Novelis
← 目次

愛し子は還らない

第1話 第1話

第1話

第1話

絹のシーツが、こんなに冷たいものだとは知らなかった。

 辺境の古館に引き取られたその夜、私は天蓋の奥で息を殺していた。暖炉の薪は惜しげもなく燃やされ、湯たんぽは足元で鈍く熱を放ち、枕元の銀皿には蜜漬けの木苺まで添えられている。孤児院の藁布団では考えられない贅沢だ。けれど、どうしてだろう。指先だけが、ひどく冷えていく。  ──この優しさを、私は知っている。  胸の奥で、前世の記憶がちりちりと音を立てた。顔も名前も思い出せない。ただ、甘い紅茶の匂いと、髪を梳く細い指の感触だけが、古い傷みたいに疼く。紅茶には蜂蜜が多すぎて、舌の奥に薬のような苦みが残った。あの苦みを、私は今も喉の奥に感じている気がする。 「リディア、まだ起きていて?」  扉の向こうで、夫人の声がした。私は慌てて目を閉じる。衣擦れの音が近づき、天蓋の布がそっと持ち上げられる気配。夫人は囁くように私の名を呼び、それから額に、羽根のような口づけを落とした。唇は乾いていて、けれどその下の皮膚は奇妙なほど熱く、まるで熱病の者のそれだった。 「可愛い子。ようやく、この家に来てくれたのね」  その声は震えていた。歓喜のように。あるいは、ずっと待ちわびた何かを、ようやく手にした者のように。指先が、私の前髪を一房、ゆっくりと梳いた。慈しみの手つきだった。けれど最後に、その指はほんの一瞬、私の耳のうしろの骨を、確かめるように押した。まるで、仔牛の肥え具合を確かめる肉屋のように。  扉が閉まる。私は目を開ける。  天井の漆喰に、蔦の模様が彫られている。その影が、蝋燭の揺らぎに合わせて、蜘蛛の足みたいに蠢いていた。蔦の合間には、よく見れば小さな実のような膨らみがいくつも彫り込まれていて、それは果実というより、胎児の頭のようにも見えた。

 朝の館は、絵画のように美しかった。  吹き抜けの玄関ホールには白百合が活けられ、磨き上げられた大理石の床に朝日が溜まっている。百合の香りは濃く、むせ返るほどで、その甘さの底に、微かに饐えた水の匂いが混じっている気がした。食堂では領主夫妻が私を挟むようにして席につき、老いた給仕長が銀の盆から湯気の立つ器を運んできた。給仕長の手は震えていた。老いのせいにしては、その震えは一定のリズムを刻みすぎていた。 「お口に合うかしら。林檎のコンポートよ。あなたのために、昨夜のうちに煮ておいたの」  夫人が身を乗り出し、銀のスプーンを私の手に握らせる。その指は細く、節くれひとつなく、けれど手のひらはひどく熱かった。熱を持つ、というより──火照っている、という言い方のほうが近い。脈が、手首のあたりで、私のそれより一拍速く打っているのがわかった。 「ありがとうございます、奥さま」 「奥さまはいやよ。お母さま、と呼んでちょうだい」  その「お母さま」という言葉を、夫人は舌の上で転がすように発音した。長く、長く、待ちわびた響きを確かめるように。  領主が新聞から顔を上げ、薄く笑った。温厚そうな灰色の瞳。けれどその笑みは、夫人の言葉に一拍遅れて追いかけるように浮かんだ。まるで、決められた台詞を、決められた順に繰り返しているかのように。新聞のインクの匂いに混じって、彼の襟元からは、樟脳と、それから鉄のような匂いがした。旅装を解いたばかりの男の匂いではなかった。 「館の中は、好きに歩いていい。図書室も、温室も、どこでもね」  領主はそう言って、少し間を置いた。その間の長さを、私は数えた。三拍。彼は三拍、空気の重さを確かめてから、口を開いた。 「──西棟だけは、近づかないように」  夫人のスプーンが、磁器の皿に当たって、かち、と鳴った。  たったそれだけの音だった。けれど夫人の口角は、ほんの一瞬だけ、不自然な角度で引き攣れた。頬の皮膚が、糸で引かれたみたいに。睫毛が二度、小刻みに震えた。私は林檎を口に運びながら、まつ毛の奥でそれを記録する。林檎は甘かった。甘すぎた。果肉の芯に、何か別の甘さが──蜂蜜でも砂糖でもない、薬草を煮詰めたような甘さが、こっそりと忍ばせてあるように思えた。  観察癖は、孤児院で身についた。どの修道女が機嫌を損ねているか、どの子供が明日いなくなるのか。察し損ねれば、食事が減り、寝床が消えた。五感を研ぐことは、生きることと同じだった。ある冬の朝、隣の寝台の少女が消えた。シーツには、ほんの小さな、錆のような染みが一つだけ残されていた。誰もそのことを口にしなかった。私も口にしなかった。ただ、その染みの形だけを、今も覚えている。  ここでも、きっと同じだ。  午前中、私は赤毛の小間使いに連れられて館を案内された。回廊、温室、図書室、刺繍部屋。どの扉も大きく開かれ、陽光が惜しげなく差し込んでいる。温室には見たこともない深紅の花が咲き、図書室の背表紙は金箔で縁取られ、刺繍部屋には途中まで縫われた白い産着が置かれていた。産着は、真新しかった。けれど、私の体には、明らかに小さすぎた。使用人たちは私を見るたび、目を細めて微笑んだ。慈しみの目だ。けれどその眼差しのどこかに、──品定めするような、静かな熱が混じっている気がした。痩せてはいないか、頬の血色はどうか、そういうものを測る目。  気のせいかもしれない。  気のせいで、あってほしかった。 「お嬢さま、こちらが西棟への渡り廊下でございます」  小間使いはそう言って、鉄の格子で封じられた扉の前で足を止めた。格子の向こうは、埃っぽい薄闇に沈んでいる。格子には、新しく打ち替えられたばかりの蝶番がついていた。錆びた格子に、真新しい金具。それだけが、妙にちぐはぐに光っていた。 「旦那さまのご幼少の頃は使われていたそうですが、今はどなたも。──決して、近づかれませぬよう」  彼女の声は、一言ごとに少しずつ小さくなっていった。最後の「よう」は、ほとんど息だけだった。私が顔を上げると、彼女は慌てたように視線を逸らし、胸元で小さく十字を切った。祈りの形は、私の知る神のものとは、指の組み方が違っていた。

