第3話
第3話
あの夜、扉の前に立っていたのが誰だったのか、朝になっても考えていた。
裸足の影。西棟の方角へ滑るように消えた、音のない足取り。夫人だろうか。それとも、この館にはまだ私の知らない誰かがいるのだろうか。寝台の中で膝を抱え、鈴蘭の花瓶を見つめた。昨日は三本だった鈴蘭が、今朝は四本になっている。誰かが夜のうちに一本足したのだ。増えた一本だけ、茎の切り口が斜めで、他の三本と刃の角度が違っていた。
朝食の席で、夫人はいつもと変わらない微笑みを浮かべていた。蜂蜜入りの紅茶を注ぎ、私の頬に触れ、今日の髪の結い方を褒めた。その指先に、昨夜の気配は微塵もない。けれど夫人の足元を、私はそれとなく確かめた。絹のスリッパを履いている。爪先に、埃の跡はない。廊下の石畳を裸足で歩いた痕跡は、ない。
それが潔白の証拠になるかといえば、ならなかった。スリッパを履き替えることなど、たやすいのだから。
朝食を終え、食堂を出ようとしたとき、廊下の角でぶつかりそうになった。
「あっ——」
小さな悲鳴を上げたのは、私より少し背の低い、痩せた少女だった。亜麻色の髪を後ろで一つに束ね、袖を肘まで捲り上げている。手には木の桶と雑巾。桶の中の水が跳ね、私の靴の先を濡らした。
「ご、ごめんなさいっ、お嬢さま!」
少女は真っ青になって膝をつき、雑巾で私の靴を拭おうとした。その手が震えていた。叱られることへの、反射的な震えだった。孤児院で何度も見た震え方だ。怒鳴られる前に体が先に縮こまる、あの。
「いいの。濡れただけよ」
私がそう言うと、少女は顔を上げた。薄い灰色の瞳が、驚いたように瞬いた。怒られなかったことに驚いている目だった。
「あなた、名前は?」
「……ミラ、です。下働きの」
ミラ。歳は私と同じくらいか、少し上だろうか。頬がこけ、手の甲にあかぎれが走っている。館の他の使用人たちは皆、身なりが整っていた。給仕長も小間使いも、古びてはいても仕立ての良い制服を着ている。ミラだけが、継ぎの当たった麻の作業着を着て、膝に擦り傷をこしらえていた。
「ミラ。私はリディア」
「存じております、お嬢さま」
「お嬢さまはいいわ。リディアと呼んで」
ミラは目を丸くし、それから、おずおずと笑った。笑うと、こけた頬に小さなえくぼができた。その笑顔には、館の他の誰にもない素朴さがあった。品定めも、演技も、怯えの裏返しもない。ただ、嬉しいから笑っている。それだけの顔。
その日から、私はミラを探すようになった。
ミラは朝は厨房で鍋を磨き、昼は廊下の床を拭き、夕方は裏庭で洗濯物を取り込んでいた。館の使用人の中で最も身分が低く、他の使用人たちはミラを空気のように扱っていた。だからこそ、ミラはこの館のあちこちを見ていた。誰にも注意を払われない者だけが見える場所に、彼女はいた。
三日目の午後、裏庭の井戸端でミラと並んで座った。夫人は昼寝の時間で、小間使いは洗濯室にいる。束の間の、監視のない時間だった。
「ミラは、この館に来てどれくらい?」
「三年……いえ、もう四年になります」
ミラは洗い物の手を止めず、桶の中のシーツを揉んでいた。シーツから流れる水が、井戸端の石を伝って地面に染みを作る。
「その前は?」
「街の救貧院に。でも、館のほうがずっといいです。ご飯も毎日いただけるし、冬も凍えずに済みますから」
ミラの声には、本心からの感謝が混じっていた。けれどその言葉を口にするとき、彼女の目は桶の中の水面だけを見つめていた。
「ねえ、ミラ。この館のこと、もう少し教えて」
「何を、ですか」
「なんでもいいの。古い話とか、噂とか」
ミラの手が、一瞬だけ止まった。水面の揺れが収まり、シーツの白が歪んで映る。
「……噂なら、ありますけど」
声が小さくなった。井戸端の石垣に反射して、囁きが妙に近く聞こえた。
「昔からこの館には、子どもが引き取られてくるんです。孤児院や救貧院から。みんな、リディアさまと同じくらいの歳の」
「みんな?」
「ええ。でも、長くはいないんです。半年か、一年か……気づいたら、いなくなってる」
