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氷の令嬢は自由に焔る

第3話 第3話

第3話

第3話

書斎への廊下を歩きながら、記憶の奔流はまだ止まなかった。  先ほど馬車の中で押し戻した一片――火刑の記憶が、封じた指の隙間から煙のように漏れ出してくる。足を進めるたび、大理石の床が遠くなり、代わりに足の裏に乾いた土と枯れ草の感触が蘇る。松脂の匂い。群衆の怒号。そして、縛められた両手首に食い込む麻縄の痛み。  ――来る。  こめかみが軋んだ。視界の端が白く灼け、廊下の燭台の炎が一瞬、別の火に変わった。橙色ではない。もっと白く、もっと激しく、空気そのものを喰い尽くすような火。あの日の火だ。  もう、押し戻せなかった。

 前の生の記憶が、瞼の裏に焼きついて離れない。  辺境の森の奥、石積みの塔で私は暮らしていた。名は――もう忘れた。いや、名などなかったのかもしれない。村人たちは私を「魔女」とだけ呼んだ。畏れを込めて、あるいは縋るように。  禁呪の七体系。闇を編む術、大地の脈を読む術、死者の残した言葉を拾い上げる術。王国が禁忌と定めたそれらを、私はただ知りたいという渇きだけで学び、体系化した。誰に師事したわけでもない。森と書物と、長い長い孤独の夜が、私の教師だった。古い羊皮紙を燭台の灯りで読み解きながら、幾度となく夜明けを迎えた。指先がインクで黒く染まり、爪の間にまで入り込んだそれは、何日経っても完全には落ちなかった。塔の最上階には天窓があり、晴れた夜には星々が術式のように正確な配列で瞬いていた。あの光だけが、孤独を孤独と感じさせない唯一のものだった。  村の泉が涸れれば、禁呪で地下水脈を呼び起こした。疫病が流行れば、闇の浄化術で瘴気を祓った。森の魔獣が村を脅かせば、茨の結界で追い払った。報酬は求めなかった。ただ、塔の窓から見える針葉樹の海と、時折届けられる焼きたての黒麺麭があれば、それで十分だった。届けに来る少女はいつも塔の入口に籠を置いて走り去った。振り返りもせずに。それでも、麺麭はまだ温かかった。  静かな日々だった。孤独ではあったけれど、満ち足りていた。  その均衡を壊したのは、王家だった。  ある冬の朝、王都から勅使が訪れた。禁呪の魔女の力を王家のために使え、と。従わなければ異端として処す、と。私は断った。穏やかに、けれど明確に。この力は誰かの道具になるために磨いたものではない。ましてや、戦のために振るう剣ではない。  勅使は去った。私は愚かにも、それで終わったと思った。  翌月、騎士団が来た。百を超える兵と、王宮付きの魔術師が十二人。私の塔を取り囲み、投降を迫った。松明の火が針葉樹の幹を赤く染め、馬の嘶きと鎧の軋みが森の静寂を引き裂いた。夜気の中に鉄と汗と松脂の匂いが混じり、それが私の塔の石壁にまでじわりと染み込んでくるようだった。それでも私は戦わなかった。戦えば村に被害が及ぶ。茨の結界を解き、自ら縄を受けた。  裁判は三日で終わった。いや、裁判と呼ぶのも烏滸がましい茶番だった。禁呪の行使、王命への不服従、異端の疑い。証人として立ったのは、かつて泉を清め、疫病を祓い、命を救った村人たちだった。彼らは一様に目を伏せ、震える声で、魔女の恐ろしさを証言した。あの黒麺麭を届けてくれた少女も、そこにいた。もう少女ではなく、痩せた頬の若い母親になっていた。腕に抱いた赤子を庇うように、私から目を逸らした。  恨みはしなかった。怒りもしなかった。  彼らもまた、王家という巨大な力の前では枯れ葉に過ぎない。風に逆らえば折れるだけだ。  ただ、悟った。この世界では、力を持つだけで罪になる。王家より強い力を持つことは、存在そのものが叛逆なのだ。

