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封印の鍵と軌道の薔薇

第1話 第1話

第1話

第1話

低重力の眠りから浮上した瞬間、私の指先で淡い紋様が明滅していた。  最初に戻ってきたのは視覚ではなく、重さの欠落だった。肩甲骨の下に敷かれた生体ジェルが、わずかな呼吸ごとにゆっくりと形を変えていく。ジェルの表面は体温より一度だけ低く保たれていて、皮膚に触れるたびに、遠い海の潮だまりを思わせる微細な波紋が立っていた。天井は乳白色のセラミック板で、微細な通気スリットから循環大気のかすかな振動音が降ってくる。その音はどこか人の寝息に似ていて、私を見守る何者かがいるような錯覚を誘った。軌道都市ノクス――環状居住区の低重力セクション特有の、あの糖蜜めいた慣性。記憶よりも先に、身体がこの宙域の物理を思い出していた。指を一本動かすだけで、空気の粘度が予想より半拍遅れてついてくる。その半拍の遅れに、私の身体は一度も違和感を覚えなかった。  瞼を開ける。視界の右下に、起動待機中のHUDが薄い琥珀色で浮かんでいた。神経インプラントの初期化プロンプト。《封印領域を同期しますか?》の一文。指示に従って意識の奥へ意図を向けた瞬間、こめかみの奥で電子的な悲鳴が走った。頭蓋の内側を、細い針金で引っ掻かれたような痛み。インプラントが拒絶反応を起こし、HUDに紅いフラグが連続して点灯する。  ──同期失敗。対象領域が空白です。  空白。  その単語が私の中で、不自然なほど正確に響いた。住人が等しく抱えているはずの暗号化メモリ《封印領域》が、私の中だけ、ぽっかりと抜け落ちている。誰かが意図して刳り貫いたような、滑らかすぎる欠落。代わりのように、左手の人差し指から薬指にかけて、髪の毛ほどの細さの紋様が青白くパルスしていた。回路紋にも、刺青にも、古代言語の綴りにも見える。触れると、皮膚の下をごく弱い電流がさざめいていく感触がした。脈拍に合わせて光が濃くなり、呼吸に合わせて薄れる。まるで、私とは別の生き物がそこに間借りしているようだった。

 保護施設の修道服を纏った女性が、私の傍らに膝をついた。低重力下の動作に慣れた、水の中を歩くような優雅さ。裾のひだがゆっくりと宙に広がり、またゆっくりと畳まれていく。年の頃は四十前後、鳶色の目には職業的な慈悲と、そうでないものが混ざっていた。後者が何なのか、私にはまだ名前がつけられなかった。警戒にも、同情にも、ほんの少しの恐れにも見えた。 「気分はいかがですか。あなたはもう七十二時間、ここで眠っていました」 「ここは……」  声は掠れ、自分のものではないみたいだった。喉の奥に、使われないまま乾ききった楽器のような軋みがあった。 「ノクス第三リング、聖フェリシア保護区です。低軌道の修道女会が運営しています。あなたは輸送艇の事故で救出されましたが、身元を示す何もお持ちでなかった」 「事故」  復唱した私の口の中で、その単語は一度も嚙み慣れていない異物だった。事故の衝撃も、輸送艇の形も、出発地も、目的地も――何ひとつ像を結ばない。ただ夢の縁に、ずっと誰かの声が残っている。音韻の骨格だけが古代魔術めいた、失われた演算体系の残響。意味は解けないのに、呼ばれているという感覚だけが妙に鮮明だった。呼んでいるのは一人ではない気がした。幾重にも重なった声が、ひとつの名前の形をとろうとして、そのたび崩れていく。  修道女はシスター・イレーネと名乗り、私の指先の紋様を一瞥して、わずかに視線を逸らした。視線の逸らし方が、あまりにも慣れすぎていた。見てはいけないものを見たときの、訓練された所作。 「お名前は、思い出せますか」 「……」  喉の奥を探る。自分を指す音が、ない。名前という構造のあるべき場所が、きれいに整地されて空っぽだった。他人の名前なら、いくつか思い浮かぶ気さえする。けれど、自分だけがそこから除外されている。私はゆっくりと首を横に振る。振るだけの首の重さすら、低重力下では頼りなかった。 「わかりました。焦らなくて大丈夫です。インプラントの同期は、しばらく止めておきましょう」  彼女の口調は柔らかかったが、「しばらく」という言葉の輪郭は、妙にはっきりしていた。永遠に、と言い換えても通じるような、そんな硬さがあった。  彼女は言いながら、窓のほうに視線を向けた。つられて私も目を動かす。  強化ガラスの向こうで、環状リングがゆっくりと回っていた。太陽光を受けた居住区の外壁が、巨大な時計の針のように横切っていく。その向こうに広がる漆黒には、無数の航行灯が血管のように流れていた。私はそれらを、驚きよりも懐かしさに似た何かで眺めていた。見覚えはない。けれど、知っている。矛盾した二つの感覚が、同じ一点で重なっている。胸の奥で、名前のつけられない何かが、静かに水位を上げていく気配があった。

