第2話
第2話
朝は、雨上がりの匂いから始まった。
瞼を押し上げると、壁板の隙間から細い光が差し込んでいて、昨夜まで黒く湿っていた土間の一隅を、淡い金色に染めていた。リュカはしばらく、その光の筋をぼんやりと眺めていた。藁束の寝床は身体のあちこちが軋むほど固かったはずなのに、不思議と眠りは深かった。屋敷の天蓋付き寝台で毎晩眠っていた頃より、ずっと。
起き上がって伸びをすると、肩の関節がぱきりと小さく鳴った。外套に袖を通し、軋む床板を踏んで戸口へ向かう。閂を外して戸を押し開けると、濡れた草のにおいが一気に胸へ流れ込んできた。青くて、少し甘くて、土の匂いが混じっている。森の梢からはまだ雨粒がぽたぽたと落ちていて、地面のあちこちに小さな水鏡を作っていた。その水鏡のひとつに、空が映っている。雲の切れ間から覗いた浅い青が、ひどく澄んで見えた。
「……こんな空、知らないな」
呟いて、リュカは少し笑った。屋敷の中庭から見上げる空は、いつも窓枠や尖塔の影に切り取られていた。こんなふうに、ただ無造作に頭上に広がっている空を、自分はまだ一度も知らなかったのだ。
廃屋の裏手に、古い井戸があった。昨日、馭者が去り際に「あそこが水汲み場だ」とだけ教えてくれた場所だ。苔むした石組みで、木桶の縁は半ば腐りかけ、吊るされた綱も黒く湿って縒れていた。井戸枠の上には、誰かが残していったのか、錆びた鉄のバケツがひとつだけ転がっている。リュカはそれを拾い上げ、井戸を覗き込んだ。
底は、暗かった。
覗き込んでも、水面の煌めきは返ってこない。石の肌に苔が垂れ下がり、奥のほうで乾いた土のにおいがしている。試しに小石を一つ落としてみると、乾いた音が返ってきた。ぱん、と。水に沈む音ではなかった。
「……枯れてる、のか」
リュカはしばらく井戸の縁に手をついたまま、息を吐いた。昨夜感じた穏やかさが、ほんの少しだけ揺らぐ。水がなければ、何も始まらない。竈を直すにも、薪を濡らさぬよう干すにも、まず飲む水がなければ人は生きられない。屋敷では蛇口をひねれば湧くように出てきた清水が、ここではこの石の穴の底にしか存在しない。そして、その底は乾いていた。
それでも、リュカは不思議と慌てなかった。困ったな、と小さく呟いて、井戸の石組みにそっと掌を置いた。ひんやりと、朝露の冷たさが指の腹に伝わる。苔のやわらかな感触。石の粒の目。指先を動かすたび、石の窪みに溜まった昨夜の雨が、つぅ、と手首へ伝って袖口を濡らした。その冷たさが、なぜか胸の奥の張り詰めた何かをほどいていくようだった。——ただそれだけのつもりだった。水の気配を確かめようと、半ば無意識に掌を押し当てた、それだけのつもりだった。
とくん。
掌の下で、何かが脈を打った。
昨夜、床板の文様に触れたときと、同じリズムだった。けれどそれは昨夜よりもずっと近く、ずっと確かで、まるで石の奥に眠っていたもう一つの心臓が、リュカの脈拍に応えて目を覚ましたかのようだった。息を呑むより早く、掌の甲の皮膚の下を、銀色の光がすうっと走った。血管を辿るように、あるいは細い川が流れを思い出すように、光は手首から指先へ、指先から掌の中央へと集まっていき——やがて、そこに、ひとつの紋章を描いた。
渦を巻く、細い線。螺旋を描いて中央に収束する、やわらかな文様。
昨夜、床板に刻まれていたものと、寸分違わず同じ形だった。
「……なに、これ」
声が震えた。けれどそれは恐怖の震えではなかった。もっと深いところから、忘れていた何かがゆっくりと押し上げられてくるような、奇妙な震えだった。銀の紋章は掌の上で静かに呼吸するように明滅し、その光は冷たくも熱くもなく、ただ、懐かしかった。初めて見るはずの光なのに、胸の奥のどこかが「ああ」と頷いていた。知っている。この光を、自分はずっと前から知っていた。忘れていたのではない。忘れさせられていたのだ——そんな思いさえ、ふいに胸をよぎった。
唇が、勝手に動いた。
聞いたことのない言葉だった。古代の詠唱とも、現代魔術の呪文とも違う、もっとやわらかな、歌のような響き。母が幼い頃に口ずさんでいた子守唄に、どこか似ている気もした。音節のひとつひとつが、井戸の石組みに吸い込まれ、苔の繊維を震わせ、石の奥へと沁み込んでいく。リュカは自分が何を唱えているのか分からなかった。ただ、胸の奥で目覚めかけているものが、唇を借りて呼吸しているような感覚だけがあった。喉の奥がじんと熱くなり、吐く息が淡く銀色に染まって朝の光に溶けていく。
