Novelis
← 目次

氷の令嬢は自由に焔る

第1話 第1話

第1話

第1話

王太子ジークハルトの声が、生誕祝賀会の大広間に響き渡った。 「アリシアーナ・ヴェル・ファルンハイト。お前のような氷の女は、もういらぬ」  琥珀の酒を満たした硝子盃が、貴族たちの手の中で小さく鳴った。シャンデリアの光が大理石の床に降り注ぎ、金糸の刺繍をまとった紳士淑女の影を長く引き伸ばしている。楽団はいつの間にか弓を下ろし、大広間は、息を潜めた沈黙に支配されていた。  その静寂の中心に、私は立っている。  公爵家に生まれ、七つの齢から王太子妃教育を受け、十六で婚約を結び、そして今宵、十八の誕生を祝うはずだった銀髪の娘――アリシアーナ・ヴェル・ファルンハイトとして。 「……畏れながら、殿下。ただいまのお言葉、確かにこの耳で承りました」  声は、思いのほか澄んで響いた。  私は銀の睫毛をほんのわずかに伏せ、胸の前で両手を重ねる。幼き日、白檀の香る教師の前で幾千度と繰り返した所作だ。背筋は絹糸で吊られたように真直ぐ、顎の角度は床と平行より三寸下、唇にはごく淡い微笑。――完璧な淑女、と人は呼ぶ。  王太子の傍らには、桃色の髪をした少女が身を寄せていた。男爵家の令嬢ミレイユ。涙に濡れた大きな瞳で私を見上げ、けれども口の端は微かに持ち上がっている。愛らしい、と世の男たちが口を揃える類いの顔立ちだった。薄紅の唇から覗く白い歯、頬にほんのりと差した朱、そして震えるふりをした細い肩――その一つひとつが、まるで舞台用に誂えられた小道具のように整いすぎている、と私は場違いな冷静さで観察していた。 「ジークハルト様。わたくし、やっぱり怖くて……」  すがりつく白い指先に、ジークハルトは愛おしげに手を重ねた。その光景が、遠い絵画のように感じられた。額縁の中で、もう何年も前から飾られていた一枚の絵。私はいま初めて、その絵の外側に立っていることに気づいたのだ。

 ――ああ。  胸の奥で、ことり、と小さな音がした。  硝子ではない。もっと硬く、もっと深いものが罅を入れた音。体の芯に据えられていた冷たい何かが、ゆっくりと軋み、位置をずらしていく。痛みはなかった。ただ、耳の奥でだけ、遠い氷河が裂けるような残響が長く尾を引いた。息を吸うたび、肋の裏側で薄氷が割れていく感触があった。七つの頃から積み上げてきた所作、言葉遣い、微笑の角度――そのすべてを支えていた見えない骨組みが、音もなく崩れ、けれど代わりに別の何かが背筋をまっすぐに押し上げているのを、私はたしかに感じていた。 「氷の女、と仰せですか」  私は静かに顔を上げた。広間の視線という視線が、矢のように私の肌に突き刺さる。好奇、嘲笑、同情、そして――嗜虐の色。誰もが今夜の余興を待ちわびていたのだと、嫌というほどに伝わってくる。私の涙、私の乱れ、私の崩れ落ちる姿。それらは貴族たちの酒の肴となり、明日の茶会を彩る話題となり、そして永く語り継がれる「憐れな公爵令嬢」の物語になるはずだった。扇の陰から覗く瞳は、どれもこれも飢えていた。貴婦人たちの首筋で揺れる宝石が、光を反射して小さな星のように瞬いている。その光の一粒一粒が、私という獲物を品定めする獣の眼に見えた。 「確かに、わたくしは殿下を一度たりとも、熱くお慕いすることができませんでした。その点について、謹んでお詫び申し上げます」  扇の陰で、貴婦人たちが息を呑んだ。婚約破棄の宣告に、非を認めて頭を垂れる令嬢。劇的ではない。哀れでもない。ただ、あまりにも静かだった。 「殿下の御心を凍てつかせていたのが、このわたくしであったのならば。解かれた今宵の御決断は、さぞや御身を軽くなさったことでしょう」 「……なに?」  ジークハルトの眉がぴくりと動いた。嘲るつもりの言葉を返されることに、慣れていないのだろう。この方はいつも、こうだ。自分の描いた筋書き通りに相手が泣き、叫び、縋る様を見て、初めて満足なさる。金の髪に縁どられた端正な顔立ちには、微かな苛立ちと、それを上回る困惑が滲んでいた。握りしめた拳が、わずかに震えているのが見て取れる。自分より格上の劇を演じられることに、この方は耐えられない。私はそれを、十年近い歳月をかけて知り尽くしていた。  けれど。  もう、私はあなたの台本を読む女優ではない。 「長らくのご厚誼、心より感謝申し上げます。ミレイユ様」  私はそっと、桃色の髪の少女に視線を移した。怯えたように肩を揺らす彼女へ、私はこの夜ただ一度の、本当の微笑を向けた。 「どうぞ――殿下をお願いいたします。わたくしに替わって、あの方の御心に火を灯して差し上げてくださいまし」  ミレイユの頬が、ぴたりと強張った。  私の言葉の底に沈んだものが、何であるかを嗅ぎ取ったのだろう。憐憫でも、呪詛でもない。もっと凍てついた、諦念の気配。あなたが勝ち取ったのは玉座ではなく、台本の役柄に過ぎない――そう告げるかわりに、私はただ睫毛を伏せた。  けれど貴族たちにはそれが分からない。分からないまま、どこかで囁き声が漏れ始めた。なんと潔い御方か。いや、所詮は氷の人形、感情が無いのだ。気の毒な――いいえ、むしろお気楽な御身分ですこと。  囁きは泡のように広間を満たし、やがて私の耳を素通りしていく。白檀と薔薇の香、焼き菓子の甘やかな匂い、溶けかけた蝋燭の脂――今宵の大広間を満たすすべての匂いが、奇妙なほど遠く、薄く感じられた。

