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黴の聖女、巻き戻る

第3話 第3話

第3話

第3話

冷たくも熱くもない、その手のひらが、頰の輪郭をなぞっていく。指の腹の、あのざらついた感触。親指のつけ根の、少しだけ硬くなった皮膚の盛り上がり。剣の柄を幾度も握り直してきた者の、あの独特の節くれ。私はそれを知っていた。知っている、と思った瞬間、闇の底がふっと薄くなって、瞼の裏に、見覚えのある天井の木目が滲み出した。  薔薇の木で組まれた、格天井の、右から三つ目の升。幼い頃、寝つけない夜に何度も数えた、あの歪んだ節の模様。左端がわずかに欠けて、犬の横顔のように見える、あの節。  ――嘘。  私は、目を開けた。  枕の縁に、長い金の髪がひと筋、流れている。指でつまみ上げる。枝毛ひとつない、絹のような手触り。修道院に流される前の、まだ聖女だった頃の、私の髪だ。昨日までのあの、黴と埃の匂いが染みついた、束ねるたびにばらばらと抜け落ちた髪ではない。手首の内側には、縛められた縄の痕も、長旅の擦り傷もなかった。白い、ただ白い、薔薇水の匂いだけを纏った腕がそこにあった。静脈の青が、薄い皮膚の下で、儚いほど綺麗に透けていた。  身を起こす。天蓋の薄絹が、寝返りの風でふわりと持ち上がる。部屋の奥の書き物机、その上の白い薔薇の一輪挿し。花弁の縁に、小さな露がひとつ、まだ乾かずに光っている。窓際の鳥籠で、小さな金糸雀が首を傾げて私を覗き込んでいる。小さな嘴が、とん、と止まり木を叩いた。全部、見覚えのある、私の部屋だった。三年前の、あの夜までの、私の部屋。  壁の暦に目を走らせた瞬間、心の臓が、一度だけ、大きく跳ねた。  ――建国祭前夜。  婚約破棄の、前の晩。

 「……そんな」  声が、喉の奥で詰まった。掌で口を押さえる。指先は、白く、細く、爪の先まで丁寧に磨かれていた。ついさっきまで、掛け金を握りそこねて震えていた指とは別の生き物のようだった。侍女が毎晩、薔薇の香油で揉み込んでくれていた、あの頃の指。けれど、と、私は自分の指をゆっくりとほどく。爪の、ほんの縁のところ。薄桃色の爪の境目に、黒いものが、ひと筋だけ残っていた。  黴だ。  辺境修道院の、あの受付の名簿を撫でた指先に、確かに残っていた、古い井戸の底の匂いの、あの黴の粉。鼻先に寄せる。微かに、苔と、鉄と、腐りかけた花弁の匂いが、立ちのぼってきた。舌の奥に、錆びた水を含んだときのあの苦味まで、甦ってくる。胸の奥の、かつて聖痕のあった場所が、返事をするようにじん、と疼く。燃えるような熱ではない。けれど、そこに、何かが、まだ、いる。脈に合わせて、ゆっくりと、息をしている。  夢ではない。時が、巻き戻ったのだ。  転生、ではない。私は、私のままで、三年前のこの夜へ落ちてきた。闇の底で、あの手に頰を撫でられた、その続きとして。

 膝が笑った。寝台の縁に腰掛けたまま、しばらく動けなかった。寝巻きの裾を握りしめた手のひらに、じっとりと汗が滲んでくる。  巻き戻ったのだと悟ると同時に、胸の奥を駆け抜けたのは、歓喜ではなく、恐怖だった。やり直せる、という言葉より先に、誰がこれを、という疑いが先に立った。神ではないと、なぜか確信があった。神が、祈りを捧げた私を辺境の石牢から連れ戻したというのなら、指先にこの黴の匂いを残す必要などない。真白き手で、真白きまま、ここへ戻せばいいだけのことだ。爪の縁のこの一筋は、忘れるな、という印だった。お前がどこから戻ってきたか、忘れるな、と。署名のように、爪の際に押された、誰かの指紋。  ――誰が、忘れさせないのか。  私はのろのろと立ち上がり、鏡台のほうへ歩いた。床の絨毯の毛足が、素足の裏を柔らかく撫でる。ふかふかと、足の指の股にまで潜り込んでくるその柔らかさが、かえって嘘くさかった。辺境の石畳の、ひと足ごとに返ってきた乾いた舌打ちのような音が、踵の裏に、今も染みついているというのに。歩くたびに、過去と現在が足の裏で擦れ合って、ちりちりと小さな火花を散らすようだった。  鏡台の前に、腰を下ろす。三面鏡の、真ん中の硝子。銀の枠に薔薇の蔦が彫られた、母の形見の姿見。蔦の絡まるその隙間に、幼い頃こっそり隠した小さな貝殻が、まだそのままあるのが、視界の端に見えた。私は一度だけ、深く息を吸って、それから、目を上げた。  鏡の中に、十七の私がいた。  金の髪を肩に垂らし、寝巻きの襟を緩めた、あの夜の私。頰は柔らかく、唇には血の色があり、目の縁に、断罪の涙のあとはまだない。美しい、と、他人の顔を見るように、私はぼんやり思った。美しいから、狙われたのだろうか。それとも、美しく見せるために、誰かが、丁寧に磨き上げてきたのだろうか――儀式の、器として。薔薇水も、香油も、侍女のあの柔らかな指も、みな、ひとつの祭壇の上に私を整えるための、長い長い下ごしらえだったのだろうか。  鏡の中の私は、ちゃんと、私の動きを真似ていた。私が瞬けば、瞬き、私が唇を噛めば、噛んだ。安堵しかけた、その時だった。  私の背後。天蓋の薄絹の、ちょうど垂れ下がった襞の奥。  そこに、ひと筋、黒い影があった。

