第1話
第1話
祭壇の大理石に、血の混じった雨が滴った。 フィーナの指先から零れた聖水が、白い祭服を伝って床を染める。治癒の儀は、失敗した。祭壇に横たわる老貴族の胸は動かない。ざわめきが広間を満たし、やがて嘲笑へと変わった。 「見たか。落ちこぼれが」 「偽聖女だ。異端だ」 石の柱に声が跳ね返る。高窓から射し込む松明の揺らぎが、フィーナの頬を赤く舐めた。 大司教が壇を下りてくる。足音が重い。節くれだった指が伸び、彼女の胸元の聖印を掴んだ。 「剥げ」 ひと言。 銀の鎖が引きちぎられる。胸骨に灼けるような痛みが走った。十七年間、肌身離さず下げていた印だった。孤児院で拾われた日、シスターがかけてくれた鎖。今、それが石畳に転がる。 フィーナは膝をつかなかった。泣かなかった。ただ、顔を上げた。 「異端認定。追放」 衛兵の手が肩に伸びる。 彼女は振り払って、自分から歩き出した。
雨の王都を、裸足で駆ける。 石畳は氷のようだ。足の裏が切れ、血の跡が点々と続いた。白い祭服は肩口が裂け、胸元には剥ぎ取られた聖印の痕が、烙印のように残っている。 背後、松明。 「いたぞ!」 「逃がすな、異端者だ!」 教会騎士団。追放ではない。処分だ。フィーナは理解していた。祭壇の失敗は仕組まれていた。老貴族の呼吸は儀式の前から止まっていた——触れた瞬間、冷たすぎたのだ。指先に触れた皮膚の温度は、蝋燭の蝋よりも低く、まるで何時間も前から魂の抜け落ちた器だった。誰かが、儀式の直前にあの老人を殺し、フィーナの手の中で「死なせた」ことにした。 誰が。なぜ。考える余裕はない。 路地を折れる。井戸。樽。洗濯紐。視界の隅で地形を拾い、身体が勝手に選ぶ。右、左、また右。靴音が追ってくる。鎧の擦れる音。矢筒の鳴る音。遠雷のように鎧の胴金が鳴り、雨に滲んだ松明の光が、壁という壁を血の色に塗り替えていく。軒先から滴る雨が襟首へ流れ込み、背骨を一本、冷たい指でなぞるように下っていく。どこかの家の窓が音を立てて閉じられた。鎧戸の隙間から、怯えた女の瞳がこちらを覗き、すぐに引っ込んだ。誰も、彼女に手を貸さない。貸せば、次に追われるのは自分たちだと知っているから。 息が白い。肺が焼ける。吸うたびに喉の奥で鉄の味がした。泣いたつもりはないのに、頬を伝うものが雨か涙かも、もうわからなかった。 指先が痺れていた。雨と寒さだけじゃない。聖力の消耗だ。儀式で使い切りかけた残滓、あと一度。たった一度だけ、治癒術を放てる。 それは、自分のために使うものではない。 脳裏に、孤児院の子らの顔が浮かぶ。高熱を出したリリア。咳の止まらないトーマ。昨晩、リリアの額に当てた手のひらの熱さ。トーマが眠る前に握ってきた、小さく湿った指の感触。松明を持った騎士が、孤児院へ向かう足音が聞こえる気がした。異端聖女を匿った罪で、あの子らも焼かれる。木の扉が蹴破られ、藁のベッドが炎に舐められ、泣き声が煙の中に溶けていく——想像だけで、膝の力が抜けそうになる。 フィーナは唇を噛んだ。血の味が、舌の先に広がった。 ——残った一度は、あの子らに。 走ることをやめる意味は、そこで決まった。
広場に出た。 噴水の縁に背を預け、息を整える。心臓が胸骨を叩く。膝が笑う。けれど、足は動かなかった。動かさなかった。石造りの噴水は長年の苔で滑り、背に触れた石の冷たさが、祭服越しに肋のあいだまで染み込んでくる。見上げれば、雨は斜めに降り、噴水の水面を無数の針で突いていた。水盤に溜まった雨が、自分の顔を歪めて映す。血の筋の走った頬、乱れた銀の髪、怯えに見開かれた瞳——それは、祭壇に立っていた「聖女」とは別人だった。 松明の群れが路地から溢れ出てくる。十——いや、十五人。鎧の銀が雨に濡れて鈍く光った。先頭の騎士長が剣を抜き、後列が弓を構える。鏃の雫が、松明の光を弾いて小さく燃えた。 「神の名において」 騎士長の声は、若く、迷いがなかった。迷いのなさこそが、フィーナにはいちばん恐ろしかった。この男は自分を悪だと信じている。信じたまま、殺す。