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追放聖女は辺境で覚醒する

第2話 第2話

第2話

第2話

夜明けは、雪の気配と共に訪れた。

窓硝子の向こうで空が鈍い鉛色に変わり、遠くの尖塔が灰白の光を浴びて輪郭を濃くしていく。アリシアは寝台に腰かけたまま、一睡もせずに夜を越していた。胸の奥の温もりは、まだそこにあった。消えるどころか、夜が更けるごとに静かに息を整え、彼女の鼓動に寄り添うように脈を重ねていた。

扉の外で、鎧の音が止まった。

「——刻限でございます。アリシア・フォン・エルデン様」

侍女ではなく、衛兵の声だった。昨日までなら、決してかけられることのなかった呼び方。敬称はついていたが、その声は物を運ぶときと同じ平坦さを帯びていた。

アリシアは立ち上がり、鏡台の前でゆっくりと髪を梳いた。自分の手で結い上げる。誰も来てはくれなかった。銀の櫛が一度だけ指先で震えたが、それは怯えではなく、胸の奥の光が、彼女の指先にまで届き始めた証のように感じられた。

白い絹のドレスを選んだ。飾りは何もつけなかった。罪人として引き出されるなら、せめて自分の身体に嘘をつきたくなかった。鎖骨の下にそっと掌を当てる。とくん、と、種が息をした。

(……大丈夫。わたくしは、まだここにいる)

扉が開き、衛兵が二人、無言で左右に立った。廊下を歩き出す。甲冑の擦れる音と、自分の靴音。それだけが石壁に反響していた。

*

大広間の扉が開かれた瞬間、ざわめきが潮のように引いた。

天井を支える白亜の円柱が左右に十六本。紅玉の絨毯が奥の玉座まで真っ直ぐに伸び、その両脇に、王国の主だった貴族たちが整列していた。見知った顔ばかりだった。昨日まで茶会で微笑みを交わし、席次に頭を悩ませた相手たち。彼らは一様に、目を伏せるか、隣の者と何事かを囁き交わしていた。

アリシアが一歩踏み出すたび、絨毯の毛足が靴裏で沈んだ。その沈み込みが、彼女の背を押すのか、それとも引きずり込もうとしているのか、もう判別はつかなかった。

玉座の手前に、ユリアンが立っていた。

白い礼装に青いマント。腰には儀礼用の細剣。昨夜の執務室で見たときよりも、顔色が良く見えた。——いや、高揚しているのだ、と気づいた。この断罪を、彼はすでに楽しんでいる。そのことが、アリシアの胸の内側でだけ、冷たく言語化された。

そしてその斜め後ろに、セシリアがいた。

薄紅のドレスに、銀の髪飾り。濡れた瞳で、アリシアを見つめている。口元には、昨夜と同じ——頬の筋肉のわずかな硬直。笑いを堪える者の顔だった。今朝はもう、隠しきれてすらいなかった。気づかない者は気づかない。気づいた者は、それを口にできない。貴族たちの沈黙は、そのどちらでもある沈黙だった。

「伯爵令嬢アリシア・フォン・エルデン」

ユリアンの声が、円柱のあいだを渡っていった。

「昨夜、我が執務室より毒薬が発見された。容器にはお前の紋章入りのハンカチが添えられ、侍女の証言もある。更に——」

ユリアンはわずかに顎を上げ、広間の隅に控えていた一人の老紳士に目配せした。王宮薬師長だった。白髭の老人は、ためらいがちに一歩前へ出て、震える声で告げた。

「……瓶の中身、トリカブトに相違ございませんでした。致死量の、およそ三倍」

ざわめきが広間を走り抜けた。貴族たちの扇が一斉に口元を隠す。アリシアは顔を上げたまま、動かなかった。視界の端で、父の姿が見えた。最前列、エルデン伯爵家の席。父は拳を握り、唇を強く噛んでいた。その隣で、母は青ざめた頬に手を当てていた。弟のルカは——来ていなかった。来させなかったのだ、と分かった。せめてもの救いだった。

「アリシア・フォン・エルデン。申し開きがあれば、聞こう」

形式上の言葉だった。聞く耳は、最初から用意されていない。

それでも、アリシアは口を開いた。

「恐れながら殿下。毒薬の瓶について、わたくしには覚えがございません。紋章入りのハンカチは、先月、セシリア様にお貸ししたもの。侍女の証言があるとのことですが、昨日の昼過ぎ、わたくしは孤児院の帳簿を整理しておりました。院長のマーサ・バートン、および会計係のエドワード——彼らが証人となりましょう」