 影は、人の形をしていなかった。ただの、縦に細い、染みのような翳り。蝋燭の芯から立ちのぼる煤を、そのまま縦に引き延ばしたような、頼りない輪郭。けれど、その頼りない翳りが、鏡の中でだけ、じっと私を見ていた。振り返っても、そこには薄絹の白い襞があるだけだ。襞はそよりとも揺れず、ただ、私の乱れた呼吸の波だけを、かすかに写し取っている。鏡の中にだけ、あるもの。  胸の奥の、聖痕のあった場所が、ちり、と小さく灼けた。焼けた針の先を、一瞬だけ押し当てられたような、正確な痛み。痛みは、一度きりでは終わらなかった。心の臓が打つたび、同じ位置を、同じ深さで、誰かが丁寧に拍子を取るように、ちり、ちり、と灼いてくる。まるで鏡の向こうの影が、その細い指先に小さな火口を抱えていて、私の鼓動と呼吸の隙間を数えながら、ごく慎ましく、礼儀正しく、押し当ててくるかのようだった。  私は鏡から目を逸らさなかった。逸らせば、影のほうが先に動く気がした。喉の奥で唾を呑み込み、掠れた声で、囁くように問うた。 「……あなたは、誰」  声が、鏡面にぶつかって、硝子の内側で小さく震えた気がした。自分の声なのに、硝子の向こうから返ってきたようで、耳の奥がひやりと冷えた。唇の動きより、ほんの半拍だけ、鏡の中の私の唇のほうが遅れて閉じたように見えたのは、気のせいだろうか。気のせいだと、思いたかった。  返事の代わりに、鏡の奥の影が、ほんのわずかに、傾いだ。  あの少女の顔と同じ傾ぎ方だった。右の肩を、ほんの一寸だけ落として、こちらの出方を窺う、あの角度。  私は目を閉じた。閉じた瞼の裏に、辺境の修道院のオルガンの、あの低い唸りが戻ってくる。受付の名簿から滲んで消えた、私の名前。祭壇の奥の、湿った息遣い。――それから、闇の底で頰に触れた、覚えのある手。  記憶は、自分だけのものだと思っていた。胸の奥の、一番鍵のかかった抽斗の、一番底の仕切りにしまってあるものだと。  三年前のこの夜に戻ったのなら、未来の記憶を持っているのは、私ひとりのはずだった。そのはずなのに、鏡の中の影は、私の「覚えている」を、こちらより先に知っているようだった。私が、次に何を思い出すのかを、一歩先の頁をめくって、待っているようだった。誰かが、私の記憶の抽斗の合鍵を、もう一本だけ、握っている。

 しばらくして、私はようやく目を開けた。  鏡の中の影は、消えていた。ただ、鏡面の、ちょうど私の胸のあたりに、白い息の曇りが、ひとつだけ残っていた。私は、息を、吐いていない。曇りは、ゆっくりと、外側から内側へ向かって縮みながら消えていった。まるで、誰かが、鏡の向こう側から、そっと唇を離したあとのように。  立ち上がり、窓辺へ歩く。夜気が、硝子の外で、じっと待っていた。窓を細く開けると、遠くで、建国祭の前夜を祝う篝火の、朱い光が揺れている。風に乗って、笛の音と、酔った兵士たちの笑い声の欠片が、途切れ途切れに届いてきた。明日、あの光の下で、王太子は私の手から聖印を剥ぎ取るだろう。令嬢たちは扇の奥で笑うだろう。台詞も、笑い方も、扇の縁飾りの揺れ方まで、誰がどの順で目を伏せるかまで、私は、全部、覚えている。  覚えている、というのに、胸の底は、静かだった。凍った湖の底のように、静かだった。怒りも、悔しさも、今は、浮かばない。浮かぶのは、ただ一つ――明日、私は、泣かない。一滴も、零さない。  そう決めた途端、背後の鏡の中で、何かが、かすかに、微笑んだ気配がした。唇の端だけを、ほんの一分、持ち上げるような、慎ましい微笑み。爪の縁の黒い一筋が、ほんの少しだけ、濃くなったように見えた。  祈ることは、もう、しない。  指先の黴の匂いを、私は、そっと、嗅いだ。

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