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転生令嬢、湯気の向こうに

第1話 第1話

第1話

第1話

桜が、誰かの忘れものみたいに机の上に落ちた。

 四月の教室は、知らない匂いでできていた。チョークの粉と、真新しい上履きのゴム、それから誰かのシャンプーの甘さ。窓の外では校庭の桜が終わりかけていて、風が吹くたびに花びらが一枚、二枚と落ちてくる。そのうちの一枚が、開け放した窓をくぐって、私の机にたどり着いた。  指先でつまむ。薄桃色の花びらは、前世で見たどんな宝石よりも軽かった。触れた瞬間にふっと体温を吸われるような、頼りない冷たさ。爪の先で透かしてみると、葉脈みたいな筋がうっすら走っていて、そのひとつひとつが、この国の春の、知らない誰かの指紋のように思えた。  ——柊アリシア。十六歳。三組の転入生。  黒板に書かれた自分の新しい名前を、私はまだうまく自分のものにできていない。口の中で「アリシア」と転がしてみても、舌の先が迷子になる。リーゼロッテ・フォン・ハルトマン。長すぎた本当の名前は、あの夜、石畳に落ちて砕けたまま、もうどこにもない。婚約破棄、と震える声で宣告された瞬間の、燭台の光の揺れ。取り巻きたちの冷たい笑い声。扇の陰で交わされた目配せ、絨毯に落ちた薔薇の一輪、父の沈黙。公爵令嬢として生きた十九年は、扇子の骨が折れるみたいに、あっけなく終わった。  気づいたら、十六歳だった。この国の、この制服の、この教室の、窓際の席にいた。肺に入ってくる空気は、薔薇水ではなく、誰かの鞄に入った教科書のインクの匂いがする。  ——もういい。  桜の花びらを、ノートの隅にそっと挟む。もう誰にも傅かれなくていい。その代わり、もう誰にも奪われない。静かでいい。地味でいい。窓際で、ひとりで、季節の変わる匂いだけを数えて生きていく。それくらいの控えめな願いを、神さまは聞いてくれるだろうか。この国の神さまは、どうやらドレスの裾も跪く作法も知らないらしいから、きっと聞き届けてくれる気がした。  ホームルームの終わったあとの教室は、まだ他人同士のぎこちなさで満ちていた。前の席の女の子たちが小声で笑い合い、後ろでは男子がペットボトルを投げ合って先生に怒られている。誰かの消しゴムが床に跳ね、誰かの筆箱のファスナーがじーっと鳴る。その雑多な物音が、ふしぎと耳に優しかった。私はリボンの結び目にそっと触れた。きつく締めすぎたのか、首の後ろがちりちりと痛む。ドレスの編み上げに比べれば、こんなもの——と思いかけて、前世の癖が出そうになる自分に、慌てて息を呑んだ。背筋を伸ばしかけた姿勢を、わざと少しだけ丸める。令嬢の立ち方を、まず忘れること。それが、今日の私の最初の宿題だった。

 「……あの」  声は、右のほうから、とても控えめに落ちてきた。  顔を上げると、隣の席の女の子が、少しだけ身体をこちらに傾けていた。後ろでひとつに結んだ黒い髪、小さな丸眼鏡、制服の襟元までまっすぐなシャツ。机の角には「三組 湊」と書かれたネームプレートが貼ってあって、そこだけが妙にきちんとしている。筆箱もノートもぴしりと平行に並んでいて、持ち主の性格がそのまま机の上に写し取られたようだった。  「柊さん、でいいのかな。えっと、私、湊。学級委員やってる。……もしよかったら、机の中、掃除しとこうか。前の人、プリント入れっぱなしにしてることが多くて」  淡々とした声だった。私を珍しがる気配もなく、媚びる気配もなく、ただ事実だけを手渡してくるような。社交界の令嬢たちが放つ、蜜と針の混じった声とはまるで違う。透明な水を、そのまま湯呑みに注いでくれるような声だった。  「……ありがとう」  ようやく出した声は、自分でも驚くほど掠れていた。湊はそれに何も言わず、軽く頷くだけで、自分の席に戻って文庫本を開いた。放っておいてくれる、と思った瞬間、肩から力が抜けるのがわかった。息を吐くと、胸の奥で張りつめていた細い糸が、ひとつ、ほどけた気がした。  窓の外で、吹奏楽部の音合わせが始まる。遠くの体育館から、トランペットの音が風に乗って届く。ド、と一音、ためらうように伸びて、途中でかすれて、また吸い込まれる。前世の宮廷楽団の、きらびやかなファンファーレとはまるで違う、どこか鼻先のゆるい音。けれど嫌いじゃない、と思った。綺麗に磨かれた金よりも、少しだけ息の混じったこの音のほうが、今の私にはちょうどいい。完璧じゃないものを、完璧じゃないまま受け取っていい——そんな許しみたいに聞こえた。  指先で、またノートに挟んだ桜の花びらに触れる。薄い、薄い、透けるような一枚。

