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追放聖女と闇騎士団の剣

第3話 第3話

第3話

第3話

馬蹄が、夜を裂いた。  雨は小止みになりつつあった。けれど、路面はぬかるみ、蹄の一つ一つが泥を跳ねて黒い弧を描く。フィーナの背には、ヴァイスの胸板。腹に回された腕は鉄の帯のようで、揺れるたび、肋のあたりで男の鼓動が響いた。規則正しい。速くもなく、遅くもない。殺しの後の男の脈とは思えなかった。自分の心臓だけが、鞍の上で勝手に駆けていた。殴られた後のように、こめかみの奥がずくずくと鳴っている。ヴァイスの腕の皮の匂い——濡れた革と、鉄錆と、ほのかな血の匂い——が、雨の匂いに混ざって鼻腔に届いた。その血は、自分のために流された誰かのものだ、と思った途端、膝の裏がひやりとした。  王都の城壁が、後方の闇に沈んでいく。松明の灯はもう点にしか見えない。けれど、ヴァイスの顎の線は緩まなかった。覆面の上から覗く眼窩は、闇そのものよりも濃い影を湛えていた。 「……まだ、追ってくる」  フィーナは呟いた。声が、自分でも驚くほど掠れていた。 「気づいたか」 「耳が、慣れているので」  孤児院で、夜中に子どもたちの寝息の数を数えていた頃の耳だ。息の乱れ、寝返り、遠くの犬の遠吠え——それらを聞き分けて眠れぬ夜を過ごした耳が、今は蹄鉄の音の数を数えている。夜闇の中、蹄鉄の金属音が、こちらのそれに重なるようにして聞こえていた。三頭、いや四頭。距離は三百歩。王都の追っ手ではない。もっと訓練された、静かな脚運び。 「教会騎士じゃない」  ヴァイスが低く言った。声は、喉の奥で一度転がしてから出てきたように、ざらついていた。 「では、誰が」 「審問官直属。——ゲルハルトの影」  フィーナの息が止まった。ゲルハルト。大聖堂の審問官長。異端認定の儀で、最終の一筆を書いた男。老貴族の「死」を確認した男。黒い祭服の裾を踏む音、冷えた大理石の床、祭壇の前に立たされた自分の足首——思い出したくない記憶が、雨のしずくと一緒に襟元から背中へ滑り落ちた。  馬の腹を、ヴァイスが軽く蹴る。速度が上がる。雨粒が頬を針のように打った。風の冷たさが、頬の涙に似た筋を、勝手に引いていった。

 森が迫ってくる。  黒い樹冠が夜空を覆い、月の欠片すらも遮る。湿った腐葉土の匂いと、苔の青臭さが、喉の奥に押し寄せた。ヴァイスは細い獣道へ馬首を向けた。蹄が落ち葉を踏み、枝が外套を引っ掻く。乾いた枝の折れる音、湿った葉の潰れる音、その下から小さな生き物が慌てて逃げていく気配——森そのものが、二人の通過に怯えていた。フィーナは身を低く伏せ、男の腕の輪の中に収まった。頬に当たった外套は、雨でずっしりと重く、鉄の匂いがした。  背後の蹄音が、速度を合わせてくる。近い。二百歩。 「フィーナ」  耳元で名を呼ばれた。初めて呼ばれた、自分の名。それだけで、喉の奥が詰まった。祭壇では「被告」と呼ばれ、孤児院では「先生」と呼ばれ、幼い頃は「捨て子」と呼ばれた。「フィーナ」と——ただの名前で呼ばれたのは、いつぶりだろう。思い出そうとして、思い出せなかった。 「手綱を握れ」 「え——」 「直進だ。枝を避けるな。真ん中を抜けろ」  言うなり、ヴァイスは鞍から身を翻した。鐙を蹴り、地面へ音もなく着地する。その着地に、落ち葉の一枚さえ舞わなかった。黒外套が雨の残滓を散らし、漆黒の剣が鞘走った。鞘を離れる刹那、刃は雨を吸った森の闇よりなお黒く、それでいて、どこかから漏れた一筋の月光をぬるりと吸い込んで、一瞬だけ青白く光った。 「待って——」 「進め」  短い命令。フィーナの手に、濡れた革の手綱が押し付けられる。革は男の体温でまだ温かく、その温度が指先から腕へ、ゆっくり昇ってきた。馬は主人の交代を一瞬だけ戸惑い、すぐに走り続けた。フィーナは前を見た。獣道は黒いトンネルのように続いている。振り返るな、と体が言う。けれど、耳は背後の音を拾ってしまう。  剣戟。  一度。二度。三度。  甲高い音ではなく、鈍い、重い音だった。骨に響くような、生々しい切断音。肉と骨の境目を、布で覆った槌で叩き折るような音。悲鳴はひとつも上がらなかった。悲鳴を上げる暇を与えないのだ、あの男は。  四度目の音は、聞こえなかった。  その沈黙が、かえって、耳の底にこびりついた。雨粒が葉を叩く音だけが、妙に大きくなって戻ってくる。遠くで梟が一度だけ鳴き、それきり黙った。森が、息を潜めて耳を澄ましている——そう感じた途端、手綱を握る指先の感覚が、ふっと遠のいた。喉の奥に、鉄錆のような唾が湧いた。飲み下すことも、吐き出すこともできない味だった。

