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聖女の指輪が外れる夜

第1話 第1話

第1話

第1話

三年間信じ続けた指輪が、今朝はやけに重たく感じた。

 丸の内行きの満員電車。吊り革に掴まる私の隣で、柊一郎さんはスマートフォンに視線を落としたまま、一度もこちらを向かない。肩が触れるほどの距離にいるのに、その横顔は遠い街の景色みたいだった。窓の外を流れていく高架下の広告看板が、彼の頬に青や赤の光を順番に落としていく。そのどれもが、彼の表情をほんの一瞬だけ変えて、けれどすぐに元の無表情へと返してしまう。私は、その横顔をまっすぐに見ることができなくて、膝の上のトートバッグの持ち手を、意味もなく指先で撫でた。

「おはようございます」  なるべく自然に、小さく声をかける。彼は耳に入っていないのか、それとも聞こえないふりをしているのか、画面をスクロールする指を止めない。車両の揺れで、私の肩が彼のスーツの袖に触れた。彼は、ほんの少し身を引いた。ほんの数ミリの、けれど確かな距離。その数ミリが、三年前の恋人同士だった頃にはあり得なかった隙間なのだと、私だけが知っている。周りの人は誰も気づかない。私たちはきっと、他人の目には「朝からスマホに夢中な会社員と、その隣の目立たない女」にしか映らない。婚約者同士だなんて、誰も思わないだろう。

 ふと、彼の左手が目に入る。薬指には、何もない。——三ヶ月前まで、そこには私が贈ったシンプルな銀の指輪があったはずなのに。いつから、外すようになったんだろう。私はそれを、まだ一度も問いただせていない。問いただせば、返ってくる答えが怖かった。「仕事の邪魔になるから」と言われれば、私は頷くしかない。「忘れてきただけ」と言われれば、それ以上追及できない。そうやって、私は言葉になる前の疑問を、ひとつずつ飲み込んできた。喉の奥に、名前のつかない澱が溜まっていく。

 代わりに、私の薬指には彼から贈られた細い指輪が鈍く光っている。結婚情報誌で見た中で、一番安い部類のもの。「とりあえずの婚約指輪だから」と彼は笑っていた。とりあえず。その言葉を、私はいつまで信じ続けるんだろう。指輪の内側には、彼のイニシャルも、日付も、何も刻まれていない。刻印を頼もうとした私に、彼は「そういうのはちゃんとしたやつを買うときでいいよ」と言った。ちゃんとしたやつ。その「ちゃんとした」日が、本当に来るのかどうか、私は今朝、はじめて疑った。

 駅のホームに電車が滑り込む。彼は降りる直前、同じ部署の後輩女性と目が合うと、今日一番の柔らかい笑みを浮かべた。 「おはよう。昨日のメッセージ、ちゃんと届いたよ」  私の前を通り過ぎていく声は、甘く、低く、まるで別の生き物のものだった。私に向けられたことのないトーン。夜、布団の中で電話をかけあっていた頃ですら、彼はこんな声を出さなかった。あれは、恋に落ちる前の男の声じゃない。もう、とうに落ちたあとの、余裕のある男の声だった。

 ——昨夜までは、信じていたのに。

 胸の奥で、何かがかすかに軋む音がした。木造の古い床を、誰かが爪先立ちで歩くような、遠慮がちな、けれど確かな音だった。

 秘書課の自分の席に着く頃には、朝の違和感を押し込める術を、私はもう身につけていた。柊一郎さんのスケジュールを確認し、コーヒーの温度を整え、彼が会議に持ち込む書類のページ順を揃える。三年かけて覚えた手順は、祈りみたいに指先を動かしてくれる。カップの取っ手の角度はいつも右に十五度。砂糖はなし、ミルクは小さじ一杯弱。彼の好みを、私は自分の呼吸よりもよく知っている。知っているのに——彼が今、私以外の誰に何を囁いているのかは、ひとつも知らない。

「紗月ちゃん、これお願いしてもいい?」  先輩の声に顔を上げて、私は精一杯の微笑を返した。返事をするたび、頬の筋肉が少しずつ固くなっていくのが分かる。それでも、笑っていなければいけない気がした。笑っていれば、まだ聖女でいられる気がした。いい婚約者。いい秘書。いい女。——いい、いい、いい。いい加減、自分でも嫌になる。頭の中でその「いい」が何度も反響して、やがて意味を失って、ただの音の羅列になっていく。い、い、い。お経みたいに、呪文みたいに、私を私ごと縛りつける紐の音。

 昼休み、給湯室でスマートフォンを開いた。指は自然と、共通の知人のSNSをたどっていく。最新の投稿に、見覚えのあるネクタイの柄が写っていた。ワインレッドに細い銀のライン。私が去年の誕生日に贈ったものだ。百貨店の紳士服売場で、三十分以上悩んで選んだ。店員さんに「恋人さんへのプレゼントですか?」と訊かれて、「婚約者に」と答えた瞬間の、あの少しくすぐったい誇らしさを、まだ覚えている。