昨日まで、大聖堂の廊下ですれ違えば会釈を交わした顔だった。名前も知っている。先月、妹の熱を治してやった騎士だった。あの時、彼は涙ぐんで何度も礼を言った。その同じ唇が、今、自分の処断を宣告しようとしている。 「偽聖女フィーナ。異端の罪により、今宵ここで処断する」 フィーナは噴水から身を離し、前に一歩、踏み出した。裸足の裏に、冷えきった石畳の目地が食い込む。 「……神の名を、騙らないで」 声は震えた。けれど、引かなかった。喉の奥から押し出したその言葉は、自分でも驚くほどまっすぐだった。 「あなたたちが殺そうとしているのは、私じゃない。私を信じてくれた子どもたちよ。だから、ここで終わらせる」 胸の奥で、最後の聖力がちいさく脈打っている。温い灯火のような、頼りない光。これを、あの子らの元に届けるまでは——どれだけ矢を受けても、倒れるわけにはいかない。 弓弦が絞られる。ぎりり、と濡れた音。 雨粒が、矢の鏃で弾けた。 フィーナは目を閉じなかった。瞼を閉じれば、子らの顔が消える気がした。だから、まっすぐ、松明の海を見据えた。指先に残る最後の温もりを、胸の前で握りしめた。 ——離弦。 三本の矢が、同時に放たれた。
闇が、爆ぜた。 音もなく、風もなく、ただ黒が広場の中央に落ちた。雨が一瞬、止まったように見えた。 矢は、地に落ちていた。三本とも、根元から両断されて。断面は鏡のように滑らかで、鉄が切られたというより、はじめから半分しか存在していなかったかのようだった。 フィーナの前に、黒い外套の背中があった。 長身。広い肩。漆黒の剣を無造作に提げ、外套の裾が雨に濡れて重く垂れる。男はゆっくりと顔を上げ、騎士団を見た。ただ、それだけだった。それだけで、広場の空気が一段、冷えた。 騎士長の剣先が震え出す。 「闇……騎士団、団長……ヴァイス……」 誰かが呟いた。誰かが後ずさった。噂でしか聞かぬ名。王家さえ御せぬ処刑人。国中が恐れる、黒の一振り。 ヴァイスは応えなかった。代わりに、一歩、踏み出した。 それだけで、前列の五人が崩れ落ちた。何をされたのか、フィーナには見えなかった。黒い影がひと筋、雨の中を走っただけに思えた。倒れた騎士たちの鎧には傷ひとつなく、ただ糸が切れた人形のように、静かに石畳へ積み重なっていった。 残った騎士が逃げ出す。松明が散っていく。悲鳴が路地の奥へ呑まれていく。 広場に、雨音だけが戻った。 ヴァイスが振り返る。 覆面の上、黒曜石のような瞳が、フィーナを射抜いた。フィーナは動けなかった。救われた、という言葉が頭に浮かばなかった。まだ、自分が生きていることすら、実感できていなかった。雨の冷たさも、足裏の痛みも、ひどく遠い場所の出来事のようだった。 男の大きな手が伸びてくる。剣を握っていた手とは思えぬほど、ゆっくりと、慎重に。 その指が、剥ぎ取られた聖印の痕に——胸元の、灼けた傷跡に——そっと触れた。熱い、と感じた。彼の指が熱いのか、自分の傷が熱いのか、わからなかった。ただ、触れられた瞬間、傷の底で凍りついていた何かが、小さく脈を打ち直した気がした。 「……お前の治癒は、偽物じゃない」 低い声だった。雨の底から響くような。 「教会が隠したかった、"本物"だ」 フィーナの唇が震える。言葉にならない。否定したいのか、縋りたいのか、自分でもわからなかった。 ヴァイスは外套を翻し、彼女の肩にかけた。冷えきった身体が、ふいに包まれる。外套には雨の匂いと、鉄と、かすかな香の匂いが染みついていた。 「今夜から、お前は俺の庇護下だ」 横抱きにされる感覚。濡れた祭服の重さが、ふっと消える。耳のすぐそばで、男の鼓動が一度だけ、低く鳴った。 遠くで、大聖堂の鐘が鳴った。弔いの音色に似ていた。けれど、それは終わりの鐘ではなかった。 フィーナは知らない。自分の追放が、誰の筆で書かれた筋書きだったのかを。闇騎士団が、なぜこの夜、この広場に現れたのかを。胸元の聖印の痕が、本当は何を意味していたのかを。 北の山嶺で、封印の鎖が一つ、音もなく解けたことを——彼女はまだ、知らない。