第3話
第3話
霧は、さきほどよりも濃く、低く立ちこめていた。 レオンは枝の根方にうずくまり、幼い掌を唇に押し当てたまま、しばし息を殺した。焼け跡のひりつきが、舌の先にまで伝わってくる。喉の奥には、前世の書庫で繰り返し嗅いだ墨と鉄錆、そしていま新たに混じりはじめた腐肉と樹脂の焦げ臭さ。四つの匂いが糸縒りの縄のように巻き合い、少年の幼い鼻腔を焼いた。 枝の切れ間から覗いたあの冷たい眼差し——獣ではなく人に近いそれは、ほんの一呼吸のうちに霧の奥へと沈んでいた。見失った、というよりは、最初から見せるつもりで見せ、音もなく退いた、という印象に近い。前世の塔で、弟子に尾行を教えた記憶が頭の隅でかすかに疼く。相手は、狩る側の歩幅を知っている。 ——気取られた、か。 内心の呟きは、霧よりも冷たかった。それでも少年は立ち上がり、濡れた下生えを踵で押さえるようにして、松明の輪へ足音を殺して戻る。列の最後尾、兄の号令のちょうど影になる位置に身を滑り込ませたとき、誰もレオンの一時の離脱には気づいていないようだった。ただ、初老の従士の皺深い横顔だけが、ほんのわずか、こちらへ傾いだ。咎めるでも案じるでもなく、ただ「戻ったか」と確かめるだけの視線だった。その一瞥には、幼子を幼子として扱いきれぬ者の、言葉にならぬ戸惑いが滲んでいた。 隊列は石標を越え、森の胎内へと歩み入った。木々の梢が霧に溶け、頭上の空はもはや鈍い乳色の帯でしかない。松明の赤が苔の緑を舐め、ぬかるんだ道の水たまりに、歪んだ火影を落としてゆく。踏み出すたびに、泥濘が幼い沓の底を吸い、ひと足ごとに小さな水音が膝の裏まで跳ね上がった。
森は、異様に静かだった。 普段ならば、鳥の声が梢を渡り、栗鼠が枝先で尾を振り、遠く獣道の奥で鹿が枝を踏み折る音のひとつも聞こえるはずだ。けれど今、耳に届くのは討伐隊の革鎧の軋みと、馬の荒い鼻息、そして男たちの低く押し殺した呼吸だけだった。魔物が近い、と誰もが口にせぬまま理解していた。鳥獣は、危険の匂いを人間よりはるかに正しく嗅ぐ。 先頭を行く兄ガイウスが、片手で松明を高く掲げ、もう片手で剣の柄に触れていた。赤銅の兜の下、まだ若い横顔は硬く引き締まり、幼い頃、裏庭で木剣を振ってくれたあの柔らかな兄とは別人に見える。父から討伐隊長の役目を初めて預けられた朝だった。兄の背の強張りを見て、レオンの胸の奥がちくりと痛む。無事に帰らせねば、と舌の上で声にならぬ言葉が苦く溶けた。 ——兄上は、知らない。 群れの奥に何が潜むかを、知らぬまま剣を抜く。それが、この辺境の男たちにとっての「当たり前」だった。だが、少年の姿をした男は、知ってしまっている。 道が谷へと下りかけたあたりで、ひとつ、ふたつと、獣の臭気が濃くなった。次いで、下生えの陰から、灰色の影が湧き出た。 「——来るぞっ!」 兄の号令と共に、松明が一斉に低く構えられる。飛び出したのは狼に似た魔物、ただし眼窩は濁った黄で、口の端からは黒い涎が糸を引いていた。数は七、いや九。普段の狼の群れならばありえぬ頭数だった。 討伐隊の槍が鳴る。革鎧が軋み、土が飛ぶ。初撃の応酬は、辺境の男たちの腕前を思えば悪くなかった。猟師の弓が一頭の喉を射抜き、鍛冶の息子の鉈が別の一頭の前肢を断つ。血の匂いがどっと霧に広がり、残りの魔物の唸りが一段低くなった。焦げた松脂と、熱された鉄と、生ぬるい獣血——混ざり合った臭気が、少年の喉をきりきりと締め上げる。 だが、レオンの目は別のものを追っていた。 倒れゆく狼の魔物たちの動きに、ひとつの規律があったのだ。先に吼えた一頭が一歩退くと、後方の二頭が同時に左右へ開く。弓が引かれれば一頭が囮になり、鉈が振り下ろされれば別の一頭が背後を狙う。退く足は揃い、開く角度は測ったように等しい。偶さかの連携では、決して出ぬ滑らかさだった。——これは、狩りの連携ではない。誰かの意図を受けた、兵の動きだ。前世、宮廷で軍記を繙いたことのある目には、余りにも露骨に映った。頁の挿絵の陣形が、いま霧の底で、血と涎にまみれて再演されている。 心の臓が、ひとつ、大きく鳴った。 父の号令も、兄の剣閃も、ここでは届かぬ位置に、確かに「指揮する何者か」がいる。群れの配置を、どこか高みから読んでいる眼がある。——さきほど霧の切れ間で見た、あの冷たい眼差しと、同じ性質のものだ。幼い背筋を、名指しされたような怖気が、ひと筋、駆け下りた。 レオンは荷駄の陰から、そっと身を低くした。戦列の後方は、ちょうど兄の視線から外れる角度になる。唇の内側で、削り直したばかりの短い詠唱をひと息、転がす。掌の狭間に、針の先ほどの青い光が、今度は消えずに小さく灯った。光は蛍というよりは、水面に落とした一滴の藍のように、ゆるりと揺れて森の奥を指す。 ——こちらだ、と光は言っていた。 幼い脚は、その藍の先を追った。