詠唱の最後の音節が、朝の空気にほどけて消えた、その時。
井戸の底で、しゃら、と微かな音がした。
リュカは息を止めて、再び井戸を覗き込んだ。
暗がりの奥に、ちいさな光が揺れている。最初は幻かと思った。けれどそれは一粒、また一粒と増えていき、やがて揺れながら広がっていった。光ではない——水面だ。朝の光が、新しく生まれた水の面に反射しているのだ。石の肌をしっとりと湿らせながら、水位はゆっくりと上がってきていた。こぽり、と底のほうから空気の泡が弾ける音がする。次いで、ちょろちょろと細い流れが石の継ぎ目から滲み出す音も。乾いていた石の匂いが、みるみるうちに湿った鉱物の香りへと変わっていく。枯れ井戸は、静かに、しかし確かに、清水で満たされつつあった。
バケツを綱に結び、震える手で降ろしてみる。やがて、ずしりとした重みが返ってきた。引き上げたバケツの中で、汲みたての水が朝陽を受けて、銀色に揺れている。リュカはバケツの縁に顔を近づけ、恐る恐る掌ですくい、口に含んだ。
冷たい。そして、甘い。
舌の上で、水が生きていた。屋敷の磨き抜かれた銀の水差しから注がれるどんな水よりも、この、苔の匂いが混じった素朴な水のほうが、ずっと、甘かった。喉を落ちていく水の一筋が、胸の奥までひんやりと道をつけていく。リュカは掌の水を見つめ、それからもう一度、自分の掌に浮かんだ銀の紋章を見た。紋章はまだ、うっすらと残光を留めていた。
へたり、と膝が折れた。
井戸の縁にもたれかかるようにして、リュカはその場にしゃがみ込んだ。涙が出そうになって、けれど出なかった。代わりに、喉の奥から低い、震えるような笑いがこぼれた。
「……僕は、」
声が掠れた。
「……無能じゃ、なかった」
水晶が反応しなかったあの朝のことが、鮮やかに蘇った。磨き上げられた大理石の床、父の冷えた一瞥、書記官の羽ペンが走る音。兄たちの嘲笑、母の伏せられた瞼。この子の名は返上する、と告げた父の声。その声は今もリュカの耳の奥で冷たく響いていた。けれど——あの水晶が測っていたのは、現代魔術の波長だけだったのだ。直線と星形、円と五芒星。鋭角で組まれた、今の時代の魔術の器。その器には、リュカの中に眠っていたこの銀の光は、そもそも映りようがなかった。
失われたはずの、古代魔術。書物の挿絵と、ほんの数行の記述でしか語られない、遠い昔の力。それが、なぜか自分の掌に宿っている。なぜ自分なのかは分からない。けれど、分からないままでよかった。
リュカは掌を開き、指先で、消えかけた紋章の輪郭をそっと撫でた。
「……ありがとう」
誰にともなく、呟いた。この力に、なのか。枯れ井戸を満たしてくれた水に、なのか。自分をここまで運んでくれた馭者の掌の温もりに、なのか。あるいは、自分を捨ててくれた父に、なのか。よく分からなかったけれど、その言葉は喉を通る時、確かに熱を帯びていた。
空を見上げると、雲の切れ間が少し広がっていた。朝の光が、井戸の水面に落ちて、ゆっくりと揺れている。リュカは水を張ったバケツの取っ手を握り直し、ゆっくりと立ち上がった。廃屋へ戻って、まずは竈の煉瓦を拭こう。薪を陽の当たる場所に並べて乾かそう。黒パンを、この水でふやかしてみよう。きっと、昨夜よりはずっと食べやすくなる。
ひとつひとつ、数えるように考えながら、リュカは廃屋への道を戻っていった。バケツの中で、水が小さく音を立てて揺れた。その音は、屋敷の噴水のどんな水音よりも、耳にやさしかった。
——ただ、廃屋の戸口に立った時、リュカはふと、畑のほうへ目をやった。
廃屋の裏手、井戸のさらに向こうに、荒れ果てた畑地が広がっている。昨日は気づかなかった。雑草に埋もれ、土は灰色に乾き、かつて誰かが耕した畝の跡だけが、かすかに残っている。痩せた、死んだような土。けれどリュカの掌の奥で、銀の紋章がまた、とくん、と小さく脈を打った。まるで、あの土のほうへ行け、と囁くように。
リュカはバケツを戸口に置き、乾いた畑を見つめた。
風が、一度だけ吹いた。雑草の穂先が、ゆっくりと揺れた。