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癒しの谷と古代魔術の少年

第3話 第3話

第3話

第3話

バケツを戸口に置いたまま、リュカは裏手の畑へと足を向けた。

雨上がりの草が、足首を濡らしていく。朝の光はまだ低く、森の梢の隙間から斜めに差し込んで、荒れ地の雑草の穂先を一本ずつ金色に縁取っていた。廃屋の影が長く伸びて、畑の半分ほどを覆っている。影の境目で、湿った土と乾いた土が、はっきりと色を分けていた。湿ったほうは黒く、乾いたほうは灰色に近い。その灰色が、畑のほとんどを占めていた。

リュカは畝の跡にしゃがみ込み、指先でそっと土をすくった。さらさらと、命の気配のない粒が指の間を落ちていく。屋敷の庭師が大切にしていた薔薇園の土とは、まるで違った。あの土は黒々として、握れば団子のように固まり、指先を湿らせる力を持っていた。けれどこの土は、握っても崩れ、握らなくても崩れる。ただの灰の粉のようだった。

「……ずいぶん、疲れてるんだな」

自分に言うのか、土に言うのか、よく分からなかった。ただ、昨日までの自分の胸の奥にあった乾きと、この土の乾きが、どこか似ている気がした。何かを求められるばかりで、誰も水を注いでくれなかった土。痩せるべくして痩せた土。

掌の奥が、ふいに小さく脈を打った。

とくん、と。井戸のときよりも、ずっと静かに。急かすのではなく、誘うように。リュカは目を伏せて、しばらくその鼓動に耳を澄ませた。胸の奥で、銀の光がゆっくりと息を吸い、ゆっくりと吐いているような気配があった。行け、ではなかった。ここにいる、という合図のようだった。

リュカは両掌を土に押し当てた。

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掌の下の土は、ひんやりとしていた。雨上がりの表面だけが申し訳程度に湿っていて、その下はまだ乾いたままだ。指をわずかに土に潜らせると、粒の粗さが爪の隙間に入り込んでくる。痛くはなかった。むしろ、久しぶりに「触れられている」側の気持ちになった土が、おずおずと息を吐き出したような、そんな感覚がした。

唇が、また勝手に動いた。

昨日、井戸の前で口にした詠唱とは違う節回しだった。もっとゆっくりとした、低いところで響く音。歌というより、呼吸に近かった。音というより、息に色がついたものだった。吐く息のひとつひとつが、淡く銀色に染まり、掌の下の土へと沁み込んでいく。最初は、何も起きないように見えた。ただ朝の空気が揺れ、雑草の穂先がふわりと一度、持ち上がっただけだった。

やがて。

掌の下で、何かが動いた。

ひとつの粒が、隣の粒に、そっと触れたような気配。乾いていた粒と粒のあいだに、目に見えない糸が通り、互いにもう一度手を繋ぎ直すような。掌の皮膚のすぐ下を、細い水の筋がひとつ、ふたつと縫っていくのが分かった。冷たくはない。むしろ、生まれたての雛を掌に包んだときのような、ほのかな温みがあった。リュカは息を止めたまま、ゆっくりと掌を持ち上げた。指先が土から離れる瞬間、粒のひとつひとつが名残惜しそうに掌に吸い付いて、それからぱらぱらと零れ落ちた。

掌を離したその場所が、黒かった。

ほんの、掌ひとつ分。けれど、はっきりとした黒だった。灰色の荒れ地の中に、ぽつりと落ちた一滴の夜のように。リュカは恐る恐る、その黒い土に指先を差し込んだ。さきほどまでのさらさらした粉の感触ではなかった。しっとりと、指先に吸い付いてくる。握ると、ちゃんと固まった。ほぐすと、ちゃんとほどけた。土が、土の仕事を思い出していた。鼻先を近づけると、雨のあとの森の奥のような、かすかに甘い匂いが立ちのぼってきて、喉の奥がきゅっと鳴った。どうしてか、泣きたいような気持ちが、胸の底でことりと音を立てた。

リュカは隣にもう一度掌を置いた。詠唱は、もはや意識して唱えるものではなくなっていた。胸の奥の銀の鼓動に合わせて、吐く息にただ色が乗っていくだけだった。掌の下から、黒がゆっくりと広がっていく。まるで水が紙に染みるように、あるいは眠っていた者が瞼を開けるように。畝の跡がひとつ、またひとつと黒く息を吹き返していった。土の匂いが、変わった。灰の匂いから、雨の匂いへ。それから、もっと深いところの、種子の眠る匂いへ。土の奥から立ちのぼる匂いは、懐かしいのに、一度も嗅いだことのない匂いだった。

