第2話
第2話
鼓動。 他人のものだ。 横抱きにされた身体の、耳のすぐ下で鳴っている。低く、規則正しく、雨音より確かな拍子。フィーナは息を呑んだ。吸い込んだ空気に鉄と香の匂いが混じる。闇騎士団長ヴァイスの外套の中だった。 広場を離れる。足音はしない。男は走っていない。歩いているのに、路地の景色が後ろへ流れていく速度だけが現実離れしていた。 「……降ろして」 声が掠れた。 ヴァイスは応えない。 「降ろしてください」 もう一度。今度は、はっきりと。 黒曜石の瞳がこちらを見下ろす。覆面の奥、眉がわずかに寄った。 「傷がある」 「歩けます」 「裸足だ」 「歩けます」 沈黙。雨の粒が外套の肩で砕けた。 フィーナは身を起こそうとした。男の腕は鉄の帯のように緩まない。けれど、抗う意思を感じ取ったのか、ヴァイスはふいに膝を折って、彼女をそっと石畳に降ろした。 足裏に、氷のような痛みが戻る。膝が笑う。倒れかけた肩を、大きな手がすかさず支えた。 「どこへ行く」 「孤児院」 即答した。迷いはなかった。 「追っ手を振り切ったばかりだ」 「振り切ったから、行ける」 顔を上げる。銀の髪から雫が滴り、まつげを重くした。 「残っているんです。あと一度だけ。治癒術が」 男の瞳が、細められた。 「——あの子たちに、届けないと。私が消える前に」
闇騎士団長は、しばし、フィーナの顔を見ていた。 雨が止む気配はない。路地の向こう、遠くなった松明の灯が、再び数を増やし始めている。散った騎士たちが体勢を立て直し、広場へ戻ってくる足音。ヴァイスの耳はそれを拾っていた。フィーナの耳も、遅れて拾った。 「……場所は」 「東地区。古い水車小屋の裏。シスター・マルタの孤児院」 「道は」 「大通りは無理です。裏路地、下水の通気口、洗濯物の干し場を繋いで——」 言いかけて、フィーナは息を呑んだ。自分の口が、勝手に逃走経路を組み立てていることに気づいたのだ。十七年、この街の裏側を知っているのは、祭壇の聖女としてではなく、祭壇に上がる前の、パンを盗んで走った孤児としての自分だった。 ヴァイスは無言で頷き、彼女の手首を掴んだ。 「先導しろ」 手首の熱さに、息が詰まる。厚い革手袋越しのはずなのに、その温度は、布と皮を焼き抜いて直接脈へ届くようだった。処刑人の手、と人は呼ぶ。けれど今、その指は彼女の細い手首の骨をひとつも軋ませなかった。加減を知っている手だった。何かを壊さないために訓練された手ではなく、壊せるからこそ壊さないと選んだ手。フィーナはその違いを、呼吸ひとつ分の時間で悟った。 「走れるか」 「走ります」 走り出す。 裸足が石畳を蹴る。一歩ごとに足の裏が裂ける。小石が皮膚を噛み、冷たい水溜まりが傷口に沁みて、脛まで痺れが駆け上がる。けれど、遅れなかった。ヴァイスは半歩後ろにつき、彼女の速度に合わせた。速度を合わせる、ということ自体が不思議だった。処刑人と呼ばれた男の歩幅は、本来こんなものではないはずだ。半歩下がるという位置取りは、守る者の位置取りだった——背後から迫るものを、まず自分の身体で受けるための。 角。 鎧の音。 「伏せろ」 短い声。フィーナの肩が引かれ、軒下の樽の陰に押し込まれる。外套が被さった。雨の音が遠のき、暗闇の中で、男の呼吸だけが近い。規則正しく、深い。恐怖で乱れたフィーナの浅い呼吸が、その拍子に少しずつ引き寄せられ、整えられていく。香と鉄の匂いに、今は濡れた革と、雨を吸った髪の匂いが混じっていた。樽の木肌は長年の雨で柔らかく腐り、指を押し当てると苔のぬめりが爪の隙間へ入り込んだ。肩口の外套の裏地は意外にも薄絹で、男の体温をそのまま伝え、濡れ鼠のフィーナの震えを、ひと呼吸ごとに少しずつ溶かしていく。耳の奥では、自分の血の巡る音と、男の鼓動と、雨垂れの三拍子が、奇妙に重なっていた。 松明が二つ、通り過ぎる。騎士たちの靴音、鎖帷子の擦れる音。その一人が、ふと立ち止まった。 「……血の跡だ」 心臓が跳ねた。フィーナは自分の足裏を見た。石畳に、点々と赤。雨が滲ませ、広げ、まるで自分を指差す矢印のように、闇の中で黒く光っていた。 ヴァイスの指が、静かに剣の柄にかかる。鯉口が、音もなく緩んだ。外套の下の空気が、すっと温度を失った。殺気、という言葉をフィーナは初めて体で理解した。それは熱ではなく、冷気だった。