第2話
第2話
——『ずっと、探してた』
その一行を、私は雨の中で何度も読み返した。雨粒が画面に落ちて、文字の上を小さな水たまりが滑っていく。指で拭っても、拭っても、文字は消えなかった。消えてほしいのか、消えてほしくないのか、自分でもよく分からなかった。
返信は、打てなかった。誰なのか、見当がつかないわけではない。けれど、その名前を思い浮かべた瞬間、胸の奥が、さっきとは違う種類の軋み方をした。ずっと探してた、なんて。そんな台詞を、私はもう長いこと誰からもかけられていない。柊一郎さんからでさえ、一度も。
私はスマートフォンをポケットの奥深くに押し込んで、ふらふらと大通りの方へ歩き出した。マンションの前に誰かがいるのなら、今の私は帰れない。濡れた前髪から雫が落ちて、鎖骨のあたりを這っていく。ビジネスホテルのロビーに駆け込んで、その夜は知らない天井を見上げたまま、眠ったのか眠っていないのかも分からないまま朝を迎えた。
目を覚ましたとき、枕元の画面には追加のメッセージはなかった。ただ、昨夜の一文だけが、読んだままの状態で残っていた。私はそれを、見なかったことにした。今日のところは、まだ。
——まだ、会社に行かなきゃ。その一念だけで、私はホテルの浴室の鏡の前に立った。
秘書課の朝は、いつも通りだった。いつも通りでいられる自分が、少し怖かった。昨夜、雨の中を濡れて歩いた女と、今コーヒーの温度を計っている女が、同じ顔をして同じ椅子に座っている。それだけで、人間というものはずいぶん丈夫にできているのだと、他人事みたいに思う。
「紗月さん、今日は役員会の議事録お願いできる?」 「はい、お引き受けします」 声は震えなかった。三年分の訓練は、こういうときのためにあったのかもしれない。柊一郎さんは午前中から外出で、オフィスには戻らない予定だった。そのことに、ほんの少しだけ胸を撫で下ろしている自分がいた。顔を合わせずにすむ一日は、もう、それだけでご褒美のような日だった。
昼近く、私は給湯室に立った。棚の奥から茶葉の缶を取ろうと背伸びをしたとき、扉の向こうの廊下から、女性社員ふたりの笑い声が聞こえてきた。甲高くはないけれど、どこか砂糖菓子のような甘さを含んだ笑い方で、私の耳にやけにはっきりと届いた。私は動きを止めた。止めるつもりはなかった。ただ、聞こえた名前が、私の足を床に縫い付けた。給湯室の蛍光灯が一度だけちかっと瞬いて、冷蔵庫の低い唸りが急に大きく聞こえ出した。
「——柊一郎さんのこと?」 「うん。だって、本命はあの人でしょ、絶対。広報の……ほら、背の高い」 「ああ、美咲さん。でも柊一郎さん、婚約者いるって聞いたけど」 「いるよ。同じフロアの、ほら、秘書の。真面目そうな人。でもさ、うちの母が言ってたの。ああいう家の人はね、結婚する相手と、本当に好きな相手は別なんだって」 「ええ、かわいそう……」 「かわいそう、っていうか、知らないのが一番幸せなんじゃない?」
笑い声が、少しずつ遠ざかっていく。ハイヒールの音が、給湯室の前を素通りしていく。私は、茶葉の缶を掴んだ姿勢のまま、しばらく動けなかった。背伸びをしたままの爪先が、じんじんと痺れていた。踵を下ろすことすら、今の私には大きすぎる動作のように思えた。一度でも下ろしてしまったら、そのまま膝から崩れてしまいそうな気がした。棚板の角が指の腹に食い込んで、茶葉の缶のラベルの凹凸が妙に鮮明に伝わってきた。ほうじ茶、と書かれた文字の、ほ、の丸い部分。それだけを、私は馬鹿みたいにじっと見つめていた。見つめていないと、さっきの言葉の意味が、もっと深いところまで降りて来てしまいそうだった。
知らないのが、一番幸せ。——もう、遅いですよ。心の中で、知らない誰かに返事をした。声には、笑いの気配さえ混じっていた。自分が笑いかけたことに驚いて、私は慌てて唇を引き結んだ。こんなところで笑ったら、本当に壊れたことを自分に認めてしまう気がした。唇の内側を、奥歯で軽く噛んだ。血の味はしなかったけれど、代わりに、昨日の雨の匂いが口の奥によみがえった気がした。アスファルトと、濡れた桜の花びらと、私の髪から滴り落ちた雫の匂い。ぜんぶが一緒くたになって、舌の上にうっすら苦く広がった。