戦いの喧騒が背後で遠ざかるにつれ、霧は次第に黒ずみ、梢の隙間から落ちる光の帯までもが、灰から鉛の色へと変わっていった。鉄錆と墨、腐肉と樹脂——四つの臭気は、歩を進めるごとに糸縒りをほどかれ、やがて「墨」と「腐肉」の二筋だけが、はっきりと鼻梁を貫くようになる。前世の指が、勝手に頁をめくる。触媒の円環の中心では、魔物の脳髄と、封じた頁の一枚が焚かれる。煙の匂いが、ちょうど、こうだ。 谷底に、ぽつりとひらけた窪地があった。 苔むした倒木が半円に並び、その中央の地面には、苔が不自然に削り取られて、土が剥き出しになっている。剥き出しの土には、うっすらと黒い線が描かれていた。円環の、三分の一ほど。——途中で、描き手が中断した痕だ。 レオンは倒木の陰に身を伏せ、掌の藍を消した。息を殺す。濡れた樹皮の匂いが頬に張りつき、幼い鼓動が耳の奥でやけに大きく響く。 円環の縁には、魔物の体毛と、黒く乾いた血だま。そして、羊皮紙の切れ端が一枚、根の間に落ちていた。指先でそっと拾い上げ、霧の薄明かりにかざす。古語の半行。——前世、自らの手で封じたはずの禁書の、序章の一節だった。 指先が冷えた。焼け跡のひりつきよりも、ずっと深い冷たさだった。背骨の一節一節を、細い氷の棒で順に撫でられているような感覚が、幼い身体の中心を貫いた。 封じた。確かに封じた。塔の地下、七重の錠、神官の立ち会いのもと、蝋と塩で目張りをした。断頭台の朝、最後にその鍵を預けた相手の顔まで、鮮明に覚えている。——それが、いま、この辺境の森の底で、途中まで描かれた円環の縁に落ちている。 頁は、誰かに読まれている。読み、写し、森まで運んできた者がいる。 ——処刑の闇は、ここまで伸びていたのか。 歯を噛みしめたその時、背後の下生えが、ほんのわずか、鳴った。風ではない。獣でもない。革の擦れる、人の足音だった。 レオンは咄嗟に倒木の根方へ身を滑り込ませ、羊皮紙の切れ端を袖口に押し込む。幼い心臓が、喉元まで迫り上がってくる。円環の向こう、黒ずんだ梢の奥から、ゆっくりと二つの影が歩み出た。一人は外套の頭巾を深く被り、顔は見えぬ。もう一人は、鈍く光る銀の針を片手に提げている。——獣の脳髄に差し込む、あの触媒の針だ。針の先から一滴、黒い雫がゆるりと垂れ、苔の上に音もなく落ちた。その一点だけが、幼い瞳にやけに鮮明に焼きついた。 二人は倒木を跨ぎ、円環の縁に跪いた。頭巾の男が、低い声で古語を唱え始める。少年の鼓膜が、その一語一語に灼かれるように震えた。前世の自分が教本に書き付けた、禁じるべき発音、繋げてはならぬ音節。それが、淀みなく、舌の上で転がされてゆく。知らぬ者の唇から、己の筆跡がそのまま溢れ出してくる——その倒錯が、胃の腑を冷たく掴んだ。喉の奥に、苦い唾が一度、湧いて沈んだ。 ——止めねば。 幼い掌は、もう震えていなかった。ただ、焼け跡のひりつきだけが、鋭く彼を現実に縫い止めていた。
頭巾の男の詠唱が、三つ目の古語に差しかかった。円環の中央の土が、ほのかに黒く脈打ち始める。レオンの鼻腔に、鉄錆と墨の匂いが、むせかえるほど濃く押し寄せた。喉の奥で、前世の己が鋭く叫ぶ。——今、この一節が閉じれば、円環は完成する。完成すれば、森の群れは本当の意味で「兵」になる。兄の剣も、父の号令も、もはや届かぬ場所へ。 少年は袖口の羊皮紙を握りしめ、倒木の陰から、ほんの一歩、膝を前に進めた。濡れた苔が、幼い脛にひやりと張りつく。削り直した幼子の歩幅の詠唱を、喉の奥で組み立て直す。短く、細く、けれど円環の一角を乱すだけの、ただ一点の青い光。 ——ここで止める。止められずとも、せめて、気取らせる。 霧の底で、幼い唇が、ほんの小さく動いた。掌の狭間に、針の先ほどの藍が、もう一度、音もなく灯る。 その瞬間、頭巾の男の詠唱が、ふと途切れた。