 けれど、写真の中で彼の腕に寄り添っているのは、私ではなかった。

 朝、ホームで笑いかけていたあの後輩でもない。もっと華やかな、知らない女性。夜景を背に、二人は同じグラスで乾杯している。タグ付けされた店の名前を、私は指先だけで繰り返し読んだ。先週、彼が「出張で名古屋にいる」と言っていた夜の、東京のレストランだった。画面の中で、女性の髪が彼の肩にかかっている。彼の手は、テーブルの上ではなく、彼女の腰のあたりに自然に置かれている。写真を撮っているのは誰なのか。三人目がいる席なのか、それとも自撮りなのか。考えようとして、考えるのをやめた。どちらでも、同じことだ。

 湯を注ぐ手元が、ほんのわずかに震えた。こぼれた熱い滴が、手の甲を赤く染める。痛い、と思うより先に、あ、と間抜けな声が出た。蛇口をひねり、流水に手をさらす。冷たさがじわじわ皮膚に染み込んでくるのに、胸の奥のほうは、どういうわけかまだ何も感じていなかった。手の甲の赤い点だけが、やけにくっきりと現実に見えた。心より先に、皮膚のほうが正直に痛がってくれている。

 感じたら、壊れる。そう分かっていたのかもしれない。

 午後、彼は私に一通のメールをよこした。「今夜、残業。先に帰っていい」。文末には句点もなかった。私は「承知しました。お疲れ様です」と定型で返し、送信ボタンを押した瞬間、画面の中の自分の敬語が、ひどくよそよそしく見えた。——私はいつから、婚約者に敬語を使っていたんだっけ。思い出せなかった。たぶん、思い出せないくらい前から、私はもう彼の「婚約者」ではなく、ただの「よくできた秘書」になっていた。

 定時を過ぎた頃、窓の外に雨が落ち始めた。退勤の支度をしながら、斜向かいのガラス越しにカフェのテラス席が見える。傘を差し掛けるようにして、柊一郎さんが女性と並んで座っていた。写真の、あの女性だった。庇の下で、二人の肩はぴたりと寄り添っていて、その間には隙間というものがまるでなかった。今朝、電車の中で彼が私から身を引いた、あの数ミリの隙間の対義語みたいだった。

 彼女の頬を、彼の指が一瞬だけ撫でた。ごく自然に。慣れた手つきで。何度も繰り返されてきた仕草の、たぶん何百回目かの一回。

 見てはいけないものを見た、とは思わなかった。むしろ——ああ、やっと見えた、と思った。三年かけてぼやけていた景色に、ようやくピントが合ったみたいだった。眼鏡のレンズを拭いたあとのような、残酷なほどの鮮明さだった。見えてしまえば、もうなかったことにはできない。

 気がつくと、私はオフィスを出ていた。折りたたみ傘はロッカーに置いたまま。エレベーターの鏡に映る女の顔は、青白くて、知らない人みたいだった。この人、誰だろう。婚約者に三年尽くして、薬指に安物の指輪をはめて、笑うことだけが上手になったこの人は、本当に私なんだろうか。鏡の中の女は何も答えない。ただ、唇の端だけが、習慣のように少しだけ上がっていた。笑う練習をしすぎた顔。泣き方を忘れた顔。

 一階のロビーを抜けて、回転扉の向こうへ踏み出す。冷たい雨が、髪を、肩を、睫毛の先までまっすぐに濡らしていく。ビルの明かりが水たまりに滲んで、丸の内が知らない街みたいに揺れていた。アスファルトに跳ねる雨粒の匂い、遠くで鳴るクラクション、行き交う傘の群れ。そのどれもが、私を置き去りにして流れていく。

 歩きながら、胸の奥でずっと軋んでいた何かが、とうとうひび割れる音を聞いた気がした。ぴしり、と、細く長い線が、三年分の時間の真ん中を走っていく。泣きたいのに、涙は出なかった。代わりに、雨粒が頬を伝って、顎の先から落ちていく。雨が、私の代わりに泣いてくれている。そう思ったら、ほんの少しだけ、呼吸が楽になった。

 ポケットの中で、スマートフォンが震えた。柊一郎さんからではなかった。見覚えのない番号からの、一通のメッセージ。

 ——『傘、持ってないだろ。今、家の前にいる』

 家の前。私の、マンションの前。誰が。どうして。心臓が、今日はじめて、はっきりとした速さで鳴り始めた。冷えきった指先に、血が戻ってくる感覚がある。

 震える指で画面をスクロールすると、最後に一行だけ、静かに付け足されていた。

 ——『ずっと、探してた』

 雨音が、ふっと遠ざかった。薬指の指輪が、急に、他人の持ち物みたいに冷たく感じた。

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