第3話
第3話
番茶は、思ったより熱かった。 舌先に触れた瞬間、俺は湯呑みから少しだけ口を離した。口を離したのに、湯気はまだ顔のすぐ前で漂っていて、その白さの向こうに、老人の背中が見えたり隠れたりしている。雨の音は、硝子戸の向こうでだいぶ遠くなっていた。遠くなってはいたが、消えてはいない。消えないまま、路地のどこかで、水が細く流れ続けているのが耳のずっと奥に届いてくる。 盆の上には、白飯がほんの少しだけ残っていた。半口分もない、ほとんど粒を数えられるくらいの量だ。ふだんの俺なら、そのひとすくいをすぐに掬って、口に運んでしまうはずだった。残すことが、自分をさらに安くしてしまう気がする、とけさ自分で思ったばかりだった。それなのに、俺の右手は箸を握ったまま、宙で少しだけ止まっていた。 止まっていた理由は、すぐには分からなかった。 ただ、カウンターの端の、布きんに戻されかけた椀のことが、どうしても目の端から外れてくれないのだ。老人はもう視線を椀から上げていて、湯呑みに手を伸ばしかけている。動き出そうとしている空気が、カウンターの上をゆっくりと滑ってくるのが分かった。動き出したら、布きんの結び目が閉じられて、俺はもうあの半分掘られた内側を見られなくなる。見られなくなる、ということが、なぜかきょうの俺には、少しだけ惜しかった。 惜しい、という言葉を、俺は久しぶりに自分の中で使った気がした。
割烹着の人が、奥の厨房で小さな鍋を動かす音がする。蛍光灯のちりちりという明滅は、さっきよりほんの少しだけ間隔が短くなったような気もしたが、気のせいかもしれない。きょうの俺は、気のせいを数えるのが上手だ。 老人が湯呑みを取ろうとした手を、ふと止めた。 止めた先に、箸置きがあった。白い小皿のような、ただの陶器の箸置き。その上に、老人の使っていた黒塗りの箸が、ほんの少しだけ斜めに載っている。先の細いほうが箸置きから半分ほどはみ出していて、柄の太いほうがカウンターの木目のほうへ向いていた。斜めになっているだけで、落ちるわけではない。誰が気にするわけでもない。気にするところですらない。 それなのに、俺の手は、すでに動いていた。 自分でも分からないうちに、俺は腰を浮かせて、カウンターに身を半分乗り出していた。箸を持ったままの右手で、老人の箸の柄の端に、人差し指と親指の腹だけをそっと添える。冷たい、と思った。使っていない時間のぶんだけ、木の柄が少し冷えていた。その冷たさを壊さないように、俺は箸を箸置きの上で、ほんの数ミリだけ動かした。先の細いほうを箸置きのくぼみのいちばん深いところに、柄の太いほうを木目の走っている向きに沿わせる。角度にして、たぶん十度にも満たない直し方だった。直したあとで、俺は自分の指先をそっと離した。離した指先に、さっきの木の冷たさがうっすら残っていた。 動作は二秒もなかったはずだ。 けれど、二秒が終わった瞬間、俺は自分が何をしたのかにようやく気づいた。気づいて、ぞっと背筋が冷たくなった。知らない人の食器に、勝手に触れた。それも、断りもなく。俺は慌てて箸を自分の盆の上に戻し、背中を椅子に押しつけるようにして座り直した。膝の上で、両手がかすかに汗ばんでいるのが分かった。心臓が、耳のすぐ内側で鳴っていた。 すみません、と言おうとして、言葉は喉の手前で詰まった。詰まったまま、出てこなかった。出てこないほうが、かえって正しい気もした。謝ったら、きっとこの店の空気の中で、俺の声だけが浮いてしまう。そんな気がした。 老人は、しばらく動かなかった。 湯呑みに伸ばしかけた手を途中で止めたまま、箸置きの上の自分の箸を、まず見た。俺が直した角度を、たぶん一秒か二秒、確かめた。それから、ゆっくりとその視線を、カウンターの木目を伝わらせるようにして、こちらへ移してきた。 目が合った、という感じではなかった。 老人の目は、俺の顔のあたりを一度だけ通り過ぎて、それから俺の右手の甲のあたりで、ほんの少しだけ止まった。その止まり方は、さっき椀の縁のどこか一点で指が止まったときの、あの止まり方に少し似ていた。引っかかりのある場所を、ただ覚えておくような止まり方。 「お前、手が丁寧だな」 低い、少しかすれた声だった。 言い終えると、老人はもう俺のほうを見なかった。視線は湯呑みの湯気に戻っていて、さっきまでと何も変わらない横顔に戻っている。言葉の余韻のようなものも、その顔のどこにも残っていなかった。ひとりごとに近い言い方だった。言いっぱなしの、返事を待たない声。 それなのに、俺の中で、何かがひどく大きく揺れた。