缶を棚に戻して、私は湯呑みに湯を注いだ。手は、今日は震えなかった。昨日こぼした熱湯の赤い点が、手の甲にまだ薄く残っている。その小さな痣を見つめながら、私はようやく理解した。——ああ、本命、じゃないんだ、私は。婚約者、ではあっても。言葉にしてみると、それは思っていたより静かな事実だった。悲鳴も上がらなかったし、涙も出なかった。ただ、胸の真ん中に置かれていた小さな重りが、音もなく床に落ちただけだった。落ちた場所に、ほんの少しだけ、空白ができた。その空白がどんな形をしているのか、私はまだ見たくなかった。
昼休みの後半、私は自分でも意識しないうちにオフィスを出ていた。足は、昨日の帰り道と同じ方向へ向かっていた。向かいのビルの一階、ガラス張りのカフェ。斜向かいの角度からなら、窓際の席がちょうど覗ける。行きたくない、と思いながら、私はその角に立っていた。雨の上がった歩道に、春先のぬるい風が吹いていた。風は桜の匂いを含んでいて、その甘ったるさが、今日の私にはひどく似合わない気がした。アスファルトに残った水たまりが、通り過ぎる車のライトを切れ切れに映している。靴底が、昨日染み込んだ雨をまだ完全には手放していなくて、一歩踏み出すたびに、くちゅ、と小さな音がした。
窓の向こうに、柊一郎さんがいた。外出先から一度立ち寄ったのだろう。向かいに座っているのは、写真の、あの華やかな女性ではなかった。背が高くて、すっきりした肩のラインの——広報の、美咲さんと呼ばれていた人だった。白いブラウスの襟元から覗く鎖骨が、窓越しの光の中で、絵に描かれたもののように整って見えた。テーブルの上の二つのカップから、細い湯気がまっすぐに立ちのぼり、その湯気の先で、ふたりの視線が柔らかくほどけては結び直されていた。
ああ、と、声にならない声が喉の奥で鳴った。一人じゃなかったんだ、と。彼の隣にいる資格を持っている女は、一人じゃなかった。私の知らないところで、私の知らない笑顔を、彼はいくつも使い分けていた。そしてそのどれもが、私に向けられたことは一度もなかった。三年間、私の前にあった顔は、きっと一番外側の、一番当たり障りのない一枚だったのだ。喉の奥が、からからに乾いていた。唾を飲み込もうとしても、飲み込むものが何もなかった。指先だけが、やけに冷たくなっていた。
柊一郎さんは、テーブル越しに身を乗り出して、美咲さんに何かを話していた。その顔は、私が三年間一度も見たことのない顔だった。目尻が柔らかく下がっていて、少年みたいに笑っていた。昨日カフェで見た、あの指の動きよりも、もっと無防備な笑み。恋に落ちる前の人の顔ではなかった。——恋のあとの人の顔でもなかった。恋の、ちょうど真ん中にいる人の顔だった。唇の端が、話の合間にふっとほころぶたび、美咲さんの肩もつられて小さく揺れた。ふたりの間にだけ流れている時間の速度が、ガラス越しにでも伝わってきた。私の時計とは、明らかに違う速さで回っている時間だった。彼の長い指が、テーブルの上で美咲さんの指先にほんの一瞬だけ触れて、すぐに、何事もなかったように離れていった。その一瞬の短さと、迷いのなさが、かえって、何もかもを決定づけてしまった。
見てしまえば、もう、言い訳のしようがなかった。「あれは仕事の打ち合わせだ」と自分に言い聞かせることも、できなかった。打ち合わせをしている男は、あんなふうに笑わない。少なくとも、私の前では、彼は一度も笑わなかった。議事録に残せるような言葉しか、私には渡されてこなかった。
私は窓から目をそらした。街路樹の若葉が、雨上がりの光を弾いて眩しかった。眩しすぎて、目の奥がじんと痛んだ。泣きそうで泣かない、という器用な痛み方を、私の目はいつの間にか覚えていた。喉の奥で、ひとつだけ、小さな音が鳴った。笑い声とも、嗚咽ともつかない音だった。それを風の音にまぎれさせて、私はゆっくりと息を吐いた。
——いい秘書を、やめたくなってきた。
心の中で、はじめてそう呟いた。呟いた瞬間、自分の中の何かが、ほんの一ミリだけ、こちら側に傾いた気がした。
オフィスに戻る道すがら、ポケットの中でスマートフォンが小さく震えた。昨夜の番号だった。今度は、たった二行。
——『昨夜、帰らなかったね』 ——『大丈夫か』
知らない人のはずの、その声の主だけが、今日、私の無事を確かめてくれていた。婚約者ではなく、上司でもなく、同僚でもない誰かが。雨上がりの空の下で、薬指の安物の指輪が、今朝よりもほんの少しだけ、外しやすい重さになった気がした。