ミラはシーツを絞り、桶の縁にかけた。指先が白くなるほど、きつく絞っていた。
「夫人さまはいつも同じことをおっしゃるの。『故郷のご親戚が見つかった』とか、『よそのお屋敷に引き取られた』とか。でも——」
ミラは言葉を切り、裏庭の向こうに目をやった。西棟の外壁が、午後の陽に照らされて白く光っている。鎧戸は全て閉ざされたまま。三階、左から四番目の窓だけが、あの日と同じように、数寸だけ開いていた。
「でも、別れの挨拶をした子は、一人もいなかった。朝起きたら、もういないんです。部屋は綺麗に片づけられていて、荷物も何も残っていなくて。最初から誰もいなかったみたいに」
風が吹いた。井戸の中から、かび臭い冷気が這い上がってきた。ミラの亜麻色の髪が揺れ、額にかかる。彼女はそれを払いもせず、両手を桶の中に沈めたまま、水の中のシーツを見つめていた。
「ミラ。その子たちのこと、覚えてる?」
「……名前は、あんまり。でも、一人だけ」
ミラの喉が、小さく動いた。唾を飲み込む動作。
「エミーリエっていう子がいたんです。金髪の、よく笑う子で。私と歳が近くて、洗い物を手伝ってくれたことがあって」
ミラの声が、少しだけ柔らかくなった。思い出の中の温度を、喉の奥で確かめるように。
「夫人さまに、とても気に入られていました」
その一言が、空気を変えた。気に入られていた。その過去形が、井戸端の冷気と混じって、私の首筋を撫でた。
「気に入られていた?」
「ええ。いつも夫人さまのお傍にいて、髪を梳いてもらって、刺繍を教わって。夫人さまは『この子は特別よ』って、嬉しそうに——」
ミラは突然、口を噤んだ。自分が何を言いかけたか気づいたように、顔が強張った。桶の中の水を見つめる目が、薄い恐怖に染まっていく。
「……ごめんなさい。私、余計なことを」
「いいの、ミラ。続けて」
「いえ、本当に、ただの昔話で——」
ミラは立ち上がり、桶を持ち上げた。水が揺れ、石畳に飛沫が散る。その仕草は明らかに会話を終わらせるためのもので、けれど立ち上がる瞬間、ミラは私の目を見た。ほんの一瞬。
その一瞬に、あらゆるものが詰まっていた。警告。懇願。それから、ごく微かな——自分だけが知っていることを、誰かに渡してしまいたいという、痛みに似た衝動。
「前の子も、夫人さまに、気に入られてたんです」
それだけ言って、ミラは裏口の中へ消えた。桶の水が石畳に点々と跡を残し、午後の日差しに乾いていく。
井戸端に一人残された私は、石垣に背を預けたまま動けなかった。
前の子も。その言葉が頭の中で反響していた。前の子も、気に入られていた。そして、いなくなった。朝起きたら、最初からいなかったかのように。
エミーリエ。金髪の、よく笑う子。夫人に髪を梳いてもらい、刺繍を教わり、「特別」と呼ばれた子。私は今、その子がいた場所に座っている。あの天蓋の寝台で眠り、あの銀のスプーンで食べ、あの熱い指で頬を撫でられている。
前世の記憶が、胸の奥で疼いた。甘い紅茶。髪を梳く指。あの苦み。私もまた、誰かの「前の子」だったのではないか。
井戸の底で、水が揺れる音がした。覗き込みはしなかった。覗き込めば、何かが見えてしまう気がした。水面に映るのが自分の顔だけだという保証は、この館では、どこにもなかった。
その夜、寝台の中で、私は指を折って数えた。ミラが四年でこの館にいる間に、何人の子どもが来て、消えたのか。ミラは「名前はあんまり覚えていない」と言った。一人や二人なら、忘れるはずがない。覚えていないほど多い、ということだ。
鈴蘭の花瓶を見た。四本の白い花が、月明かりの中で青白く光っていた。明日の朝、五本目が増えていたら——それは、この館が私を数え始めたということだ。
窓の外で、風が鎧戸を揺らす音がした。かたり、かたり。あの三階の窓だろうか。開いた隙間から、今夜もあの匂いが漏れているのだろうか。
目を閉じた。眠れるはずがなかった。枕の下に手を差し入れ、指先で石畳の冷たさを確かめる。この冷たさだけが、今の私にとって確かなものだった。
遠く、地下から、水を打つ音が聞こえていた。