 火刑は、王都の中央広場で執り行われた。  高く積まれた薪の上に立たされた時、私の目に映ったのは群衆の顔ではなかった。広場を見下ろす王城の露台に、金の冠を戴いた影が立っていた。――王だ。わざわざ魔女の処刑を見届けに来たのだ。  その隣に、幼い少年が立っている。金色の髪。端正な横顔。あの王冠をいずれ受け継ぐであろう、小さな王太子。少年の瞳は好奇と怯えの間で揺れていた。あれが恐怖を学ぶ前の、無垢な残酷さというものだった。  火が点けられた。  足元から炎が這い上がってくる。煙が目に沁み、喉を焼き、肌を炙る熱が骨まで届く。薪が爆ぜる音が、群衆の歓声とも悲鳴ともつかない叫びに呑まれた。禁呪を使えば、この程度の火など瞬きの間に消せた。縄を断ち、炎を喰らい、騎士団ごと広場を闇に沈めることもできた。  しなかった。  なぜかは、今でも分からない。疲れていたのかもしれない。あるいは、最後の最後まで、人を傷つけたくなかったのかもしれない。  炎の中で、私は空を見上げた。冬の青空が、煙の向こうに透けていた。美しいと思った。こんな死に方をしても、空はやはり美しいのだと。  意識が薄れていく最後の瞬間、唇が動いた。  ――次は、もう少し賢く生きよう。

 廊下の壁に、手をついていた。  額に汗が滲んでいる。呼吸が浅い。全身が微かに震えている。白い手袋の下で、指先が冷たく痺れていた。あの火の熱さの記憶が生々しいのに、身体は逆に凍えるように冷えている。大理石の壁の冷たさだけが、ここが今生であることを繋ぎ止めていた。けれど、膝は折れていなかった。  前世の死の記憶を丸ごと追体験して、なお立っている。大広間で銀の睫毛ひとつ揺らさなかった身体が、ここでも私を支えていた。  深く、長く、息を吐いた。吐き出した息が、廊下の冷気に白く曇った。  火の熱が、まだ肌の記憶として残っている。喉の奥に煙の苦みがこびりついている。けれどそれは恐怖ではなかった。怒りですらなかった。もっと静かな、深い水底に沈んだ石のような――覚悟だ。  すべてが繋がった。  今生で王家に覚えていた違和感の正体が、ようやく分かった。ジークハルトの傲慢さに感じた既視感。王宮の魔術師たちが纏う冷たい術式の気配への本能的な警戒。婚約の儀式で胸の奥が凍りついた、あの説明のつかない感覚。  全て、前世の記憶が警告を発していたのだ。肉体は忘れても、魂が覚えていた。この王家は、かつて私を焼いた者たちの末裔であることを。そして婚約という名の封印は、再び私の力を奪うための、周到に仕組まれた罠だったことを。  偶然ではない。何一つ。  公爵家に生まれたことも、幼くして王太子の婚約者に選ばれたことも。前世の魔女が同じ魂を持って転生したと、誰かが知っていたのだ。知った上で、封じた。今度は火刑などという荒事ではなく、婚約という絹の鎖で。従順な人形として一生を終えさせるために。  あの広場で私を見下ろしていた金の冠。その血を引く王太子が、今度は婚約者として私の隣に立った。歴史は繰り返す。いや、繰り返させようとした者がいる。  けれど、筋書きは狂った。  ジークハルトが自らの手で婚約を破棄したことで、封印は砕けた。桃色の髪の少女に心を移したあの愚かな王太子は、父祖たちが二度の生をかけて封じた禁呪の魔女を、自らの手で解き放ってしまったのだ。

 口元に、微かな笑みが浮かんだ。  前世の最期に唇が紡いだ言葉を、今も覚えている。次は、もう少し賢く生きよう――と。  今度は従わない。縄を受けない。誰かを信じて差し出した手を、鎖に変えられるような愚は犯さない。 「今度は、奪わせない」  声にしたのは、ほとんど無意識だった。  廊下に反響したその一言は、前世で言えなかった全てを含んでいた。炎の中で呑み込んだ叫びが、二つの生を跨いで、ようやく声になった。  壁から手を離し、背筋を伸ばした。汗を拭い、銀の髪を整える。紺碧のドレスの裾を払い、白い手袋の下に漆黒の力を沈めたまま、私は再び歩き出した。  書斎の扉の前に立った時、扉の向こうから漏れる声が耳に触れた。父の声ではない。もっと高く、事務的で、王宮の廊下に響くことに慣れた種類の声だった。 「――修道院の手配は、明朝までに整います。陛下のご意向では、できる限り速やかに」  足が止まった。  修道院。  前世で薪の上に立たされた記憶が、一瞬だけ視界を灼いた。手口は変わった。火刑ではなく、修道院。けれど本質は同じだ。力を持つ者を、閉じ込め、消し去る。  扉の奥で、父が何かを答えている。その声はひどく小さく、疲れ切って、――怯えていた。  ノブに伸ばしかけた指を、静かに引いた。  今、この扉を開けるべきではない。まだ、その時ではない。

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