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断頭台で目覚めた魔導令嬢

第3話 第3話

第3話

第3話

馬蹄の音は、まだ遠い。

 けれど、森の湿った空気を伝わる振動は、確実にこちらへ近づいていた。私は座り込んだまま、耳を澄ます。蹄鉄の音が三、四、いや──七。騎乗者は少なくとも七人。装備の金属音が微かに混じるから、軽装ではない。討伐隊か、あるいは巡回の騎士か。  竜の巨体は、私の目の前に横たわっている。金色の鱗が、木漏れ日を受けて鈍く光っていた。眉間から後頭部を貫いた白銀の線は、もう消えている。残っているのは、鱗の一点にぽつりと空いた、驚くほど小さな穴だけだ。あんなに巨大なものを沈めた痕跡が、針の先ほどしかないことが、自分でも可笑しかった。──三行。たった三行で、災害指定。記録に残したら、前世の査読者は全員、ページを閉じる。 「……座ってる場合じゃ、ないわね」  呟いて、私は地面に手をついた。膝はまだ笑っている。立ち上がろうとして、汚れた令嬢服の裾を踏んでよろけた。白い麻は泥と血と竜の体液で、もはや色の判別がつかない。髪の一房が頬に貼りついて、鉄と土の匂いがした。  頭の中では、すでに次の式が並んでいる。逃走用の空間歪曲式。鑑定の拡張式。相手が敵対してきた場合の、非殺傷の無力化式──これは、昨日までの私なら書けなかった類の式だ。殺さずに止める、という出力は、殺すより難しい。畳み込みの工程が一段増える。けれど、ここで騎士を一人でも殺せば、私は「森で竜を狩った魔導師」ではなく「森で人を殺した魔女」になる。情報の扱いを、間違えてはいけない。  前世の研究室で叩き込まれた癖が、こんなところで役に立っている。仮説を立てる前に、データの出所を確認しろ。実験を走らせる前に、結果がどう解釈されるかを先に考えろ。──今の私にとって、竜の死骸は実験結果で、近づいてくる馬蹄は査読者だ。

 馬蹄が、森の奥で一度、止まった。  誰かが短く命令を飛ばす声がする。よく訓練された声だ。怒鳴り声ではなく、端的に、短く、次の動作を指示する声。騎士団の指揮に慣れた人間の声だった。エドガルドの声を思い出しかけて、私は頭を振る。違う。あの男の声は、もっと甘ったれていて、自分の言葉に酔っていた。これは別の人間の声だ。自分の声を飾ることに、一切の興味がない声。  ざっ、と下生えを踏む音。馬を降りて、徒歩で近づいてきている。足音の間隔は均一で、数は四。残る三人は馬の位置に留めたのだろう。囲いを作る気はない、という意思表示だ。  私は、竜の死骸の陰にそっと身を移した。立ち上がる力はもう戻っている。指先も震えていない。ただ、判断を誤らないために、一拍だけ時間が欲しかった。舌の上に、まだ鉄の味が残っている。奥歯を一度噛みしめて、その味を飲み下した。  空中に、鑑定の三行を書き起こす。対象は、近づいてくる集団。  ──騎士、七名。等級:熟練。装備:辺境伯軍規格。先頭の一名、魔力反応、突出。  辺境伯軍。その四文字を読んだ瞬間、頭の奥で乙女ゲーの情報カードが一枚、めくれた。『星霜のアーデルハイト』の攻略対象の一人、辺境伯令息ライナス・ヴァルトハイム。寡黙で、剣の腕は王国随一。攻略難度は高く、初見ではまず落とせない──前世の私が徹夜でエンドを回収した相手だ。  嘘でしょう、と声に出しかけて、飲み込んだ。  嘘ではない。この世界がゲームのシナリオを忠実になぞっているなら、第一アークのこの時期、辺境伯家が森の異変を察知して討伐隊を出すのは設定通りだ。むしろ、私がここで竜を沈めたことで、イベントの発火点がわずかに前倒しされている。設計者のつもりで考えれば、シナリオは崩れていない。崩れているのは、主人公の席に座るはずだった義妹が、今ここにいないということだけだ。