 馬の速度が、自然と落ちた。  フィーナは手綱を引き、木立の中で馬を止めた。心臓が喉元まで上がってきている。呼吸を整えようとしても、胸が震えた。吸った息が途中で引っかかり、吐こうとした息が細かく裂けて出ていく。戻るべきか。進むべきか。命じられた通りに進むのが正解だ。頭ではわかっている。けれど、足が——いや、手が、手綱を返そうとしていた。指先が勝手に、来た道の方へ、馬首を向けようとしていた。自分でも驚いた。祭壇の前で指一本動かせなかったあの夜の自分が、今は、命令に背こうとしている。  木の影が揺れた。  フィーナは息を呑み、鞍上で身を固くした。腰に武器はない。祭服の裾を握りしめる。濡れた布が指の中でねじれ、爪が掌に食い込んだ。最後の聖力は、もう孤児院で使い切った。残っているのは、胸元のあの熱——剥がれた印の痕で脈打つ、正体の知れない何か——だけだった。  影が、森から滲み出た。  黒外套。漆黒の剣。ヴァイスだった。けれど、右の袖が裂けていた。覆面の下、頬の輪郭に、雨と違う筋が一本。 「怪我を——」 「掠り傷だ」  言いながら、男は馬の傍へ歩み寄り、フィーナの顔を見上げた。雨に濡れた睫毛の奥で、瞳だけが乾いていた。 「逃げなかったな」 「……逃げ方を、知らないので」 「嘘をつけ。孤児院までの逃走路を組み立てた女が」  覆面の奥で、瞳がわずかに笑った——ように見えた。けれど、それは刹那で消え、代わりに険しさが戻った。笑みの残り香すら、雨が洗い流してしまった。 「四人だった。三人を斬った。一人は逃した」 「逃した……?」 「わざとだ。ゲルハルトに伝えさせる」  フィーナは息を呑んだ。男の声には、迷いも昂りもなかった。まるで、天気を告げるような口ぶりだった。 「何を」 「『闇騎士団長ヴァイスが、偽聖女を抱えている』と」  偽聖女。その四文字が、胸元の痕に触れた刹那、じ、と焦げるような熱が走った。否定したかった。けれど、喉の奥で、その言葉は不思議なほど馴染んだ。自分が何者かを決めるのは、もう自分ではない——それを、どこかで受け入れ始めている自分がいた。胸の奥で、祭壇の冷たさと、いま腹に回されたこの腕の重みとが、天秤の左右のように揺れていた。どちらが自分の居場所なのか、まだ言葉にはできない。ただ、前者よりも後者の方が、呼吸がほんのわずかに楽だということだけが、確かだった。その「楽さ」こそが、怖かった。  男は鞍に戻り、フィーナの背後に再び跨がった。腕が腹に回される。今度は、さっきより、ほんの少しだけ強かった。その「ほんの少し」が、言葉にならない何かの代わりだということを、フィーナは理解した。 「罠を、仕掛けるんですか。自分から、囮になって」 「筋書きを書き替える」  馬の脚が、再び森を駆ける。 「お前の追放は、誰かの筆で書かれた物語だった。ならば、俺たちは、その筆を奪う」  その言葉は、雨の音よりも静かで、それでいて、フィーナの耳の奥で雷のように残響した。筆を、奪う。誰かに書かれる側から、書く側へ——そんなことが、自分に許されるのか。許される、と、腹に回された腕の重みが答えているようだった。

 森が尽きる頃、空が白み始めていた。  痩せた稜線の向こう、黒々とした岩山の中腹に、砦の影があった。外壁は苔に覆われ、廃墟のように見える。けれど、門前に立つ二つの松明は、生きて揺れていた。火の色は、夜明け前の青の中でだけ許される、濃い橙だった。  ヴァイスが口笛を低く一度吹いた。応答の口笛が、岩の隙間から返ってくる。短く、二拍。合言葉だ、とフィーナは悟った。  門が、音もなく開いた。  フィーナは、背後を一度だけ振り返った。遠い王都の方角、夜明け前の空が、妙に赤かった。雨雲ではない。何かが、燃えている色だった。胸の奥で、小さな声が——孤児院の子どもたちの寝息の記憶が——ちりりと痛んだ。  そして、胸元の痕が、また熱を持った。孤児院で使い切ったはずの聖力が、残り火どころか、炎の芯のように脈を打っている。古い、深い場所から。自分の身体の奥に、自分の知らない井戸があって、その底で何かが目覚めかけている——そんな感覚だった。  砦の門が、二人を呑み込んだ。  その同じ刻。北の山嶺では、封印の鎖が、また一つ——今度は、フィーナ自身にも聞こえる低い音で——ほどけ始めていた。

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