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銀鎖の落胤~塔の無能、前世の術式で縛鎖を編む~

第3話 第3話

第3話

第3話

鍵の回る音が、薄い鼓膜をひと撫でして過ぎた。

 俺は毛布の下で呼吸を浅く、浅く刻む。子どもの胸郭は容量が小さくて、少し気を抜くと吸いすぎて肩が上下してしまう。前世の実習で習った「死んだふりの呼吸」――横隔膜を使わず、喉の奥だけで空気を転がす技術――を、思い出しながら反復する。手のひらに刻んだ半月の痕が、じわりと熱を持った。

 扉が軋んだ。蝶番の錆びた悲鳴。続いて、若い兵士の息を呑む音。

「……まだ、息があります」

 鎧の金属音が一歩、寝台に近づく。毛布越しに、湿った革手袋の匂いがした。若い兵士の指先は、俺の頬に触れる直前で止まった。触れなかったのは、触れたくなかったからだろう。死にかけの子どもに触れて、その死を看取る役を引き当てるのが嫌だったのだ。前世の俺なら、その躊躇を責めたかもしれない。けれど今はむしろ、ありがたかった。

「熱は下がったようだな。……報告だけしておけ。夜半には死ぬだろう、と」

 扉の外から、先ほどの気だるげな声。若い兵士は「は、はい」と小さく応え、踵を返した。毛布の下で、俺は目を閉じたまま数を数える。足音が石段を下りきるまで、三十七。鍵がもう一度回るまで、四十二。蝶番の軋みが余韻を引きずって消えるまで、四十八。

 四十九を数えたところで、俺はそっと目を開けた。

 蝋燭の火が、俺の息に揺れる。

 生きている。まだ、生きている。前世の凡才の頭が、この子どもの肋の内側で確かに脈打っている。夜半までに死ぬ、と誰かが決めた子どもの身体の中で、俺は今、生き延びる算段を立てなければならない。

 鉄格子の向こうの空が、青から白へ薄れていく。

 俺は毛布を押しのけて寝台に起き直った。小さな足裏が石畳を踏む。冷たい。けれど、その冷たさが思考を覚ましてくれる。

 まず、情報の整理だ。

 塔の窓から身を乗り出すように、外を見た。鉄格子の隙間から見える空は、夜明け前の青と、沈みかけた月――いや。

 月が、二つあった。

 ひとつは白く、満ちかけた大きな月。もうひとつは、それより小ぶりで、青みがかった碧の月。両者は微妙に位置をずらしながら、西の稜線にゆっくりと沈んでいく。二つの月光が石畳の上で重なり合い、俺の影を二重に伸ばしていた。濃い影と、薄い影。輪郭の違う二本の俺が、足元から生まれている。

 前世の夜空にはなかった光景。

 けれど不思議と、衝撃はなかった。むしろ、ある種の安堵が胸に降りてきた。ここは確かに、前世とは違う世界だ。前世の常識も、前世の限界も、ここでは適用されない。凡才という烙印も、朝四時の実習室の嘲笑も、この二つの月の下では過去の亡霊に過ぎない。喉の奥が、何年ぶりかに緩んだ気がした。胸の底で、ずっと固く結ばれていた何かが、ほどけたのではなく、ただ、そっと位置を変えた。過去を忘れるのではない。過去を、使う側に回る。そう決めた途端、指先の震えが、恐怖のそれから、期待のそれへと質を変えていった。

 俺は窓辺に膝をついた。

 二つの月光が、石畳に落ちた俺の影を、子どものものとは思えないほど濃くしている。影の底――前世の路地裏で、銀の鎖が這い上がってきた、あの場所。俺は息を整えて、掌を影の上にかざした。

「……もう一度、来るか」

 声は掠れていた。けれど、掠れた声の奥で、前世の知識が水面に浮かぶ油のように揺れていた。

 古代式の音節表が、頭の中で展開される。あの夜、路地裏で口から零れた「縛れ」の一言。あれは魔導書の余白に走り書きされていた断片で、正式な詠唱ではなかった。完全な詠唱があるはずだ。けれど俺の記憶にはない。であれば――組み直す。

 前世の学院で教わったのは、古代式を「音」で再現する訓練だった。発音が合えば、術式は起動する。けれど発音だけを真似ても、精度は上がらない。俺が凡才と呼ばれたのは、音は取れても意味を理解していなかったからだ。教師たちは「古代式は意味より響きだ」と言った。俺は納得できなかった。詠唱とは、意味と響きの両方を伴って初めて術式になるはずだ。そう信じて、禁書目録の隅にあった注釈を盗み読みしてきた。

 古代式の文法構造。主語と述語の関係。魔素への命令形。敬譲形。仮定形。――そのほとんどが、前世の日本語の論理とは逆立ちしている。目的語が先に来て、動詞が中心で、主語は最後にそっと添えられる。まるで、術式そのものが世界に対して「こうあれ」と命じ、最後に「それを望むのは誰か」を名乗るような構造。