 足音が、竜の死骸の反対側で止まった。  低い、抑えた声がする。 「……なんだ、これは」  若い。けれど、震えていない声。驚きを飲み込んで、まず状況を把握しようとする声。私は、竜の腹の陰から、そっと顔を覗かせた。  銀の籠手が先に見えた。次に、黒い外套の裾。そして、竜の眉間の小さな穴を見つめる、灰青色の瞳。  ライナスは、思っていたより背が高かった。ゲームのスチルでは分からなかったけれど、肩幅が広く、腰の剣は装飾ではなく使い込まれている。柄巻きの革は手の脂で黒ずみ、鍔の縁がわずかに欠けていた。毎日抜いている剣の顔だ。髪は黒に近い濃紺で、額に一筋、古い傷があった。彼は片膝を折り、竜の眉間の穴を指先で確かめ、それから、ゆっくりと顔を上げた。指先の動きは慎重で、まるで割れやすい硝子に触れるようだった。  視線が、竜の腹を回り込んで、私に届いた。  灰青色の瞳が、止まった。  私は、逃げる式の発動条件を、瞬き一回から、瞬き二回に変更した。条件を一段階、緩めたのだ。前世の癖で言えば、緊急停止ボタンから手を離したのと同じ。──この男は、いきなり剣を抜く類の人間ではない。そう判断した根拠は、彼が竜の穴を先に確かめたことだった。目の前に汚れた令嬢服の女がいても、まず状況証拠を確認する。指揮官の顔だ。 「……貴女が、やったのか」  ライナスの声は、抑えていたけれど、わずかに掠れていた。喉の奥で、驚きと警戒と、もう一つ別の何かが鬩ぎ合っている音だった。彼の背後で、他の騎士たちが息を呑む気配がする。誰かが剣の柄に手をかけた音もした。けれど、ライナスが左手を軽く上げただけで、その音は止んだ。指の角度ひとつで部下の動きが凍る。それだけで、この男が何年この役目にいるのかが分かった。 「答える前に、一つ訊いても?」  私は、できるだけ静かに言った。喉は乾いていたけれど、声は不思議と落ち着いていた。「貴方たちは、竜を討ちに来たのよね。目的は達成された。この場で、私を敵と見做す理由は?」  前世の学会発表で、質問者に切り返すときの声に近かった。論点をずらさない。先に相手の立場を明確にさせる。  ライナスは、瞬きを一つした。それから、ゆっくりと立ち上がった。剣の柄には、手をかけていない。 「……理由は、ない」  短く、そう答えた。「ただ、貴女が何者か、確かめる義務はある」  誠実な答えだった。拍子抜けするほど、誠実だった。嘘や駆け引きの匂いがしない。私は、ほんの一瞬、返す言葉を探して迷った。前世でも今世でも、こんなに真っ直ぐな声を、向けられたことがなかった。胸の奥で、鑑定式の数値とは別の何かが、一拍、余計に跳ねた。  ──ああ、これは厄介だ、と思った。敵意より、誠実の方が、ずっと私の設計図を崩す。

 ライナスは、竜の腹を回り込んで、一歩、こちらへ近づいた。ブーツが落ち葉を踏む音が、やけに大きく聞こえる。距離は、およそ五歩。剣の間合いには、まだ入っていない。入るつもりもないのだろう、と彼の足運びが語っていた。踵から入らず、爪先から置く歩き方。相手を脅かさないための、訓練された歩幅だった。  私は竜の鱗に手をついたまま、彼の目を見返した。汚れた令嬢服の袖口で、額の血を拭う。その動作を、ライナスの視線が追った。追って、そしてほんの僅か、彼の眉根が寄った。──この男は、私の血の匂いに気づいている。竜の体液と自分の血を、嗅ぎ分けている。眉の寄せ方が、怒りではなく、案じる者のそれだったことに、私は遅れて気づいた。 「名乗りは、後にさせてほしいの」  私は先に口を開いた。「その前に、竜の魔核だけ、確認させて。私の式が、狙い通りに撃ち抜けたかどうか、記録しておきたいから」  記録、という単語を、私はとても自然に選んでいた。ライナスの眉が、もう一度わずかに動いた。けれど彼は頷いた。 「……好きにしていい。ただし、私の視界の中で」  交渉成立だ。私は、竜の眉間に手を伸ばす。指先が、鱗の硬さを確かめ、その下の小さな穴をなぞった。鱗の縁は存外に熱を失いつつあって、命が抜けていく温度の段差が、指の腹にはっきり伝わってきた。空中に、確認用の三行を書き起こす。核の位置、貫通角度、残留魔力。数値が、光の文字になって私の指先に浮かんだ。  その文字を、ライナスの瞳が、じっと見ていた。  見えているのだ、と気づいた。この男には、私の式の光が見えている。騎士の中でも、魔力の感受性が高い類の人間だ。だからこそ彼は、剣を抜かない。抜けば、自分が何を相手にしているのか、理解できないまま振ることになると、本能で分かっている。  私の指先が止まったとき、ライナスがもう一歩、近づいた。  そして、膝を、折った。  騎士が竜の亡骸の前で片膝を折る動作は、戦いの後の礼だ。──けれど彼の視線は、竜ではなく、私に向けられていた。汚れた令嬢服の裾に、灰青色の瞳が、釘で打たれたように止まっている。 「──貴女の名を、いずれ必ず訊かせてほしい」  低い声だった。森の湿度ごと、飲み込んでしまいそうな声だった。私は、返事をしなかった。できなかった、と言うほうが正確かもしれない。喉の奥が、鑑定式を組むときとは別の理由で、一度だけ、きゅ、と鳴った。  梢の間を風が抜けて、竜の鱗が、かしゃりと小さく鳴った。遠くで、他の騎士たちがまだ身動きひとつ取れずにいる。彼らの沈黙の向こう、森のさらに奥で、別の魔力の気配が、ほんの微かに、こちらを窺っているのを──その時の私は、まだ気づいていなかった。

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