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匙を削る

第2話 第2話

第2話

第2話

硝子戸は思ったより重かった。  両手で押したつもりが、建て付けの悪い木枠が一拍ぶん遅れてきしみ、引き戸のほうだったのだと気づいたときには、もう半分だけ開いてしまっていた。中から、湯気と、出汁の匂いと、誰かの低い咳払いが、いっぺんに顔に当たった。雨に濡れた前髪から水滴が一粒、唇のあたりに落ちてくる。俺は慌てて、それでも音を立てないように戸を引き直した。戸車が畳の目のような音でころころと鳴った。 「いらっしゃい」  声は思ったより小さかった。奥の厨房から、割烹着の女の人がちらりとこちらを見て、それだけだった。歓迎でも、拒絶でもない。ただ、そこにいることを許された、という程度の声。俺はその声の薄さに、かえって少しだけ息が楽になった。  店は狭かった。カウンターが六席、奥に小さな座敷がひとつ。蛍光灯のうちの一本が、ちりちりと切れかけていて、その明滅に合わせて壁の品書きの紙がわずかに揺れて見える。アジフライ定食、肉じゃが、焼き魚。どの字も、墨で書かれたまま何年も貼りっぱなしになっている様子で、端が黄ばんで反り返っていた。俺は一番端の席まで歩き、そっと腰を下ろした。座面のビニールに、前の客の体温がまだ少しだけ残っているような気がした。 「濡れたね」  割烹着の人がおしぼりを置いた。熱かった。指先からじんと温もりが昇ってきて、ああ、俺の手はこんなに冷えていたのか、と今ごろ気づく。俺は小さく頭を下げて、それを両手で顔に押し当てた。瞼の裏が、ほんの少しだけ痛かった。

 品書きの紙を順にたどっても、どれを選べばいいのか分からなかった。腹が減っているのかどうかも、本当はよく分からない。ただ、注文をしないとここにいる理由がなくなる気がして、俺は一番上に書かれていた「本日のおかず定食」を指でさした。「六百円のでお願いします」と言った声が、自分でも驚くほどかすれていた。割烹着の人はうなずきもせず、ただ「はい」とだけ答えて、奥に引っ込んだ。  そのとき初めて、俺はカウンターの反対側の端に、先客がいることに気づいた。  白髪の老人だった。  歳はよく分からない。七十にも見えるし、それより上にも、あるいは案外もう少し下にも見える。痩せているわけではないのに、背中だけが不思議と薄く、着古した作業着のような紺色の上着が、その肩の骨のあたりで少しだけ余っていた。老人は湯呑みを両手で包むように持ったまま、湯気の向こうをじっと見ている。視線の先に何があるわけでもない。ただ見ている、という顔だった。  俺は慌てて目を伏せた。人をじろじろ見る癖は、俺にはないはずだった。ないはずなのに、きょうはなぜか、その横顔から視線がうまく引き剥がせなかった。雨の音が窓を叩いている。誰も何もしゃべらない。壁の時計の秒針だけが、妙にはっきりと部屋の中を歩き回っていた。  やがて、割烹着の人が小さな盆を運んできた。  白飯、味噌汁、ひじきの小鉢、焼いた鯖が一切れ、漬物。何ひとつ珍しいものはない。珍しくないのに、湯気の立ち方だけが、コンビニの弁当のそれとはまるで違っていた。ふわり、という言葉が頭をかすめた。使い慣れない言葉だ。俺は箸を取り、「いただきます」と唇の中で呟いた。声には出さなかった。出してしまうと、何か、別のものまで一緒にこぼれ落ちそうな気がした。  味噌汁を一口すすった。だしが、舌のずっと奥のほうで、ゆっくりとほどけていく。熱い、と思ったあとで、しばらくしてから、ああ、うまい、とようやく思えた。うまい、という感覚を、俺はこのごろ誰かに教わらないと思い出せなくなっている。鯖の皮が香ばしかった。白飯を一口、ひじきを一口、また白飯。食べながら、俺は自分の肩の力が、少しずつ下りていくのを感じていた。下りていく、という感覚がある、ということに、下り始めてからやっと気づいた。