 前世の俺は、この構造を「逆から読めばいい」と気づいていた。気づいていたが、口に出す機会がなかった。教師に笑われるのが怖くて、詠唱を逆から組み立てるという発想を、ノートの隅にしか書けなかった。あのノートは、実習棟の机の奥で、今も誰にも読まれずに眠っているだろう。読まれなくていい。あの走り書きは、ここで、俺自身の舌の上で初めて意味を持つ。

 けれど、今は違う。

 笑う教師はいない。見張りの兵士も、夜半までは戻ってこない。二つの月光が、俺の影を濃く伸ばしている。時間は、俺のものだ。

 俺は石畳の上に指先で文字を描いた。前世の日本語で「縛る」「鎖」「繋ぎ止めよ」――それらを古代式の文法構造に沿って並べ替える。目的語、動詞、主語。対象は「影」、動作は「顕現して縛れ」、主語は「我が意」。三つの要素を、音節に変換していく。

 頭の中の古代式辞書と、前世の論理回路が、かちかちと噛み合っていく感覚。ジグソーパズルのピースが、裏返しのまま差し込まれていたのを、表に返して嵌め直すような。音節と音節の間に、意味の橋が架かっていく。朝四時の実習室で、汗だくで噛んだ音節たちが、今、別の順序で舌の上に並ぶ。

 唇を動かす。

 声には出さない。口の中だけで、音節を転がす。一音、二音、三音。舌先が上顎を軽く叩き、喉の奥で微かな反響が生まれる。前世では届かなかった音の精度が、この身体では最初から揃っている。あとは、組み立てだ。

 指先に、意識を集める。

 影の底から、何かが応える気配がした。

 前世の路地裏で感じた、液体のように波打つ感覚。ただし、あの時のような暴走ではない。もっと静かで、もっと従順な、鎖そのものが俺の声を待っているような気配。呼吸が、勝手に深くなる。子どもの小さな肺が、初めてその容量を全部使って、冷えた石の匂いと、蝋燭の脂の匂いと、遠い夜明けの湿った風の匂いとを、一息に吸い込んだ。

 俺は掌を石畳の影の上に翳したまま、音節を紡いだ。意味と響きを、初めて同時に握りしめて。

 影が、ゆらりと揺れた。

 石畳の継ぎ目から、細い銀の線が――前世とは違う、針の先ほどの細さで――静かに、音もなく伸び上がってきた。針金のようでいて、鎖の節目がはっきりと見える。一節、二節、三節。俺の掌の下で、小さな銀の鎖がとぐろを巻いた。暴走しない。焼けない。俺の意思通りに、そこにいる。指先に触れた一節は、金属のくせに体温より少しだけ温かく、脈のようなごく微かな震えを返してきた。

 息が、止まった。

 前世の五百回の朝が、今この瞬間、指先の一節に凝縮されていた。噛まない詠唱。歪まない術式。意図した通りの顕現。前世の凡才が、喉から手が出るほど欲しかった「意図通り」の三文字が、小さな掌の上で銀色に光っている。喉の奥から、笑いとも嗚咽ともつかない短い息が漏れた。笑えばいいのか泣けばいいのか、身体がまだ決めかねている。けれど指先だけは迷わなかった。鎖の一節を、そっと、壊れ物を扱うように撫でる。冷たくて、温かい。硬いのに、柔らかい。矛盾した感触が、確かに掌に在った。この小さな一節が、前世の五百回ぶんの朝より重い。そう思った途端、肩からすっと力が抜けて、石畳の冷たさが膝裏に沁み込んできた。

 視界が滲んだ。

 今度は迷わない。これは喜びだ。怒りでも、悔しさでもない、純粋な喜びだ。涙が、子どもの薄い頬を一筋だけ伝い落ちた。塩の味が、唇の端にそっと届いた。前世で流したどの涙よりも、軽くて、熱かった。

 銀の鎖が、俺の意思に応えて、す、と影の底に沈んでいく。呼べばまた出てくる。そう、確信できた。

 二つの月が、西の稜線に半分沈んだ。碧の月が先に消え、白い月だけが最後の光を石畳に落とす。俺はゆっくりと立ち上がった。足裏の冷たさは、もう苦ではなかった。

 その時――鉄格子の外、塔の遥か下方で、馬の蹄の音がひとつ、響いた。

 一頭。ただ一頭きりの、旅人のものとも巡回兵のものとも違う、重たい歩調。石畳を踏む蹄の音が、塔の壁を伝って妙にはっきりと届く。俺は窓辺に駆け寄った。鉄格子の隙間から見下ろした塔の麓に、黒い外套の人影がひとつ、馬を降りていた。

 月光がその横顔をかすめる。片目に、黒い眼帯。

 旅人は顔を上げて、まっすぐに俺のいる塔の窓を見上げた。距離があるはずなのに、その視線は正確に俺を捉えていた。隻眼の奥で、何かが静かに光った気がした。

 影の底で、銀の鎖が、もう一度だけ小さく鳴った。

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