Novelis
← 目次

愛し子は還らない

第2話 第2話

第2話

第2話

翌朝、目を覚ましたとき、夫人に連れ戻された記憶は夢のように薄れかけていた。けれど鼻の奥にこびりついた鉄錆の匂いだけは、朝の陽光の中でもまだ消えていなかった。

 寝台の脇には、昨夜はなかった小さな花瓶が置かれていた。白い鈴蘭が三本、露に濡れたまま活けてある。孤児院では花など飾らなかった。誰が、いつ持ち込んだのか。私が眠っている間に、誰かがこの部屋に入ったということだ。鈴蘭の葉に、指紋のような小さな曇りが一つ残っていた。親指の腹で触れたような。私はそれを見つめてから、何も気づかなかったふりをして、寝台を降りた。

 朝食の席で、夫人は私に白い刺繍入りのリボンを結んでくれた。その指遣いは丁寧で、痛くなく、けれど結び目は驚くほどきつかった。ほどこうと思えばほどける。けれど、ほどこうと思わなければ、一日中そのまま首にあるだろう。そういう、ちょうどよい強さだった。

「今日はお庭を案内してあげるわ。お天気がいいうちにね」

 夫人はそう言って、焼きたてのパンに蜂蜜を塗り、私の皿に載せた。蜂蜜は金色に透き通り、朝日を受けて宝石のように光った。私はそれを一口齧りながら、領主の席に目をやった。空だった。ナプキンだけが、折り畳まれたままそこにある。

「旦那さまは?」

「朝早くに発たれたの。領地の巡回よ。二日ほどお戻りにならないわ」

 夫人の声には、寂しさも安堵もなかった。事実を述べるだけの、平坦な声。けれど蜂蜜の瓶を戻すその手の甲に、ほんの微かに、力が入るのを私は見た。関節が白くなるほどではない。ただ、指の筋が一瞬だけ浮いて、すぐに消えた。

 庭は、館の内部と同じように、過剰なほど手入れされていた。薔薇のアーチ、刈り込まれた迷路庭園、温室に続く煉瓦の小径。夫人は私の手を引き、一つ一つの花の名を教えてくれた。月下美人、夜顔、曼珠沙華。毒のある花ばかりだ、と気づいたのは、三つ目の名前を聞いたときだった。気づいてから、私は笑みを浮かべて尋ねた。

「お母さまは、お花がお好きなのね」

「ええ。美しいものが好きなの。美しくて、儚くて、手をかけなければすぐに枯れてしまうもの」

 夫人はそう言って、私の髪に触れた。朝のリボンの結び目を、指の腹で確かめるように。

 庭の東端から、館の西側の外壁が見えた。他の棟と違い、窓という窓に鎧戸が下ろされている。鎧戸は緑青を吹いた銅製で、一つだけ、上から三番目の窓の鎧戸が、ほんの数寸、開いていた。その隙間は黒く、奥行きが見えない。見えないのに、見られている気がした。

「お母さま。あの建物は?」

 夫人の足が止まった。手を引く力が、ほんの一瞬だけ強まった。骨が軋むほどではない。けれど爪の先が、私の手のひらに、三日月のような跡を残すほどには。

「西棟よ。古いの。ずっと昔、先代のお館さまが使っていらしたけれど、今は誰も入らないわ」

 微笑みは崩れなかった。ただ、その笑みを作る筋肉の順番が、ほんの少しだけ狂った。口角が先に上がり、目元がそれに追いつくまでに、半拍の間があった。普通は逆だ。嬉しいから目が笑い、それから口元がついてくる。夫人の笑みは、まず形を作り、それから中身を注ぎ込むように完成した。

「危ないから、近づいてはだめよ。床が腐っているの」

 床が腐っている。そう言いながら、夫人は西棟の外壁に一度も目をやらなかった。見なくても知っている場所。見る必要がない場所。あるいは、見たくない場所。その三つのどれかだ。あるいは、その全部。

「はい、お母さま」

 私は素直に頷いた。頷きながら、半開きの鎧戸を視界の端に刻んだ。三階、左から四番目の窓。風のせいで開いたのだとしても、あの建物に風が通るということは、どこかに隙間があるということだ。

 午後、私は図書室で過ごす許しを得た。夫人は刺繍部屋に戻り、私には赤毛の小間使いがつけられた。小間使いは暖炉の傍らで編み物をしている。目は伏せているが、私がどの書架に手を伸ばすかを、常に気配で追っていた。

 私は絵本や児童向けの物語を手に取るふりをしながら、棚の配置を記憶していった。図書室は二層構造で、螺旋階段で上の回廊に上がれる。上の棚には、背表紙の金文字が擦り切れた古い本が並んでいる。歴史書、法典、帳簿の類。帳簿。その言葉が、頭の隅に引っかかった。けれど今日は近づけない。小間使いの編み針の音が、私の動きに合わせて速くなったり遅くなったりしていたから。