 「——それと」  文庫本のページをめくる音と一緒に、湊の声がもう一度落ちてきた。  「リボン、逆。それ、結び目が上下逆になってる」  「え」  思わず胸元を見下ろす。言われて初めて、右と左を取り違えていたことに気づいた。前世のドレスには、こんな蝶々の形の飾りなんてなかった。胸元を飾るのはいつも侍女の仕事で、私はただ腕を広げて立っているだけでよかったのだ。頬がじわりと熱くなる。十九年間、完璧に装うことだけを仕込まれてきた令嬢が、たかがリボン一本で狼狽している。おかしくて、情けなくて、少しだけ泣きそうになる。  「……直し方、わからなくて」  認めた瞬間、自分の声がひどく子どもっぽいことに気づいた。公爵令嬢リーゼロッテは、こんな言い方を絶対に許されなかった。「わからない」は、令嬢にとって最大の罪のひとつだったから。けれど、柊アリシアは——まだ、何者でもない。わからないと言っても、誰も扇の陰で笑わない。その事実が、胸のいちばん柔らかいところを、そっと撫でていった。  湊は本を閉じ、椅子をほんの少しこちらに寄せた。椅子の脚が床を擦る音が、やけにはっきりと響いた。  「ん。じゃ、明日の朝、早めに来て。結び方、教えるから」  それだけ言って、彼女はまた本を開いた。余計なことは何も聞かない。どこから来たのとか、前の学校はどこだったのとか、家はどこなのとか。その素っ気なさが、今の私には、どんな優しい言葉よりもありがたかった。優しさというものが、必ずしもたくさんの言葉でできていなくていいのだと、初めて知った気がした。  「……うん」  頷いて、窓の外を見る。桜は、まだ散り続けていた。あの夜、石畳に崩れ落ちた令嬢の背中を覆ったのは、確か篝火の赤だった。焦げ臭い風と、誰かの靴音と、遠ざかっていく馬車の車輪。今、私の肩に落ちてくるのは、ただの薄桃色の花びら一枚。それだけで、どうしてこんなに息がしやすいんだろう。胸の奥の、ずっと固く結ばれていた何かが、ほろりと一粒ほどけていくのがわかる。  ——もう誰にも傅かれない、けれど誰にも奪われない。  もう一度、胸の中で呟く。静かでいい。地味でいい。このままでいい。  そう、決めたはずだった。

 その日の午後、家庭科のオリエンテーションで配られたプリントに、来週の「調理実習」の四文字を見つけるまでは。  エプロン持参、班分けは隣席同士。献立は——ミネストローネ。  指先が、勝手に跳ねた。前世の厨房で、深夜に何度もこっそり混ぜたあの鍋の匂いが、一瞬で鼻の奥に蘇る。玉葱を炒める甘い湯気、トマトが煮崩れていく低い音、隅っこで見張り役をしてくれた下働きの少年の、眠そうな横顔。令嬢が厨房に立つなんて、と叱られながらも、あの鍋の前だけは誰の目も気にしなくてよかった。いけない、と思った。目立たないように、普通に、平凡に、誰の記憶にも残らないように作らなければ。せっかく手に入れた「何者でもない」という席を、こんなところで手放すわけにはいかない。  けれど、プリントを握る私の手は、もう少しだけ熱くなっていた。紙の端がくしゃりと歪み、その皺の中に、抑えきれない小さな昂りが滲んでいる。隣の席では湊が、同じプリントを眺めながら、ほんのかすかに口の端を持ち上げている。まるで、何かを予感しているみたいに。  窓の外で、また一枚、桜が落ちた。  静かな日々のはずだった、二度目の春。その縁が、ほんの少しだけ、ほどけはじめた音がした。

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