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追放聖女は辺境で覚醒する

第3話 第3話

第3話

第3話

車輪の軋む音が、石畳から土へと変わったのは、王都の外壁を抜けて四半刻ほど経った頃だった。

幌の隙間から差し込む光が、鉛色から乳白色へ、さらに灰色へと移ろっていく。雪は本降りにはならず、粉をまぶしたように、風の吹くたびに舞っては消えた。アリシアは荷台の奥に膝を抱えて座っていた。敷かれているのは藁だけだった。白絹のドレスの裾が、早くも泥と藁屑で汚れている。それを払おうとは、もう思わなかった。

御者の若い兵士は、一度も振り返らなかった。時折、馬に声をかける低い囁きが届くだけだった。護送役として馬上で随伴しているのは、二人の中年兵。彼らはアリシアを見るというより、彼女の存在を視界の外に置こうとしていた。罪人を運んでいるのではなく、壊れた家具を運んでいる——そういう扱いに徹することで、彼らもまた何かから身を守っているのだろう、とアリシアは思った。

胸の奥の光は、まだそこにあった。王都が遠ざかるほどに、不思議と、脈は穏やかになっていった。激しく訴えるのではなく、深く、長く、息を整えるような鼓動。彼女はその拍子に合わせて、浅くなりがちな呼吸を整えた。

幌の隙間から、最後に王都の尖塔が見えた。

アリシアは振り返らなかった。

*

最初の夜は、街道沿いの廃屋で過ごした。

宿場には入れてもらえなかった。罪人の受け入れを渋る村長の声が、幌越しに聞こえた。早口で、どこか怯えを含んだその声は、「厄介事はごめんだ」と繰り返していた。兵士たちは黙って馬を進め、半刻ほど離れた崩れかけの納屋に馬車を停めた。屋根の半分は抜け落ち、壁板の隙間から風が容赦なく吹き込んでいた。梁には古い蜘蛛の巣が凍りつき、床板の隅には何かの小動物の糞が転がっている。黴と、湿った藁と、何年も人の出入りがなかった家の、冷えきった匂いがした。

「……火を、焚いてよろしいでしょうか」

アリシアが尋ねると、年長の兵士はしばし黙り、それから短く頷いた。

「ただし、幌の内だけで」

硬い黒パンが一切れと、水筒の水が一口。それが彼女の夕食だった。噛むと麦の殻が歯茎に刺さり、喉の奥で、唾液すらろくに出てこない口の中を、無理やり通り抜けていった。水は氷の欠片が混じっていて、飲み下した先から胃の腑を冷やした。兵士たちは少し離れた場所で干し肉を齧っていた。彼らの会話が、風の切れ間に途切れ途切れに届いた。

「——本当に、ヴァイスフェルトまで連れて行くのか」

「命令だ」

「道中で凍え死んでくれた方が、お互い楽だろうに」

「……やめろ」

年長の声が、わずかに硬くなった。アリシアは、聞こえないふりをして、冷えきった指を胸の前で組んだ。爪の先はとうに感覚を失い、触れ合わせた指と指の境目すら分からなくなっていた。それでも、組んだ手の中で、鎖骨の下の種が、そっと熱を返してきた。責めるのでも、励ますのでもない。ただ、在る。そこに在り続けている。それだけで、彼女は凍えずに済んでいた。

藁の上に横たわると、天井の抜けた穴から、雪の混じった夜空が見えた。星は出ていなかった。代わりに、風が木々を鳴らす音と、遠い獣の声だけが、彼女を囲んでいた。遠吠えは一度きりで、あとは尾を引くようにして闇に吸い込まれていった。どこか近くの木の枝から、積もった雪の塊が落ちる、ずしり、という鈍い音がした。

(——お父様。お母様。ルカ)

心の中で、三つの名を呼んだ。

呼んでしまうと、胸の奥で何かが崩れそうになった。父が最前列でどれほどの屈辱に耐えていたか。歯を食いしばって震える肩を、母がそっと支えていた、あの横顔。母がどんな顔で広間を出ていったか。弟は今ごろ、事情を知らされてどんな顔をしているだろうか。想像するたび、喉の奥に鉄の味が戻ってきた。舌の根に、噛み締めすぎた痕が、じんと熱を持っている。

けれど、涙は出なかった。

代わりに、アリシアは一つずつ、静かに手放していった。

夜会のドレスの数々を。王太子妃教育の膨大な書物を。席次表に書き込んだ無数の名前を。貴族たちの微笑みと、その奥にあった値踏みの視線を。セシリアが初めて広間に現れた日の、自分の胸を刺した小さな痛みを。ユリアンが最後に自分の名を呼んだときの、あの平坦な声を。

