第2話
第2話
漆黒の影が、手袋の縫い目から這い出してくる。 それは蛇のようにしなやかに、けれど霧のように掴みどころなく、私の指を一本ずつ舐めるように這い上がった。絹の手袋越しにさえ、その熱は骨の髄まで届く。痛みではない。もっと根源的な、血液そのものが沸き立つような脈動だった。 馬車が石畳の継ぎ目を越えるたび、車体が軋む。窓硝子に映る私の顔は、シャンデリアの残像を纏ってなお蒼白だったけれど、瞳の奥で――確かに何かが、燃えている。 手袋を、剥いだ。 右手、それから左手。絹が滑り落ちた瞬間、白い指先から立ち昇る漆黒の魔力が、馬車の天蓋に影を落とした。蝋燭もないのに、影だけがある。いや、違う。この闇そのものが光を喰らっているのだ。 「――っ」 息を呑んだのは、恐怖からではなかった。 この魔力を、私は知っている。 知っているはずがないのに、掌に馴染むその重さ、温度、律動のひとつひとつが、まるで何十年も使い込んだ道具のように手に吸いつく。指を軽く曲げれば、漆黒の霧が素直に従い、渦を描き、凝り、そして溶ける。呼吸をするように自然に。歩くように当然に。 そして――記憶が、来た。
雪崩だった。 最初にひとつ、小さな欠片が落ちてきた。松の匂い。樹脂を煮詰める銅の鍋。古い石造りの部屋で、分厚い革表紙の書物に囲まれている。窓の外には、見渡す限りの針葉樹の海。私の指は――今より少し節くれ立って、爪の間に薬草の染みがこびりついている。 それだけだった。ほんの一瞬の映像。 けれどその一片が崩れた瞬間、堰が切れた。 記憶の奔流が、頭蓋の内側を叩きつけるように押し寄せてくる。映像ではない。匂い、温度、痛み、歓び、孤独――すべてが渾然となって、十八年の人生の下に埋もれていたもうひとつの生涯が、地層ごと隆起するように浮かび上がった。こめかみの奥が焼けるように軋み、視界の端が白く明滅した。歯を食いしばる。声を出してはいけない。御者に気取られてはならない。 辺境の森。朽ちかけた石の塔。村人たちが恐れと敬意をない交ぜにして囁いた名前。 ――禁呪の魔女。 私は、かつてそう呼ばれていた。 禁忌とされた七つの魔術体系を独力で体系化し、王国の魔術師団が百人がかりで成し得ぬ術を、たった一人の指先で紡いだ女。闇を操り、死者の声を聴き、大地の記憶を読み解く力を持ちながら、ただ静かに辺境の塔で暮らしていた。誰かを傷つけたことはない。誰かを救ったことは、数え切れぬほどあった。 なのに。 火の記憶が、喉元を焼いた。 ――それは、まだ、触れてはならない。 私は奔流の中で意識を保ちながら、その一片だけを押し戻した。火刑の記憶。あれに今、呑まれてはいけない。今はまだ。 代わりに、私は別の記憶を手繰り寄せた。婚約の日。十六の春、王城の聖堂で交わされた誓約の儀式。ジークハルトの手を取り、司祭の詠唱のもとで魔力の糸が互いの指に絡みついたあの瞬間――私の胸の奥で、何かが凍りついた感覚があった。あの時は緊張のせいだと思った。婚約という重責への、当然の緊張。 違う。 あれは封印だった。 誓約魔術の名を借りた、禁呪封印の術式。私の魔力を、記憶を、前世のすべてを凍結し、従順な公爵令嬢という殻の内側に閉じ込めるための鎖。七つの魔術体系に通じた私の力を、婚約という名の檻で縛り上げていたのだ。 誰が、仕込んだ。 司祭か。王家の魔術師か。あるいは――もっと古い、もっと深い意思が関わっているのか。 今は分からない。けれど一つだけ、確かなことがある。 ジークハルトが婚約を破棄した瞬間、誓約魔術は消滅した。封印の鎖は砕かれた。他ならぬあの方自身の手で。 なんという皮肉だろう。
私を捨てたつもりの王太子は、知らぬ間に私を解き放ったのだ。
