第1話
第1話
雨の音が、屋根の隙間からぽつりと落ちてきた。
リュカ・ヴァレンタイン——いや、もう「リュカ」とだけ呼ばれる少年は、土間に置かれた錆びた鍋を見つめ、ゆっくりと息を吐いた。鍋の縁には雨粒がひとつ、またひとつと、ささやかな音を立てて落ちていく。まるで誰かが遠慮がちに扉を叩いているような、そんな音だった。鉄の錆が雨に濡れて、わずかに赤茶けた匂いを立ち上らせている。リュカはその匂いを、不思議と嫌だとは思わなかった。屋敷の銀食器には決してない、土と時間の匂いだった。
廃屋は、辺境の森の入口にぽつんと建っていた。壁板は湿気で黒ずみ、窓枠は蔦に飲まれかけている。床板は歩くたびに軋み、竈の煉瓦は半ば崩れていた。ここに人が住んでいたのは、もうずいぶん昔のことらしい。天井の梁には蜘蛛の巣が幾重にも張られ、そのひとつひとつに小さな雨粒が引っかかって、薄暗がりの中で真珠のように光っていた。
それでも、リュカは不思議と、落胆していなかった。
「……静かだ」
呟いた声が、自分でも驚くほど穏やかだった。名門ヴァレンタイン伯爵家の三男として生まれて十五年、こんなにも肩の力が抜けた瞬間は一度もなかった気がする。朝晩の礼儀作法、剣術の稽古、魔力制御の反復訓練、そして兄たちと比べられる視線。すべてが遠い過去の景色のように感じられた。背筋をぴんと伸ばせと叩かれた肩も、剣だこのできない掌を見て舌打ちされた夜も、今はただ、雨音の向こうに溶けていく。
三日前、魔力測定の儀でリュカの水晶は何の反応も示さなかった。父は一瞥もくれず、ただ書記官にこう告げた。——この子の名は返上する。辺境へ送れ。嘲笑する兄、目を伏せる母、そして馬車に乗せられて揺られ続けた道のり。けれど、涙は一滴も出なかった。もう、泣く力すら残っていなかったのかもしれない。儀式の広間に差し込んでいた冷たい朝の光、磨き上げられた大理石の床、そのどれもが、自分を拒絶するために作られた舞台装置のように思えた。水晶を握ったときの、あの透き通った冷たさだけが、今も指先に残っている。
雨脚が、少しだけ強くなった。
リュカは薄い外套の襟を寄せ、土間の隅に積まれた薪を眺めた。濡れている。竈の火は熾せそうにない。荷物袋の底には、馭者が憐れみで分けてくれた黒パンの欠片と、干した果実がわずかにあるだけだった。馭者は去り際、無言でリュカの肩を一度だけ叩いた。哀れみだったのか、励ましだったのか、今となってはわからない。けれどその掌の重みだけは、奇妙なほど温かかった。ごつごつとした、馬の手綱を握り続けてきた男の掌だった。その重みは、屋敷で父から受けたどんな叱責よりも、深くリュカの肩に残っていた。言葉ではなく、ただ掌の熱だけで何かを伝えようとしてくれた人が、この世に一人でもいたということ。それだけで、胸の奥の凍りついた場所が、ほんの少し、溶けるような気がした。
それでも、彼はゆっくりと微笑んだ。
「……誰も、見ていないんだ」
期待する目も、見下す目も、ここにはない。失敗しても叱責されない。成功しても比べられない。ただ、雨の音と、自分の呼吸だけがある。生まれて初めて、リュカは自分の鼓動を、耳ではなく胸の奥でちゃんと聞いた気がした。とくん、とくん、と。それは今まで誰にも聞かせる必要のなかった、自分だけのための音だった。屋敷では、自分の心臓の音さえ、誰かに咎められそうで怖かったことを、今になって思い出す。
外套を脱いで、固い寝台代わりの藁束に腰を下ろす。指先が、ひどく冷えていた。息を吹きかけても、温もりはすぐに夜気に吸い取られていく。それでも、その冷たさすら、リュカには自分のものだと感じられた。誰かに与えられた痛みではなく、自分が選んだ道の果てにある感覚。ならば、受け入れられる。
ふと、床板に目が落ちた。
竈の前、ちょうどリュカが座っている場所の足元に、古びた文様が刻まれている。もとは白木だったのだろうか、長い年月で飴色になった板の表面に、渦を巻くような細い線が幾重にも重なっていた。砂粒と埃に半ば埋もれていて、注意深く見なければ気づかないほどの、淡い痕跡。
「……なんだろう、これ」
