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信長の膳番──戦国料理道

第1話 第1話

第1話

第1話

午前三時四十七分。銀座の路地裏、地下二階に沈んだ高級料亭〈瑞雲〉の厨房で、結城颯太は未だ包丁を握っていた。  白いコックコートの袖口は、鴨の血と出汁の染みで黒ずんでいる。洗っても落ちない油膜が、布地の繊維を黄ばませ、袖口の折り返しには昨日刻んだ生姜の繊維が一本、細く貼り付いていた。十八時間前、彼はまだこの同じ場所に立っていた。昼の仕込み、夜の営業、深夜の翌日準備──時間はとうの昔に溶け、意識だけが蛍光灯の白い光に釘付けにされていた。排気ダクトの唸る低い音と、寸胴で煮え続ける昆布出汁のかすかな泡の音が、眠気の底で交じり合い、耳の奥で一つの単調な潮騒になっていた。 「おい颯太、鱧の骨切りまだか。遅え」  ホール担当の先輩の声が、厨房の奥から飛んでくる。返事をしようとしたが、喉がひりついて声にならなかった。午後の賄いを食べ損ね、夕方のまかないも抜けた。水すらまともに飲んでいない。舌の裏に鉄錆のような味がわだかまり、唾を飲み下そうとするたびに喉仏が小さく痙攣した。 「……はい、すぐに」  ようやく絞り出した声は、自分のものとは思えぬほどかすれていた。颯太は鱧の骨切りを再開する。二十五本の細かな包丁目を、身を裂かず皮だけ残して入れる熟練の技。前世ならぬ現世の二十六年間、このために積み上げてきた全てが指先に宿っている。刃先がまな板を打つたび、トン、トン、トン、と乾いた音が一定のリズムで厨房に響き、それだけが彼がまだ生きているという証のように思えた。刃の重みが、いつもより二倍に感じられる。手首の腱が、細い鉄線のように軋んでいた。それでも指は動いた。頭より先に、骨が、筋が、勝手に動いた。  三ツ星を、獲る。いつか自分の店を持つ。亡くなった母に、一度でいいから自分の料理を食べさせる──その夢だけを燃料に、彼はこの厨房に立ち続けてきた。病院のベッドで、点滴の針を刺した細い腕をシーツの上に投げ出したまま、「颯ちゃんの作ったご飯、いつか食べたいな」と笑った母の、あの乾いた唇の色まで、彼はまだ覚えていた。消毒液の匂いと、窓際に差し込んでいた午後四時の斜陽。母の枕元に置かれた、半分まで飲みかけのぬるいほうじ茶。あの光景は、二十六年間の記憶の中で、唯一錆びずに残っているひとこまだった。  だが、夢は少しずつ擦り減っていた。

 店のオーナーは、食材の原価をごまかし、仕入れ伝票を改竄する男だった。従業員の残業代は「見習い期間」という名目で三年以上支払われていない。先月倒れた後輩の川村は、救急車で運ばれたきり戻らなかった。代わりに入った新人は、半月でまた消えた。川村の私物が入ったロッカーは、今も通路の隅で鍵をかけられたまま、誰も開ける者がいない。扉の隙間から、彼が愛用していた安いデオドラントの残り香が、時折ふっと漏れ出てくる。その匂いを嗅ぐたび、颯太は胸の奥がざらりと砂を噛むような感触に襲われた。あの日、川村は「先輩、俺もう限界っす」と笑いながら言っていた。笑っていたから、誰も本気にしなかった。颯太自身も、肩を叩いて「あと一年、耐えろ」としか返せなかった。あの一言が、喉の奥に小骨のように刺さったまま、今も抜けない。 「颯太、手ェ止めんなよ。お前が倒れたら明日の予約どうすんだ」  料理長の声が遠くで響く。颯太は頷いた──つもりだった。実際には首が、ぐらりと前に傾いただけだ。耳の奥で、自分の心拍が水中から聞こえるように鈍くこだましていた。  指先の感覚が薄い。鱧の銀皮が、まな板の上で青白く揺れている。いや、揺れているのは自分の視界か。指の腹が包丁の柄を握っているのか、柄が指に吸い付いているのか、その境界すらもう曖昧だった。掌に滲んだ汗が、木の柄に染み込んでぬるりと滑る。そのぬめりすら、今はどこか他人の手のもののように遠かった。 (あと、この一尾だけ……終わらせれば、帰れる……)  帰る、とは言っても、家はこの厨房から徒歩十五分のワンルームで、畳まれた布団の上にはシーズン前の取材資料が散らばっているだけだ。誰も待っていない。母は三年前に亡くなった。恋人はいない。友人も、気づけば全員音信不通になっていた。冷蔵庫には賞味期限の切れた牛乳と、半分だけ使ったネギが一本。それが、颯太という人間が現世に残している生活の全てだった。  それでも、今は帰りたかった。一度だけでいい、熱い風呂に浸かりたかった。湯の中で、この鉛のように重い脚を伸ばして、ただ天井の木目を見ていたかった。それだけで、いい。  ふと、包丁の刃に自分の顔が映った。頬は削げ落ち、目の下には墨を塗ったような隈が広がっている。これは、二十六歳の顔ではない。鏡の向こうの男は、四十を過ぎた敗残者のような、枯れた眼差しをしていた。唇の端がひび割れ、うっすらと血の線が走っている。いつ切れたのかも、もう思い出せない。  その瞬間、胸の奥で、小さく、何かが切れる音がした。細い糸が、ぷつん、と。ずっと張り詰めていた何かが、自分でも気づかぬ間に限界を越えていたのだと、颯太は遅れて悟った。