男の身体の芯から湧き、周囲の雨粒の動きまで止めてしまうような、静かな冬。 ——殺す気だ。 フィーナは咄嗟に、男の手首を掴んだ。首を振る。声は出せない。ただ、必死に。指先が震え、掴んだ革の上に爪が立つ。やめて、と唇だけが動いた。 ヴァイスが彼女を見下ろした。覆面の奥の瞳は、無機質でも、冷酷でもなかった。問いかけていた。——なぜ止める、と。 理由は、うまく言えない。ただ、今夜もう一人でも、自分の名のために人が死ぬのは、嫌だった。治癒で人を救ってきた手が、庇護と引き換えに誰かの命を差し出すなんて、耐えられなかった。あの騎士にも帰る家があり、待つ誰かがいる。それを奪って得る安全なら、いらなかった。 騎士が身を屈める。血を指で掬おうとする。 その瞬間、路地の奥の猫が鳴いた。——違う。ヴァイスの空いた手が小石を弾いたのだ。騎士は振り向き、「そっちだ」と仲間に怒鳴り、走り去った。 雨の音だけが戻る。 フィーナの掌は、まだヴァイスの手首を掴んだままだった。慌てて離そうとすると、逆に、男の指が彼女の手を包み返してきた。大きな掌だった。剣ダコの硬さの下に、驚くほど丁寧な温度があった。 「——お前は、甘い」 低い声。咎めているのか、呆れているのか、わからない。 「でも、それが、たぶん本物だ」 言い終えぬうちに、再び走り出す。今度は、男が先を行った。
孤児院の裏口は、藁屋根から雨漏りしていた。 見覚えのある木戸。傾いた蝶番。フィーナは膝から崩れかけ、ヴァイスの腕で支えられた。中から、くぐもった咳の音が漏れてくる。トーマだ。 扉を叩く。三回、間を置いて二回。合図。 ほどなく、扉の隙間から、白髪のシスターが顔を覗かせた。マルタの瞳が、フィーナを見て、それから背後の黒い影を見て、大きく見開かれた。 「フィーナ——あんた、なんで」 「入れて。お願い。……少しだけ」 シスターは、躊躇わなかった。長年、孤児を匿ってきた女の判断は速い。戸を大きく開け、二人を中へ引き入れ、閂を下ろした。 藁の寝床。六人の子ら。フィーナは迷わず、奥の二人の元へ向かった。額に触れる。リリアの熱は高い。トーマの胸は、空気を求めて薄く震えていた。 最後の聖力を、指先に集める。 それは、もう灯火ですらなかった。ほとんど残り火だった。けれど、不思議と、今夜は鮮やかに応えてくれた。まるで、胸元の——剥ぎ取られた聖印の痕が、別の何かに置き換わっているかのように。熱が、脈打つように、指へ流れ込んでくる。 白い光が、掌に宿った。 リリアの額に当てる。高熱が、指を通して引いていく感覚。子どもの頬に血色が戻る。次はトーマ。薄く開かれた唇に、光を分ける。詰まった胸が、深く、一つ息を吸った。 それだけで、フィーナの視界は歪んだ。 けれど、笑った。初めて、この夜、笑った。 子らの眠りに戻る呼吸を、耳で確かめる。マルタが背後で泣いていた。声を殺して。 フィーナは立ち上がり、シスターの手を握った。 「しばらく、ここを離れて。北の修道院へ。私の名を、絶対に出さないで」 「あんたは」 「……私は」 答えようとして、振り返る。戸口の影で、ヴァイスが静かに待っていた。腕を組み、子らを一度も見ようとせず、外の気配だけを探っている。優しさを見せない優しさだった。 「私は、終わらせに行きます。私を落とした人たちの、嘘を」
外は、まだ雨だった。 孤児院の裏木戸を出ると、ヴァイスがフィーナの肩に再び外套をかけた。さっきよりも、きつく。 「乗れ」 路地の奥、黒い馬が音もなく待っていた。いつ呼んだのか、わからない。男が手綱を取り、彼女を鞍に乗せ、自分もその後ろに跨がる。腹に回された腕の強さに、フィーナは思わず息を止めた。 「行き先は」 「森の外れ。砦がある」 「……闇騎士団の」 「お前を待っていた場所だ」 待っていた、という言葉に、背筋が冷えた。 馬が蹴り出す。王都の灯が、後ろへ流れていく。大聖堂の尖塔。広場の噴水。自分が聖女と呼ばれていた街のすべてが、雨に滲んで遠ざかる。 ヴァイスの胸に背を預けながら、フィーナは胸元に手を当てた。聖印のあった場所が、かすかに、熱い。残り火のはずだった力が、なぜか、まだ、脈を打っていた。 北の空で、雷鳴に似た音が一度、低く轟いた。けれど、それは雷ではなかった。山嶺のどこか、古い封印の鎖が、また一つ、音を立てて解けた——そのことを、彼女はまだ知らない。