揺れた、と言っていいのかどうかも、本当は自信がない。 ただ、俺は湯呑みを両手で包んだまま、しばらく息をうまく吸えないでいた。息を吸おうとするたびに、胸の真ん中のあたりが、ほんの少しだけつかえる。つかえて、そのつかえの場所に、さっきの「手が丁寧だな」という一言が、ひっかかって留まっている気がした。ひっかかる、というのは痛いはずの言葉なのに、ぜんぜん痛くなかった。痛くないのに、外してほしいとも思わなかった。 丁寧だな、と誰かに言われたのは、いつ以来だろう。 すぐには思い出せなかった。思い出せないほど、遠くにしかその言葉はなかった。コンビニでパンの期限を貼り替えるとき、俺は誰にも見られずにシールの端を押さえている。押さえながら、これを誰かが見ていてくれたら、と思ったことは、正直に言えば、一度もなかったわけではない。けれど思うたびに、俺はその思いをすぐに仕舞い込んだ。見られていない、ということに慣れるほうが、たぶん自分にとっては楽だったからだ。見られていない、という前提で生きていれば、見られていなかったことで傷つかずに済む。俺はそうやって、自分の手元の一手間を、ずっと自分のものだけにしてきた。 それが、きょう、いきなり見られた。 見られた、と認めた瞬間、頬の裏側がじんと熱くなった。河川敷のベンチで呟いたときと同じ種類の熱だった。でも、あのときの熱はどこにも行き場がなくて、川の流れる音に押し返されるしかなかった。きょうのこの熱は、少し違っていた。行き場所があるわけでもないのに、押し返されるべき流れもない。ただ、頬のあたりに留まって、ゆっくりと体のほうへしみ込んでいく。しみ込まれる、という感覚があること自体に、俺はたぶん慣れていなかった。 老人のほうを、もう一度だけ見た。 横顔は、さっきと同じ湯気の向こうにあった。何も変わっていない。俺が箸の角度を直したことも、老人がその直しに気づいて短く何かを呟いたことも、まるで最初からなかったみたいな横顔だった。なかったことにしてくれている、と言ってもいい気がした。老人は、俺が勝手に触れたことを咎めなかった。咎めない代わりに、ひとこと置いてくれた。置いて、あとは何も要求しなかった。要求されない親切の受け取り方を、俺は知らない。知らないまま、俺の手は湯呑みを、いつのまにか少し強く握っていた。 湯呑みのふちに、番茶の湯気がまだ細くのぼっている。 その湯気の向こう、布きんにしまわれかけていた椀が、もう一度見えた。老人は結局、まだ布きんの結び目を完全には閉じていなかった。片方の端がカウンターの上に流れて、椀の縁の一部分だけが、覗いている。ちょうど、俺がさっき目で追いかけていた、あの削り跡の山のひとつが、蛍光灯の光の下で、白っぽく浮いたまま残っていた。
それから、どれくらいの時間、俺はその木目を見つめていただろう。 壁の時計の秒針は相変わらず部屋の中を歩き回っていたが、その歩幅が、さっきとは別のものに変わっていた気がする。早くもなく、遅くもなく、ただ俺の呼吸のほうへ、少しだけ寄り添っている歩幅だった。俺は箸も持たず、茶碗も持たず、ただ湯呑みを両手で包んだままで、椀の縁の一点を見ていた。見ているうちに、木目の小さな谷のひとつが、川の流れに似ていると思った。思ってから、そういう似たもの探しを自分がすることに、少しだけ驚いた。このごろの俺は、何かを何かに似ている、と思う余裕さえなくしていたはずだった。 そのうち、厨房で鍋の火が落とされた。割烹着の人が、小さな布巾でカウンターの端を拭きはじめた。閉店の支度だと、言葉にされなくても分かった。それでも俺は、湯呑みを置かなかった。置いたら、椀から目を離さなくてはいけなくなる気がした。外の雨はもうほとんどやんでいたが、路地の石畳から立ちのぼる、雨上がりの匂いが、戸の隙間から細く流れ込んできていた。土と、少しだけ古い木の匂い。俺はその匂いを、胸の奥のつかえのあたりに、そっと重ねてみた。重なったかどうかは、分からなかった。 老人は、俺より先には立ち上がらなかった。 立ち上がらないまま、湯呑みを置き、布きんの端を指の腹で一度だけならした。ならして、それからまた、半分だけ掘られた椀の内側に、ゆっくりと視線を戻した。俺は、その横顔の奥で、さっきの「手が丁寧だな」という一言が、もう一度、ほんのかすかに、唇の内側で鳴ったような気がした。鳴ったのは、たぶん俺の胸のほうだった。
閉店の時間になって、俺はようやく立ち上がった。 六百円を小銭で払った。割烹着の人は、釣りはないはずの金額にも、小さく頭を下げた。硝子戸に手をかけるとき、俺はもう一度だけ、カウンターの端を振り返った。老人はまだ座っていた。椀は布きんにしまわれていて、もう縁の一点は見えなかった。見えないのに、俺の目の奥には、さっきの白っぽい削り跡の山が、まだはっきりと残っていた。 外に出ると、空気が洗われていた。 アパートまでの道を、俺はゆっくり歩いた。歩きながら、右手の人差し指と親指の腹を、何度か、服の布地にそっと擦りつけた。木の柄の冷たさは、とっくに消えていた。消えていたのに、消えたという感じがしない。指のどこか深いところに、まだ何かが残っている気がしてならなかった。部屋に帰ったら、本棚の奥に、まだあるだろうか。あるはずはない、と思いながら、あるかもしれない、と思っている自分の足音が、いつもより少しだけ、前のめりだった。