馬車の窓を流れる街灯の光が、漆黒の魔力に触れて歪む。橙色の炎が、闇に呑まれて青白く変容する。それは美しくさえあった。私の指先から伸びる漆黒の糸が、光を歪め、影を深め、馬車の内側に小さな夜を作り出している。 私は、その闇に包まれて、呼吸を整えた。 前世の記憶は、まだ全てが鮮明ではない。霧の奥に沈んだ景色を覗き込むように、断片が明滅を繰り返している。けれど、体が覚えていた。この魔力の扱い方を、指先の角度を、意識の向け方を。十八年の空白など嘘のように、漆黒の力は私に従う。 試みに、左手の人差し指を軽く振った。 漆黒の霧が凝集し、指先に小さな球を結ぶ。黒曜石のように滑らかな表面に、馬車の天蓋が映り込んでいる。闇の凝縮体。前世では「虚珠」と呼んでいた。禁呪の基礎中の基礎、魔力制御の習作に過ぎないけれど――これが作れるならば、封印は完全に解けている。 虚珠を握り潰した。漆黒の粒子が掌の中で弾け、すぐに肌へ還っていく。微かな痺れが指の付け根から手首へ走り、それすらも懐かしかった。何百回、何千回と繰り返した感触。あの石の塔の窓辺で、雪を見ながら虚珠を編んでは壊していた夜のことを、指が憶えている。 そう。これは私のものだ。 借り物でも、呪いでもない。前の生で積み上げ、この生で奪われ、そしてたった今、取り戻した――私自身の力。
馬車が角を曲がり、街灯の列が途切れた。窓の外は濃い闇に沈み、遠くファルンハイト公爵邸の灯りが、丘の上に小さく揺れている。 あの屋敷に、父が待っている。 公爵家の当主として、婚約破棄という不名誉を被った娘にどんな言葉をかけるのだろう。慰めか、叱責か、それとも――処分の算段か。前世の勘が囁く。権力者は脅威を排除する。いつの世も、どの生でも。 けれど今の私には、あの頃とは決定的に違うものがある。 記憶だ。 一度殺された記憶。封じられた記憶。そして今、鎖を断ち切って蘇った記憶。同じ過ちは繰り返さない。同じ罠には嵌まらない。世界の仕組みを知っている。権力がどう動き、陰謀がどう張り巡らされ、そして魔女がどう追い詰められるかを、この身で、この血で、骨の髄まで知り尽くしている。 漆黒の魔力を、静かに収めた。 指先の闇が、肌の下へ、血の奥へ、骨の芯へと沈んでいく。表面上は何も変わらない。白い指、銀の髪、紺碧のドレス。公爵令嬢アリシアーナ・ヴェル・ファルンハイト。婚約を破棄された、哀れな氷の娘。 誰にも分からない。この殻の内側で、禁呪の魔女が目を覚ましたことなど。 口元に、笑みが浮かんだ。 大広間で貼りつけていた淑女の微笑ではない。計算も、抑制も、他者の視線への配慮もない、ただ純粋な――歓びの笑み。自分の手足が自分のものに還る、あの原初的な解放感に浸された笑み。 生まれ変わっても、また封じられても、何度でも蘇る。これが私だ。 馬車が公爵邸の門前に差しかかった。車輪の音が砂利に変わり、速度が落ちていく。 丘の上の屋敷の窓に、いくつもの灯りが点いていた。こんな時刻に、全館が煌々と照らされている。まるで何かを待ち構えているように。 ――いいえ。 待ち構えて、いるのだ。 前世の勘が、背筋を冷たくなぞった。あの灯りの数は、娘の帰りを案じる父親のものではない。使用人が慌ただしく動き回り、客間に誰かを通し、書斎で密談が交わされている――そういう類いの明るさだ。 馬車が止まる前に、私は手袋を嵌め直した。 漆黒の魔力は、骨の奥深くに眠らせてある。まだ、誰にも見せるべきではない。 扉が開かれ、御者の手を借りて石段に降り立つ。夜気が冷たい。肌を刺す湿った風に、庭園の薔薇の残り香が微かに混じっていた。見上げた屋敷の正面玄関で、執事のヴァルターが硬い表情で立っていた。 「おかえりなさいませ、アリシアーナ様。――旦那様が、書斎でお待ちです」 その声音に滲む苦さを、私は聞き逃さなかった。 屋敷の奥から、知らない魔力の気配がする。王家の紋章を帯びた、冷たく研ぎ澄まされた術式の残り香。父の書斎に、王宮の人間がいる。 私は微笑んだ。淑女の仮面を、もう一度だけ被り直して。 「ええ、ヴァルター。すぐに参ります」 石段を上がる足取りは、大広間を横切った時と同じように、静かで、確かだった。 ただし今度は、その一歩一歩の下に、漆黒の魔力が脈打っている。