 最初は軽い眩暈だった。  次に、鱧の銀皮が二重に見えた。  三度目に、包丁が手から滑り落ちた。金属と木のまな板が、澄んだ音を立てて触れ合う。颯太はその音を、奇妙なほど遠くで聞いていた。まるで、誰か別の人間の厨房で起きた出来事を、分厚いガラス越しに眺めているかのようだった。 「──颯太?」  料理長の声が、水の底から届くように歪む。膝が崩れる。颯太は前のめりにまな板へ倒れ込み、そのまま冷たいタイルの床へ滑り落ちた。頬に床の冷たさが触れる。意外にも、それは心地よかった。十八時間立ち続けた足の裏の熱を、静かに吸い取っていく。タイルの目地に溜まった水の匂いと、排水口から立ち上る魚の鱗の匂いが、鼻先で混ざり合う。それすら、もはや懐かしく感じられた。 「おい、誰か救急車! 颯太! 目ェ開けろ!」  騒がしい。もう少し静かにしてほしい、と颯太は思った。こんなに疲れているのに。こんなに、ずっと、疲れているのに。誰かの靴が床を蹴る音、ステンレスのボウルが跳ねる音、遠くで電話を叩きつけるような音──すべてが、遠い祭り囃子のように重なって、彼の頭上を通り過ぎていった。  蛍光灯の白い光が、視界の端で滲んでいく。ガスレンジの青い炎が、ゆらり、ゆらりと揺れる。誰かが肩を揺すっている。その手の感触も、もう遠い。揺さぶる手の力が、まるで薄い膜の上から触れられているように、体の奥まで届かなかった。  ああ、そうか。俺は、ここで終わるのか。  怒りはなかった。悔しさもなかった。ただ、ひどく、申し訳ない気持ちだけが胸の底に残っていた。母さん、ごめん。俺、結局、一皿も食べさせられなかったな──。あの日、病室で約束した「退院したら、俺が一番美味いだし巻き作ってやるから」という言葉が、今さらのように喉の奥で腐っていた。  三ツ星。自分の店。母の笑顔。積み上げてきた全ての夢が、仕込み中の鍋の湯気のように、音もなく天井へと昇っていく。颯太はそれを、床に頬をつけたまま見送った。白い湯気は天井の換気扇に吸い込まれ、そこから先はもう、彼の目には映らなかった。  瞼が、重い。  重い瞼の向こうで、厨房の白い光が、ゆっくりと細くなっていく。縦に、縦に、一本の線になって──そして、消えた。

 闇だった。  音も、匂いも、痛みすらもない、完全な闇。しばらくの間、颯太はそこに漂っていた。疲れは、もう感じなかった。それが何よりも、不思議だった。二十六年間、一日たりとも離れなかった肩の凝り、腰の重さ、足裏の鈍痛──そのすべてが、嘘のように剥がれ落ちていた。 (これが、死ぬということか)  思考は驚くほど透明だった。後悔も、恐怖も、風呂場の湯気のように薄れていく。ただ、闇は優しく、どこまでも深かった。母の胎内とは、もしかするとこんな場所だったのかもしれない、と颯太はぼんやり思った。  どれほどの時が流れたのか。あるいは、時などというものは、この闇には存在しないのか。  やがて、闇の底から、かすかな音が聞こえてきた。  最初は、雨音かと思った。次に、誰かの足音かと思った。だが、違う。もっと重く、もっと硬い。金属と革と木の、擦れ合う音。幾人もの男たちが、土を踏みしめながら歩いている──そんな音だった。  ──具足の、擦れる音。  颯太は、その単語を知っていたはずなのに、なぜ今それが脳裏に浮かんだのか分からなかった。ガチャリ、ガチャリ、と、闇の縁で音は次第に近づいてくる。遠くで、男の怒鳴り声。馬のいななき。そして、鼻の奥に、今まで嗅いだことのない煙の匂いが、ふっと、流れ込んできた。松脂と、湿った藁と、何か獣の脂を焼いたような──料理人の鼻が、反射的にその匂いを分解しようとして、途中で諦めた。この匂いは、彼の知るどの厨房にも、存在しなかった。

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