貴族の教本で見た魔術陣とは、まるで形が違った。現代魔術の紋は鋭角で構成される。直線と星形、円と五芒星。師から習ったどの紋章学の図版にも、こんなにやわらかな線はなかった。けれど床板の文様は、どこまでも柔らかく、川の流れのように曲がり、螺旋を描いて中央に収束していた。まるで植物の蔓が、そっと絡み合っているような。あるいは、風が水面に描く波紋のような。見ているだけで、張り詰めていた何かが少しずつほどけていくような感覚があった。
リュカは袖で埃を払った。乾いた埃が鼻先に舞い上がり、小さくくしゃみが出そうになる。指先が文様の一部に触れた瞬間——。
とくん、と。
床板の奥で、何かが小さく脈を打った。
「え……?」
錯覚だと思った。疲れのせいだと。けれど、掌の下に確かに伝わってきたのだ。遠い地鳴りでも、木の軋みでもない。生きものの心臓のような、静かで規則正しい拍動。自分の鼓動とは、明らかにリズムが違った。もっと、ずっと、ゆっくりとした——まるで眠っている巨きな生きものが、夢の中で呼吸しているような。リュカは息を呑んだまま、もう一度、恐る恐る指先を文様に重ねてみた。とくん。やはり、返事のように鼓動が返ってくる。けれどそれは敵意の気配ではなかった。むしろ、長いあいだ誰にも触れられず、ただ静かに待っていたものが、ようやく人の手のぬくもりを思い出したような——そんな、どこか切ない響きを帯びていた。
文様の一本が、うっすらと銀色に滲んだ気がした。ほんの一瞬、瞬き一つ分の間だけ。銀というより、月の光を溶かして流し込んだような、どこか懐かしい色合いだった。初めて見るはずなのに、胸のどこかが「知っている」と囁いた。それがなぜなのか、リュカにはわからなかった。
リュカは慌てて手を引いた。心臓が早鐘を打つ。指先がじんと痺れ、冷えていたはずの掌に、ほのかな熱が残っていた。けれど、それきり何も起こらなかった。床板は元の飴色に戻り、雨の音だけが屋根裏で鳴っている。
「……疲れてるんだな、僕は」
自分に言い聞かせて、藁束の上に横になった。外套を毛布代わりにかぶると、湿った藁の匂いと、遠い森の土の匂いが鼻をくすぐった。雨に濡れた葉の、青く澄んだ香り。貴族の屋敷では、決して嗅ぐことのなかった匂いだった。香木でも香油でもない、ただ生きているものたちの匂い。それは不思議と、リュカの胸の奥をあたためた。
黒パンを少しだけかじる。硬くて、塩気もほとんどない。噛むほどに顎が痛み、歯の根に粉っぽさが残る。それでも、誰かの視線を気にせずに食事をするというのは、こんなにも呼吸がしやすいことなのかと、リュカは密かに驚いていた。屋敷の食卓では、ナイフの角度ひとつ、スープの音ひとつに気を配らねばならなかった。口に入れる前から、味など感じる余裕はなかったのだ。
(明日、起きたら……井戸の水を汲もう。竈を直そう。薪を、乾いたのを探そう)
考えごとが、不思議と前向きに流れていくのが自分でもおかしかった。無能と断じられた日の夜、馬車の中では、ただただ頭が真っ白だったのに。今は、生きるために何をすべきかを、ひとつひとつ数えている。誰かに命じられたからではない。自分が、そうしたいと思ったから。その違いが、こんなにも心を軽くするのだと、リュカは初めて知った。
屋根の隙間から、雨粒がまたひとつ、鍋に落ちた。ぽとん、と澄んだ音が響く。
(……意外と、悪くないな)
目を閉じると、瞼の裏に、屋敷の長い回廊が浮かんだ。兄たちの笑い声、父の冷えた眼差し、母のため息。けれどその映像は、もう遠い絵本の挿絵のように、リュカの心を引っ掻かなかった。痛みは確かにあった。けれどそれは、もう自分を縛る鎖ではなく、ただの記憶の輪郭になりつつあった。
やがて、まどろみが訪れた。
雨音は子守唄のように規則正しく、森の梢を撫でる風が、廃屋の壁を優しく揺らしていた。少年の呼吸は、ゆっくりと、深くなっていく。
——その時だった。
リュカの寝息に合わせるように、床板の文様が、ほんのかすかに、銀の光を帯びた。一度、二度、三度。まるで何かが長い眠りから覚めようとしているかのように。渦巻く紋は少年の体の下で静かに呼応し、細い光の筋を、彼の指先へと伸ばし始めていた。
けれど、深い眠りに落ちたリュカは、それに気づかない。
屋根を打つ雨の音だけが、廃屋の夜を包んでいた。明日の朝、井戸の前で彼を待っているものが何なのか——少年はまだ、知る由もなかった。