 私は、優雅にドレスの裾をつまんだ。  紺碧の絹地に銀糸の刺繍を施したこの夜会服は、亡き母が生前に誂えてくれた最後の一着だった。十八の誕生日、王太子の隣に並ぶ娘のためにと、母は病の床で刺繍の意匠を指示したという。星月夜に舞う銀の蝶。自由の象徴。あの頃から、母は何かを知っていたのかもしれない。娘がいつか、この硝子の檻から翅を広げて飛び立つ夜が来ることを。 「それでは、謹んで失礼いたします」  最上級の礼。右足を半歩退き、膝をわずかに沈め、頭を垂れる角度は正確に三十度。絹の裾が床を滑り、銀糸の蝶たちが淡く震えた。蝋燭の光を受けて、一瞬、本当に羽ばたいたように見えた、と誰かが後に語った。  誰一人、動けなかった。  私が顔を上げ、踵を返し、光の絨毯を踏んで大広間を横切っていく間、貴族たちは石像のように佇んでいた。ジークハルトでさえ、何かを言いかけた唇を結んだまま、私の背を追うことしかできない。靴音だけが、異様なほどはっきりと大理石に響いた。一歩、また一歩。自分の鼓動と足音が重なり、やがて分かちがたくなっていく。  扉の近くで、私は一度だけ立ち止まった。  振り返らない。けれど、確かに感じた。背後の光景の、その全てを。金の王冠、桃色の髪、嘲笑を忘れた貴族たちの表情、そして――天井を貫くシャンデリアの、揺らめく無数の燭火。  そのひとつひとつが、私の中の何かに触れて、消えていく。  硝子ではなかった。  ずっと胸に抱いていたのは、封印だった。誰かに嵌められた、重い、重い、氷の鎖。  そして今、その鎖に、確かな罅が走っている。

 扉が、音もなく開いた。  夜風が、熱気と香水に澱んだ大広間の空気を裂いて、私の頬を撫でる。冷たい。けれど、ずっと優しい冷たさだった。肺の奥まで澄んだ夜気が流れ込み、十八年ぶりに呼吸の仕方を思い出したような心地がした。  廊下を渡り、回廊を抜け、大理石の階段を降りる。待たせていた馬車の前で、老いた御者が訝しげに目を見開いた。宣告から退出まで、僅か十数分。誰かが追いすがってくる気配はない。 「お屋敷へ、戻ってくださいますか」 「……アリシアーナ様。お顔の色が」 「大丈夫。ただ、少し――疲れてしまったの」  差し出された手を取り、馬車へ乗り込む。扉が閉まり、車輪が石畳を打ち始めた瞬間、私はようやく深く息を吐いた。肩の力が、張り詰めていた糸が、一本ずつ緩んでいく。  窓の外を、王城の尖塔が流れていく。黒々とした影の奥で、星が凍てついて光っていた。  ――ようやく、と。  誰にも聞かれぬよう、唇だけでそう呟いた時だった。  指先が、ひどく熱い。  手袋の下、白い指の皮膚の奥で、何かが脈を打っている。身に覚えのない、けれどどこか懐かしい、深く昏い律動。まるで長い眠りから目覚めた生き物が、血の流れを確かめるように、ゆっくりと、しかし確実に強さを増していく。見下ろせば、絹の手袋の縫い目から、墨のような影が一筋、ゆらりと立ち昇った。  それは煙ではなかった。  魔力だ。  私の知らない、私のものであるはずのない、漆黒の――。  馬車が、がくんと揺れた。

この話はいかがでしたか?

↓ スクロールで次の話へ