「……取り上げて、ない」

呟いて、リュカは自分の言葉に少し驚いた。

現代魔術は、世界から何かを奪うことで現象を起こす。薪から熱を、水から流れを、大気から圧を。教本にはそう書かれていたし、師からもそう習った。魔術を使えば、その分だけ、どこかの何かが痩せる。だからこそ、強力な魔術は高価なのだと。けれど今、リュカの掌の下で起きていることは、どう考えてもそれとは違っていた。土は、何かを奪われて黒くなったのではない。逆だった。ずっと誰かに呼んでほしくて、けれど呼ばれずに乾いていた根っこが、ようやく自分の名前を呼んでもらえて、顔を上げた——そういう動き方だった。

(……消費じゃ、ない)

掌を見つめる。銀の紋章は、さきほどよりも淡い。けれど確かに、そこにあった。皮膚のすぐ下で、細い川が一本、ゆるやかにうねって流れているような熱があった。

(これは、……めぐらせる力だ)

巡らせる。循環する。土のなかで眠っていたものを起こし、空気のなかに漂っていたものを土に帰し、水のなかに溶けていたものを粒のあいだに戻していく。奪うのではなく、もう一度つなぎ直す。現代魔術が「一度きりの花火」だとしたら、この古代の力は、きっと、「季節そのもの」なのだ。だから派手ではない。だから水晶には映らなかった。鋭角の器では、こんな、ゆるやかな螺旋は掬えない。

気づけば、畑の三分の一ほどが黒く変わっていた。

リュカは額の汗を袖で拭った。疲労は、あった。けれど、それは訓練場で魔力を絞り出したあとの、あのからからとした空白感とはまるで違っていた。庭仕事を終えた後の、満ち足りた疲れに近かった。胸の奥の銀の鼓動は、しずかに、けれど確かに、まだそこで息をしていた。

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雑草のあいだを歩きながら、リュカは黒くなった土に何度もしゃがみ込み、指を沈めては、また立ち上がった。畝の跡をたどるように、古い人の仕事の気配をなぞるように。ここに、かつて誰かがいた。水をやり、草を抜き、種を蒔き、収穫を待った誰かが。その誰かが去って、土はゆっくりと眠ってしまった。眠っていた土を、今、自分が起こしている。屋敷にいた頃の自分には、ただの一度も持たせてもらえなかった役目だった。

リュカは顔を上げ、空を見た。雲の切れ間が、さきほどよりも広がっていた。浅い青の向こうで、ひとひらの雲がゆっくりと流れていく。その雲の影が、荒れ地の上をすべっていくのを、ただ眺めた。急ぐものは何もなかった。誰かに見せるためでもなかった。ただ、土が黒く息をしている。ただ、自分の胸の奥で、銀色の鼓動が、土の鼓動と同じ速さになっていく。

(……このくらいで、今日はやめておこう)

そう思ったのは、力が尽きたからではなかった。むしろ、まだ余裕はあった。けれど、畑の全部を一日で黒くしてしまうのは、なんだか違う気がしたのだ。土には土の呼吸の速さがある。起こされた土が、自分のリズムを思い出すまでの時間が要る。それを待たずに次々と手を入れるのは、朝寝坊している人の肩を続けざまに揺さぶるような、乱暴なことに思えた。

リュカは立ち上がり、両手についた土を軽く払った。黒い土は、掌のしわの奥にまで入り込んでいて、簡単には落ちなかった。けれどリュカはそれを、ちっとも嫌だとは思わなかった。屋敷で叱られ続けた「汚れた手」が、ここでは自分の働いた証しなのだった。

廃屋の戸口に戻りかけて、ふと、視界の端に何かが動いた。

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畑の向こう、森へと続く細い道のほうだった。

低い朝霧がまだ残っていて、その白いものの向こうに、ひとつの影がゆっくりと浮かび上がってくるところだった。背の曲がった、小柄な影。一歩、また一歩と、杖の先で地面を探るように進んでくる。こつ、こつ、と乾いた音が、湿った朝の空気を渡ってきた。老婆だった。粗い布の外套を羽織り、頭には色の褪せた布を巻いている。その手には、木皮を剥いだだけの杖が一本。足取りは決して速くない。けれど、迷いもなかった。この荒れ地の先に、何があるかを知っている者の歩き方だった。

リュカは息を呑み、動けないまま、その姿を見つめた。昨夜、この廃屋に着いたときには、半径数里に人影などないと思っていた。けれど、人はいたのだ。こんな朝早くに、杖を頼りに歩いてくる誰かが、確かに、いた。心臓が、さきほどまでの静かな鼓動とは別の速さで、とん、と跳ねた。

老婆は畑の手前で一度立ち止まり、黒く蘇ったばかりの土に目を落とした。それから、ゆっくりと顔を上げ、廃屋の戸口に立つ少年を、まっすぐに見た。霧の向こうの、落ち窪んだ目が、何かを確かめるように細められた。

風が、もう一度、畑の上を渡っていった。

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