第1話
第1話
目が覚めると、まだ父の声が耳の奥に残っていた。 「あんたには期待してない」 何度目の夢だろう。布団の中でしばらく天井を見ていた。古いアパートの天井は、雨染みが隅のほうに広がっていて、その輪郭が去年より少し大きくなった気がする。気のせいかもしれない。たぶん、気のせいだ。俺は毎朝、気のせいだと思うことにしている。気のせいにしておかないと、一日が始まらない。 枕元の携帯を手探りで掴む。六時四十二分。アラームより先に目が覚めてしまう癖は、もう何年も直らない。体を起こすと、畳の縁に小さく埃が溜まっていた。掃除機はある。ただ、昨日もその前も、そこに手を伸ばすだけの理由が俺の中に見つからなかった。埃は、見ないふりをすれば増えないものだと、どこかで信じているのかもしれない。 台所で水を一杯飲む。蛇口の根元に、白い水垢が年輪みたいに重なっている。コップを置く音がやけに響いた。六畳と台所だけの部屋は、音がどこにも吸い込まれないで、いつも少しだけ多く戻ってくる。喉を通った水は、冷たいというより、ただ味がなかった。 窓の外で、誰かの自転車のベルが鳴った。朝の住宅街を、たぶん新聞配達が走っていく。ベルの音が遠ざかるのを聞きながら、俺はもう一度、天井の染みを眺めた。あの染みは、いつか俺の頭の上に落ちてくるんじゃないかと、子供みたいなことを思った。思ってから、少しだけ自分を笑った。 きょうもコンビニへ行く。それしか、俺には決まっていることがない。
店に入ると、年下の店長がレジの奥で舌打ちをした。 「遅くね? 拓海さん」 時計は八時五十七分。遅刻ではない。けれど俺は「すみません」と言った。言うのが、いちばん早く時間を進める方法だと、いつのまにか覚えていた。店長は俺より四つ下で、俺のことを下の名前にさん付けで呼ぶ。その呼び方のどこかに、小さな針のようなものが混じっているのを、俺はもう気にしないことにしている。気にしたら、針は抜けないまま、どんどん奥に入っていくだけだ。 「パン、期限見といて。古いの奥な」 はい、と答えて、俺はパンの棚の前に膝をついた。床のタイルは冷たく、膝頭にじんわりと冷えが広がる。菓子パンの袋を一つずつ手に取り、底のシールを確かめる。きょうの午前で切れるもの、夕方までのもの、明日までのもの。指先で日付をなぞりながら、俺は古いほうを手前に出していく。誰かに見られたら、きっと逆だと怒られる順番で。クリームパンのビニールが、指先でかさりと乾いた音を立てた。 本当は、奥にしまうだけでいい。けれど俺は、いつも少しだけためらってから、もう一度シールをめくる。新しい日付のシールを、古いものの上に、そっと貼り直す。指の腹で、皺が寄らないように端を押さえる。店長はそこまでやれとは言っていない。言っていないのに、俺はやっている。 「丁寧だな」なんて、誰も言わない。ただ、俺はこの一手間をやめられなかった。やめてしまったら、自分の手の中に残るものがもう何もない気がして、怖かったのかもしれない。たぶん、この小さな一手間だけが、俺が世界に置いてきた数少ない印のようなもので、それを手放したら、俺はほんとうに何者でもなくなってしまう。 朝の客が来る。コーヒーのボタンを押し、肉まんを袋に入れ、温めた弁当にスプーンを添える。「ありがとうございます」と言うたびに、声のどこかが少しずつ擦り減っていく。鏡に映る自分の顔を見ないようにしながら、俺はお釣りを数える。硬貨の縁が指先に食い込んで、少しだけ痛かった。二十七歳。年齢を口に出すと、それだけで息が浅くなった。同級生が何をしているのか、もう何年も調べていない。調べないことで、俺はかろうじて立っていられた。 昼前、レジの奥でおにぎりを一つ食べた。海苔が湿っていた。それでも俺は、米粒を一つも残さないで食べる。食べ終わってから、自分がなぜそんなに丁寧に食べたのか、少しだけ考えた。答えは出なかった。ただ、残すことが、自分をさらに安くしてしまうような気がしただけだ。