 窓の外では、庭師が薔薇の枝を剪定していた。鋏の音が、乾いた空気に響く。庭師は右手だけで鋏を使い、左手は常にズボンのポケットに突っ込まれていた。やがて彼がポケットから手を出した一瞬、私は見た。左手の薬指がなかった。第二関節から先が、つるりと、最初からなかったかのように滑らかだった。

 図書室を出たのは、夕刻の鐘が鳴ってからだった。渡り廊下を歩いていると、足元の石畳の目地に、細い水の筋が走っているのに気づいた。雨は降っていない。水は、西棟の方角から、緩やかな傾斜を伝って流れてきていた。

 しゃがみこんで、指先で触れる。

 冷たい。井戸水より冷たい。地下水の温度だ。指を持ち上げると、爪の間に、ごく薄い赤茶色の澱が残った。鉄分を含んだ水が石灰岩を通ると、こういう色になる。孤児院の裏庭にあった古井戸で知っていた。ただの地下水脈かもしれない。

 ただの、地下水脈。

 そう思おうとした。けれど前世の記憶が、舌の奥であの苦みを再現した。甘い紅茶の底の、薬のような。

 立ち上がったとき、廊下の先に人影が見えた。給仕長だった。彼は西棟へ続く鉄格子の扉の前に立ち、格子の隙間から向こう側を覗き込んでいた。その背中は丸く、小さく、けれど覗き込む姿勢だけは奇妙に真剣だった。

 私の足音に気づいたのか、給仕長は弾かれたように振り返った。目が合った。彼の瞳は灰色で、水っぽく、怯えていた。怯えは、私に対してではなかった。私の背後に何かを見たような、あるいは、見てはならないものを見た直後のような、そういう質の怯えだった。

「──お嬢さま」

 声が掠れていた。

「こちらは、お通りにならないほうが。足元が暗うございますから」

 足元は、暗くなかった。西日が廊下の奥まで差し込み、鉄格子の影が石畳に縞模様を落としている。彼はそれを知っているはずだった。知っていて、嘘をついた。嘘をつくことに慣れた人間の、よどみのない嘘だった。

「ありがとう。気をつけるわ」

 私は微笑んで引き返した。引き返しながら、背中に視線を感じていた。給仕長の視線ではない。もっと奥、鉄格子の向こうの薄闇の中から、何かが、私の背中を見ていた。

 その夜。

 寝台に入り、目を閉じてからどれほど経っただろう。館が寝静まり、最後の蝋燭が消されたあとの、あの深い沈黙の中で、それは聞こえた。

 地下から響く、水を打つ音。

 昨夜と同じだ。ぴちゃん。ぴちゃん。規則正しく、人の脈拍より少しだけ遅い。けれど今夜は、それだけではなかった。水音の合間に、別の音が混じっている。

 金属が、石を擦る音。

 鑢で錠前を削るような。あるいは、鎖を引きずるような。低く、長く、途切れ途切れに続くその音は、西棟の地下から、壁と床を伝って、私の寝室の石畳まで届いていた。耳を枕に押し当てると、振動が骨に伝わるのがわかった。

 音が、止まった。

 水音も、金属音も、同時に。

 沈黙が落ちる。沈黙は、音よりもずっと恐ろしかった。音が鳴っている間は、それが何であれ、距離を測ることができた。沈黙の中では、それがどこにいるのか、わからない。

 そして。

 枕から耳を離した瞬間、私の部屋の扉の向こうで、床板が一枚、ぎし、と鳴った。

 足音ではない。誰かが、扉の前に、じっと立っている。立ったまま、体重をほんの少しだけ移した。それだけの音。

 私は息を止めた。天蓋の布越しに、扉の下の隙間を見る。

 蝋燭の光はない。けれど、廊下の闇より一段濃い影が、隙間の向こうに落ちていた。

 人の足の、影だった。

 裸足の。

 影は動かない。扉の向こうの誰かは、私が起きているかどうかを、息の音で確かめようとしている。そう気づいたとき、全身の毛が逆立った。

 寝息を装った。規則正しく、深く、途切れなく。喉の奥が震えないように、舌の位置を固定した。心臓だけが勝手に暴れていて、それが布団を通して伝わっていないことを、祈るしかなかった。

 どれほどそうしていたか。

 影が、音もなく、動いた。遠ざかるのではなく、滑るように。廊下を、西棟の方角へ。

 裸足の足音は、最後まで聞こえなかった。

この話はいかがでしたか?

↓ スクロールで次の話へ