 飯の半分ほどを食べ終わったあたりで、ふと、カウンターの端から視線を外せなくなった。  老人の手元だった。  湯呑みの隣に、布きんに包まれた何かが置かれている。最初は財布か、眼鏡入れかと思った。けれど老人がゆっくりと布の端をめくったとき、中から現れたのは、木の椀だった。  まだ彫りかけの椀だった。  高台のあたりに、鑿の刃の跡がくっきりと残っている。内側はまだ半分ほどしか掘り進められていなくて、縁の厚みも均一ではない。表面には削りかすがまだ少し残っていて、厨房の蛍光灯の光を受けて、木の色がところどころ白っぽく浮いていた。栗の木だろうか、欅だろうか。そんなことは俺には分からない。分からないのに、俺は箸を持ったまま、しばらく動けなくなっていた。  老人はその椀を、両手で持ち上げて、目の高さに掲げた。掲げて、ただ見ている。見ながら、指の腹で内側の削り跡を、ごくゆっくりと撫でた。撫でたあと、もう一度、角度を変えて、また撫でた。何か確かめているようにも、何も確かめていないようにも見えた。唇の端がほんの少しだけ動いたが、言葉にはならなかった。  老人の指は、節が太かった。爪のきわに、削りかすだろうか、薄茶色の粉がわずかに残っている。その指が椀の縁を一周すると、縁のどこかで一度だけ、ほんのわずかに止まった。止まって、それからまた動きはじめる。引っかかりのある場所を覚えておくような、そんな止まり方だった。老人は椀をゆっくりと傾け、光の当たる角度を変えた。蛍光灯の白い光が、内側のまだ荒い削り跡に沿って滑り、影が木目の谷のところでくぼんで、すぐに次の山へ移っていく。その影の動きを、老人は目で追うでもなく、追わないでもなく、ただそこに置いていた。見ている、というより、椀のほうから何かを聞いているような気配だった。  俺は、その動きから目が離せなかった。  なぜ、と自分に問いかけてみても、答えは出てこない。コンビニのパンの期限をなぞる自分の指と、その老人の指先は、違うもののはずだった。まるきり違うもののはずなのに、指が何かに触れる、その触れ方のどこかが、ほんの少しだけ似ている気がした。似ている、という言葉はたぶん正しくない。もっと別の言い方があるはずだった。でも俺には、その言い方がどうしても見つからなかった。  ふいに、胸の奥のほうが、小さく鳴った。  鐘とも、軋みとも違う。言ってしまえばただの静けさなのだけれど、さっきまでの静けさとは別の種類の静けさが、そこに置き直されたような感じだった。河川敷のベンチで、俺は自分の手のひらを久しぶりにまともに見た。あのときの視線と、いま俺が椀を見ている視線が、どこかで繋がっている気がした。繋がっている、ということに、俺はうまく名前をつけられない。  味噌汁が、少しぬるくなっていた。  鯖の身を箸でほぐしながら、視線だけは、また椀に戻ってしまう。戻しては外し、外してはまた戻す。老人は俺のことなど見ていない。見られていないのに、俺のほうが、勝手に何かを差し出しているような気分になっていた。差し出している、というその感じが、俺にはひどく不慣れだった。ここ数年、俺は誰に対しても、何も差し出さずに済むように、少しずつ間合いを広げて生きてきたはずだった。広げた間合いの内側で、自分の輪郭だけを、なるべく薄く保ってきたはずだった。それなのに、見ず知らずの老人の、見ず知らずの手元の、見ず知らずの木の椀に、俺はいま、ほんの小さな何かを、こっそり置きに行こうとしている。置きに行って、置いたことにも気づかれずに戻ってきたい、と思っている。その身勝手さが、なぜか、きょうは許されているような気がした。誰にでもなく、ただ、雨の音と蛍光灯の明滅に対して、許されているような気がした。

 どれくらい、そうしていただろう。  気がつけば、盆の上の飯はほとんどなくなっていて、外の雨音が少しだけ遠くなっていた。強い雨の山は越えたのかもしれない。割烹着の人が、俺の前に湯呑みを一つ置いた。番茶の匂いが立ちのぼる。熱い湯気の向こうで、老人はまだ彫りかけの椀を布きんに戻そうとしていた。戻す手つきが、ひどく丁寧だった。赤ん坊の頬を包むような、と書いたら陳腐だと思う。思うのに、他にどう言えばいいのか分からなかった。  俺は湯呑みを両手で包んだ。手のひらの冷たさが、じんわりと熱に溶けていく。  この店に、また来るだろうか、と俺は思った。思ってから、また来る、というその四文字を、自分が久しぶりに使ったことに気がついた。来週の自分のことを想像する、ということを、俺はこのごろほとんどしなくなっていた。しないことで、何かを痛まずに済ませていた。  それなのに、いまは、布きんの中に戻されていくあの木の椀の、半分だけ掘られた内側のことを、もう一度見たいと思っている自分がいた。  ただそれだけのことだった。ただそれだけのことが、きょうの俺にはなぜか、ひどく大きかった。

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