 シスター・イレーネが退室してから、どれほどの時間が経ったのか。  突然、居住区全体の照明が一段階だけ落ちた。通気音の周波数が変わり、重力制御のマイクロアジャストが、私の内耳にごく微細な違和感を残していく。警報ではない。けれど、通常運転でもない。生体ジェルの表面に、ごく浅い波紋が一度だけ走って消えた。  HUDの右端に、受信プロトコルの割り込みが浮かんだ。それは施設の内部回線ではなく、公的な外部シグナルに属するもので、送信元のタグには見慣れない紋章が添えられていた。四つに分かたれた環と、その中央を貫く細い縦線。――四公爵家。旧地球から宙域統治権を継承した量子貴族の印。学習した覚えなどないのに、私はその意味を最初から知っていた。知っている、ということ自体が、もう一つの警報だった。  扉のスライド音。入ってきたのは、修道女ではなく、漆黒の外套を纏った長身の男だった。襟元に公爵家の紋章バッジが静かに輝いている。後ろに続く従者が、手のひらサイズの走査端末を構えていた。男の歩みは低重力を感じさせない。床を踏むたびに、慣性がその体に従順に畳まれていくようだった。 「失礼する。聖フェリシアの了解は得ている」  声は低く、過度な礼儀の衣装を一枚だけ羽織った刃物のようだった。男の視線は、迷うことなく私の左手へ注がれた。正確には、そこで明滅し続ける紋様へ。瞳の奥に、驚きではなく確認の色があった。探していたものを、ついに見つけた者の目。 「……それは、いつからだ」  問いは私にではなく、紋そのものに向けられているようにも聞こえた。答えようとした私の喉の奥で、夢の縁の囁きが一瞬だけ強くなる。知らない言語、知っているリズム。舌の裏に、鉄と蜜の混ざった味がひとしずく滲んだ。 「……わかりません。目を覚ましたときには、もう」  自分の声が、やっと自分のものに近づきはじめていた。  男は短く頷き、端末を従者から受け取り、私の指先に数センチまで近づけた。走査光が紋をなぞった、その刹那――  ノクス第三リングの重力制御が、一拍だけ歪んだ。  ジェルに沈む私の背中から、ごくわずかに体重が抜ける。髪の先がふわりと持ち上がり、まつ毛の先で天井の光が二重にぶれた。卓上の水差しの液面が、ゆるやかな楕円を描いて傾き、それから戻った。HUDの環境ログに、原因不明の微小擾乱が記録されていく。従者が息を呑み、男は――おそらくは長く訓練された感情の制御を、半秒だけ剝がした。その半秒の裏側に、怒りでも驚愕でもない、何かもっと古い感情が覗いた気がした。畏怖、と呼ぶのがいちばん近いのかもしれなかった。  彼は端末の表示を一瞥し、それから、ほんの少しだけ掠れた声で言った。 「封印プロトコルが、この宙域全体で崩壊しはじめている。発信源は、君だ」  崩壊、という硬い単語が、私の中の空白にだけ妙に滑らかに入り込んだ。まるであらかじめ用意された鋳型に、熔けた金属が流し込まれるように。 「……私は、鍵なんですか」  自分でも驚くほど、その問いは静かだった。恐怖より先に、ひどく落ち着いた好奇心が胸の奥でゆっくりと起動していく。鍵、という言葉が、紋様の明滅とぴたりと同期した気がした。  男は答えなかった。代わりに、外套の内側から第二の通信端末を取り出し、短く告げた。 「確保した。ただちに低軌道の庭園邸へ搬送する。――他三家にも、通達しろ」  他三家。その言葉が放たれたのとほぼ同時刻、ノクスの上空では、四つの異なる航跡が、ひとつの保護施設を目指して収束しはじめていた。紋様は私の意思を無視して、ゆっくりと、確かに、強く明滅していた。まるで、長い眠りのあとで、ようやく誰かに応えようとしているかのように。

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