一つ手放すごとに、胸の奥の光が、少しだけ大きく息をした。まるで、不要なものを荷車から下ろすたびに、馬が足取りを軽くしていくように。

手放していないものが、最後に二つだけ残った。一つは、家族。もう一つは——孤児院の子どもたちの顔だった。マーサ院長の皺だらけの手。指の節はどれも曲がり、爪の間には墨の染みが残っていた。冬の朝、毛布にくるまって彼女の帰りを待っていた小さな背中たち。鼻を赤くして、「アリシアさま」と呼ぶ、あの舌足らずな声。あの子たちのことだけは、手放せなかった。手放してはいけない気がした。

その二つを胸に抱いたまま、アリシアは浅い眠りに落ちた。

*

二日目の道は、ぬかるみに埋もれ始めた。

北へ進むほど、雪は本物の重さを持ち始めた。車輪は何度も泥に取られ、御者の若い兵士が降りては馬の足元を掘り返した。掘り返すたびに、泥と雪の混じった飛沫が彼のマントの裾を黒く汚していく。アリシアは一度、「お手伝いいたしましょうか」と声をかけた。若い兵士は、驚いたように振り返り、それから赤くなった顔を伏せて、小さく首を振った。

「……罪人にそのようなことは、させられません」

その「罪人」という言葉に、彼自身が傷ついているのが分かった。口にした本人が、言葉の角で自分の舌を切ってしまったような、そんな顔だった。

三日目の朝、兵士の一人が熱を出した。年長の方だった。前夜、雪中で野営した無理が祟ったらしい。馬上で身体を揺らし、時おり咳き込んでいる。吐く息は白く濁り、いつまでも唇の前に留まっていた。アリシアは迷った末に、荷台から声をかけた。

「——少し、お休みになってください」

「……罪人が、口を出すな」

年長の兵士の声は、昨日までの平坦さを失っていた。怒りではなく、弱っている者の苛立ちだった。アリシアは黙って、自分の分の水筒を差し出した。

「わたくしは、朝から一口も飲んでおりません。どうぞ」

兵士は、しばらくそれを見ていた。革袋の表面に張りついた薄氷を、乾いた目でなぞっていた。やがて、掠れた声で呟いた。

「……殿下は、あんたを本当に毒殺未遂の犯人だと、思っているのか」

「さあ。殿下のお考えは、わたくしには分かりません」

「俺には分かる」

兵士は水筒を受け取らず、馬首を前に向け直した。鞍の上で背を丸め、咳をひとつ飲み込んでから、低く続けた。

「分かるが——俺には、何もできん」

それ以上は、何も言わなかった。アリシアも、それ以上は何も尋ねなかった。胸の奥の光が、そのとき、少しだけ温度を上げた気がした。憎しみでも、赦しでもない。ただ、この男もまた凍えているのだ、という理解が、静かに胸の内側を温めた。

*

三日三晩。

雪は、日ごとに深くなった。

四日目の昼下がり、馬車はようやく最後の峠を越えた。眼下に、白く閉ざされた盆地が広がっていた。その中央に、屋根を雪に埋もれさせた小さな集落が見えた。家々は十数軒ほど。煙突から細い煙が上がっているのは、そのうちの半分にも満たなかった。煙は風にちぎられ、灰色の空に溶ける前に途切れていた。

「……あれが、ヴァイスフェルト領の、北端の村でございます」

若い御者が、初めて、振り返って彼女に告げた。頬は寒さで赤く強張り、睫毛の先には小さな氷の粒がついていた。

「伯爵令嬢様の、新しい——」

そこで言葉を切った。なんと呼ぶべきか、分からなかったのだろう。アリシアは静かに頷いて、彼を救ってやった。

「……ありがとう」

幌の隙間から、村を見下ろした。風が吹き抜けるたび、睫毛の間から冷気が入り込み、瞳の奥が痛んだ。一番手前の家の前で、小さな人影が雪の中に蹲っているのが見えた。子どもだった。動いていなかった。いや——肩が、かすかに痙攣していた。薄い外套の背が、呼吸のたびにわずかに盛り上がり、また沈む。その間隔は、アリシアが知っているどの呼吸よりも、細く、危うかった。

胸の奥の光が、そのとき、突然、鋭く脈を打った。

とくん。

とくん。

とくん。

それは、王都を出てから一度もなかった強さだった。みぞおちの奥で、誰かが内側から扉を叩いているようだった。まるで、あの小さな影に向かって、光自身が呼びかけているようだった。呼びかけ、急き立て、アリシアの指先までを熱くしていった。冷えきっていたはずの爪の先に、じわりと血の通う感覚が戻ってくる。

馬車は、ゆっくりと、雪の斜面を下り始めた。

車輪の軋みが、村へと続く細い道を、一歩ずつ、確かに刻んでいく。

アリシアは、まだその子の顔を見ていなかった。名前も、どこの誰かも、何を患っているのかも知らなかった。

それでも、胸の奥で、確かな声がしていた。

——間に合わせなさい、と。

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