夕方、上がりの時間になった。店長は「お疲れ」とも言わず、スマホを触っていた。画面の光が店長の顎の下を青白く照らしていて、その無関心が、きょうはなぜかいつもより平たく感じられた。俺はタイムカードを押し、バックヤードで制服を脱ぐ。ロッカーの中に、くしゃくしゃになったレシートが一枚落ちていた。いつのものか分からない。俺はそれを、捨てずにポケットにしまった。捨てる、という動作が、きょうはなぜかうまくできなかった。紙の端が指に触れた瞬間、これを捨てたら次は自分の番だ、と馬鹿げた考えが頭をよぎって、俺はそれを振り払えなかった。 外に出ると、空が低かった。灰色の雲が、屋根のすぐ上を流れていく。雲のひとつひとつに、湿った綿のような重みがあって、見上げているだけで肩のあたりがじわりと重くなる気がした。家に帰る前に、少しだけ遠回りをしようと思った。まっすぐ六畳に戻ると、あの天井の染みと目が合ってしまう。それが、きょうは少しだけ、嫌だった。 河川敷のベンチまで歩いた。草の匂いが湿っていて、川の水面に、街灯の光がゆっくり揺れている。どこかで、水鳥が一度だけ短く鳴いた。その鳴き声は、問いかけのようにも、ただの寝言のようにも聞こえた。ベンチに腰を下ろすと、木の板がひやりと冷たかった。座面の端に、誰かが彫った小さな文字の跡があって、指でなぞってもなんと書かれていたのかは、もう読めなかった。膝の上で手を組む。自分の手のひらを、久しぶりにまともに見た気がした。節くれだった指、爪の形、親指の付け根の小さな傷。いつついた傷か、もう思い出せない。この手で、俺はきょう何をしただろう。パンの期限を貼り替えた。お釣りを数えた。それだけだ。それだけのために、俺の体はきょうも一日分ちゃんと疲れていた。肩の奥に、鈍い芯のような疲れが残っていて、それを撫でてくれる手は、どこにもなかった。 空を見上げた。星はまだ出ていない。雲の切れ間に、夕方の残りの青が少しだけ残っている。その青は、子供の頃に見た絵の具の、いちばん薄い色に似ていた。ちびた水彩絵の具をパレットで溶かしすぎて、先生に「もう色じゃないよ」と笑われたことを、ふいに思い出した。あのとき俺は、笑い返せなかった。笑い方を知らない子供だった、と今になって思う。 「俺は、何をしに生まれてきたんだろう」 声に出したつもりはなかった。けれど唇が確かに動いた。動いたあとで、俺は自分の声が怖くなって、すぐに口を閉じた。誰かに聞かれたわけでもないのに、頬が熱くなった。耳の裏側まで、じんと熱が走った。川の流れる音が、その熱をすこしだけ押し返してくれた気がして、俺は顔を伏せたまま、しばらく呼吸を整えた。 家を出たあの日、玄関で母が何か言いかけた。最後に、唇が小さく動いて、そして飲み込まれた。あの動きが、何という言葉になるはずだったのか、俺はいまだに分からない。分からないまま、何年もたった。たぶん、もう聞けない。聞けないことに慣れたふりをするのが、いちばん楽だった。楽なはずなのに、河川敷の風に当たっていると、その「ふり」の下から、まだ乾いていない何かがじわりと滲んでくる気がした。目の奥が熱くなって、でも涙にはならない。涙になる手前で止まる癖も、いつのまにか身についていた。 風が吹いて、河川敷の草が一斉に傾いた。諦めは、いつのまにか癖になっていた。朝起きること、舌打ちに頭を下げること、期限を貼り替えること、ベンチで空を見上げること。そのどれもが、癖の一部だった。癖というのは、優しい言葉だ。本当はたぶん、もっと別の名前で呼ばれるべきものを、俺は癖と呼んで誤魔化している。
ベンチを立ち上がったとき、頬に一粒、冷たいものが落ちた。 雨だ、と思う間もなく、二粒目が落ちた。三粒目はアスファルトに黒い染みを作り、それが見る見るうちに広がっていく。俺は傘を持っていなかった。持っていない、ということに、なぜか少しだけ笑いそうになった。傘を持つというのは、きっと、帰る場所を信じている人間のやることだ。 駅とは反対の路地に、灯りがひとつ見えた。古い硝子戸の向こうに、誰かのシルエットが揺れている。看板の字はもう半分剥げていて、なんと読むのかも分からない。ただ、その灯りだけが、雨の中で妙にあたたかく見えた。濡れた路地の石畳に、その光がオレンジ色に滲んで落ちている。 俺は、そちらに向かって一歩、足を踏み出した。