊一郎さんの心の中に、私宛の小包が三年分、未開封のまま積み上がっている。その山の隣では、美咲さん宛の包みが、毎日丁寧に開かれて、中身が取り出されている。私は鏡に向かって、小さく息を吐いた。白い息は、もちろん出なかった。代わりに、喉の奥で何かがほどけて、言葉にならない音が漏れた。唇の端が、自分の意思とは関係なく、ほんの一ミリだけ震えた。泣くのとも笑うのとも違う、名前のない表情だった。
——空っぽだ。
はじめて、その言葉を自分に許した気がした。空っぽの、三年。空っぽだったと認めるのは、三年を無駄だったと認めることと同じだった。認めたくなくて、私はずっと「献身」「努力」「愛情」という綺麗な名前を、空白の上に貼り続けてきた。けれど、ラベルを何枚貼っても、中身は中身のままだった。中身がなかったことは、ラベルの重さでは隠せなかった。
鏡の中の女が、ゆっくりと右手を持ち上げた。薬指にかかった指先が、少しだけためらって、止まる。外す。外さない。——外せない。外したあとの薬指を、私はまだ見たことがない。見てしまったら、もう、元には戻れない気がした。私の指は、結局そのまま力を失って、洗面台の縁に落ちた。陶器の冷たさが、手首まで一気に上ってきた。
【転機】
化粧室を出ると、窓の向こうの空が、昼間の雨雲よりももっと重い色をしていた。雨雲の腹の底に、誰かが墨を一滴ずつ落としていったみたいな、黒に近い灰色。遠くのビルの赤い航空障害灯だけが、その闇の中で規則正しく点滅している。天気予報は、たしか夕方から雨とは言っていなかったはずだった。——それとも、予報を聞いたのがもう何日も前のことのように、私の記憶の方がずれているのかもしれない。
自分の席に戻ると、机の上は朝のままだった。柊一郎さんのスケジュール表、コーヒーの下に敷いたコースター、ペン立ての中のボールペンの並び順。全部、私が三年かけて整えてきた景色。今日までの私は、この景色を見るたびに、小さな達成感を覚えていたはずだった。きちんと整っている、私はきちんとしている、私の毎日はきちんと回っている——そのきちんと、の中に、自分の気持ちがないことに、私はずっと気づかないふりをしてきた。
バッグを取ろうとして、ふと、机の一番下の引き出しを開けた。奥から、折りたたみ傘が出てきた。昨夜、持って出るのを忘れた、あの傘だった。紺色の、地味な、取っ手の先がほんの少しだけ擦り切れている傘。私はそれを、そっと手に取って、また引き出しに戻した。戻しながら、自分でも驚くほど静かな声が、喉の奥で言った。
——今日は、差さない。
理由なんて、なかった。ただ、鏡の中のあの女と同じ顔のまま家に帰るのが、どうしても嫌だった。整った女のまま、整ったマンションに帰って、整ったベッドで整った眠りにつく——そのループの中に、もう一晩も戻りたくなかった。濡れたかった。ぐしゃぐしゃになりたかった。髪も、肩も、三年間貼り続けたラベルも、全部、雨に剥がしてほしかった。
廊下の窓に、最初の一粒が当たった。ぴ、と硬い音がした。続けて、二粒、三粒。やがて窓ガラス全体が、細かい音の膜で覆われていく。私は、コートを着なかった。バッグだけを肩にかけ、鍵を握りしめ、非常階段の方ではなく、正面のエレベーターへ歩いた。これから落ちていく人間が、裏口から帰るのは、なんだか違う気がした。
エレベーターの鏡は、化粧室のそれより少しだけ暗かった。暗いぶん、女の顔ははっきり見えない。見えないことが、今はありがたかった。——一階のロビーを抜け、自動ドアを過ぎ、一歩、雨の中に踏み出す。冷たい粒が、額から、鼻筋を伝って、顎の先で散った。髪が、あっという間に重たくなっていく。アスファルトの匂いと、どこか遠くの排気ガスと、雨そのものの無味な匂いが、ひとつに混ざって鼻の奥に届いた。久しぶりに、外気を「吸っている」と感じた。
丸の内の歩道には、傘を差さずに歩く人間なんて、私ひとりしかいなかった。みんなビニール傘の下で身を小さくして、足早に駅の方へ流れていく。その流れの中を、私だけが、逆向きに、ゆっくりと歩き出した。どこへ行くのかは、自分でも決めていなかった。
【引き】
ただ、歩きながら、ポケットの中のスマートフォンをもう一度だけ取り出した。画面に雨粒が落ちる前に、私は昨夜のメッセージをもう一度開いた。
——『ずっと、探してた』 ——『大丈夫か』
指先が、送信欄で一度止まった。三文字だけ、打った。消した。もう一度打った。
——『いま、』
そこまで打って、私はやめた。やめて、画面を伏せた。濡れた睫毛の向こうで、信号が青に変わっていた。青い光がアスファルトの水たまりに滲んで、長く長く引き伸ばされていく。その青の先に、誰かの傘の影が、ひとつだけ、じっと動かずに立っているのが見えた気がした。
雨音の中で、心臓が、昨夜と同じ速さで鳴り始めていた。