 その夜、私は目を覚ました。  何の物音もしない。暖炉は燃え尽き、窓の外では梟が一度だけ鳴いた。けれど、何かが、私の鼻先をかすめて通り過ぎた気がした。  起き上がり、寝台を降りる。爪先に冷たい床の石が触れる。扉をそっと押し開け、廊下に身を滑り込ませる。  廊下の蝋燭は、ほとんどが消されていた。遠くで、壁の燭台の炎が一つだけ、心細げに揺れている。私は裸足のまま、その光に向かって歩いた。  歩きながら、気づく。  ──匂いがする。  甘い花の匂いでも、暖炉の煙でもない。鉄錆の匂いだ。ごく微かな、けれど確かな、古い硬貨を舐めたときのような、あの匂い。舌の付け根が、ひとりでに、きゅっと縮んだ。  足が止まった。  匂いは、西棟へ続く渡り廊下の方角から、薄く、薄く流れてきていた。鉄格子の向こう、薄闇の奥から。  そして、その奥のさらに下──地下と思しき場所から、ぴちゃん、と、水を打つような音がした。  一度。  二度。  規則正しく。  落ちる間隔が、人の脈より少しだけ遅い。それが、かえって生き物めいていた。  私は呼吸を止める。心臓だけが、耳の奥で鳴っていた。前世の記憶が疼く。水音、鉄錆、閉ざされた扉。知っている。知っている。私は、この音を、確かにどこかで──誰かの細い指が、私の髪を梳きながら、やはりこの音を聞いていた。あのとき、私はまだ、逃げられると思っていた。 「リディア?」  背後から、鈴を転がすような声がした。  振り返ると、寝衣姿の夫人が燭台を掲げて立っていた。豊かな髪を肩に流し、夜着の裾を引きずり、微笑んでいる。優しく、柔らかく、幼子を見つけた母親のように。燭台の炎が、彼女の瞳の中で二つ、小さく揺れていた。瞳孔が、昼よりもずっと大きく開いている。 「こんな夜更けに、どうしたの。お手洗い?」  夫人の指が、そっと私の頬に触れた。火照った指先だった。その指は、頬から顎へ、顎から喉元へと、ごく自然な仕草で滑り降りていった。鎖骨のくぼみで、ほんの一瞬だけ、止まった。  私は、微笑んだ。教えられたばかりの、娘としての顔で。頬の筋肉が、ぎこちなく持ち上がるのを感じた。 「……お母さま。夢を、見たの」 「まあ。どんな夢?」 「……忘れてしまったわ。でも、とても、懐かしい夢」  夫人の瞳が、嬉しそうに細められる。その瞳の奥に、何が沈んでいるのか、今の私にはまだ見えない。見えないけれど、それは確かに、私を見ていた。品定めではなく、もっと深く、もっと古い眼差しで。  ただ、背後の鉄格子の向こうで、水音がもう一度、ぴちゃん、と鳴ったことだけが、はっきりと聞こえていた。

この話はいかがでしたか?

↓ スクロールで次の話へ