広間が、今度こそ静まり返った。

ユリアンの眉が、わずかに動いた。想定していなかったのだ、と分かった。具体的な名前。具体的な場所。具体的な時間。弁明ではなく、事実の提示。それはこの男が最も嫌うものだった。

「——黙れ」

声は、思ったよりも早く返ってきた。

「平民の証言で、王家の判断を覆そうというのか。貴族の誇りを知らぬ者の言葉だ」

「殿下、それは——」

「黙れと言った」

ユリアンは一歩進み、剣の柄に手をかけた。抜くためではない。脅すためだった。それすらも、彼の中では筋書きの一部だったのだろう。セシリアの唇が、ほんの微かに緩んだ。堪えきれなかった笑みが、今度ははっきりと形になった。

アリシアは、それを見た。見て、言葉を呑み込んだ。

ここで何を言っても、もう届かない。届かないことが、彼女の問題ではなく、この広間そのものの問題なのだと、彼女はようやく理解した。

*

「——伯爵令嬢アリシア・フォン・エルデン」

ユリアンは改めて、声を張り上げた。

「婚約は、本日をもって破棄する。加えて、王家の貴人に対する毒殺未遂の罪により、爵位に準ずる資格を剥奪。北の辺境、ヴァイスフェルト領への永久追放を命ずる。出立は本日、日没前。供の者、馬車、装束、いずれも王家の慈悲をもって最低限のみを許す」

永久追放。

その言葉が、広間の空気を一度、確かに揺らした。普通の罪人であれば、修道院送り。重ければ幽閉。辺境への追放は、事実上の——雪と魔物に任せた処刑だった。誰もがそれを知っていた。父が椅子から立ち上がりかけ、背後の騎士に肩を押さえられた。母の小さな悲鳴が、扇の奥で押し殺された。

それでも、アリシアの胸の奥の光は、消えなかった。

むしろ、——脈が、強くなった。

(ああ、そうか)

広間の絨毯の赤が、急に遠くに見えた。ユリアンの声も、セシリアの気配も、貴族たちの囁きも、すべてが水の底から聞こえる音のように鈍く、柔らかく、遠ざかっていく。代わりに、胸の奥の種が、彼女にだけ聞こえる声で、小さく脈を刻んでいた。

とくん。

とくん。

それは、まるで——ここから連れ出そうとしている、誰かの足音のようだった。

アリシアは、深く、ただ一度だけ、頭を垂れた。

「……承ります」

声は、自分でも驚くほど、澄んでいた。

ユリアンの顔に、一瞬、不可解なものが過った。彼は、泣き崩れる女を見たかったのだ。縋りつく女を、醜く取り乱す女を。その役を、アリシアはもう引き受けなかった。引き受ける理由が、胸の奥から、静かに消えていた。

両脇に衛兵がつき、アリシアの腕を取った。その瞬間、セシリアが一歩前に出た。涙に濡れた瞳で、憐れむような表情を作りながら、広間中に聞こえる声で言った。

「アリシア様。どうか、辺境でご自愛くださいませ。わたくし、王都より、祈っておりますわ」

祈り、という言葉が、アリシアの胸の奥で、奇妙に反響した。

顔を上げ、初めて——正面から、セシリアを見た。

薄紅のドレスの娘は、一瞬、息を呑んだ。

何を見たのか、自分でもわからなかった。ただ、アリシアの瞳の奥で、ほんの微かに、金色の光がよぎったのを、セシリアは確かに見た。見て、頬が引き攣った。その引き攣りだけは、演技ではなかった。

アリシアは、何も言わずに視線を外した。

*

馬車寄せに引き出されるまでの廊下は、来たときよりもさらに長く感じた。

衛兵に挟まれたまま、アリシアは前だけを見て歩いた。すれ違う誰とも、もう目を合わせなかった。合わせる必要がなかった。胸の奥の光は、歩調に合わせて、静かに、確かに、脈を打ち続けていた。

外階段を降りると、冷たい風が頬を打った。空は、鉛色から白へと変わりつつあった。鼻先に、昨夜嗅いだのと同じ——雪の匂いが、今度ははっきりと届いた。

粗末な荷馬車が一台、石畳の上に停まっていた。幌は擦り切れ、車輪の一つは修繕の跡が痛々しい。御者は若い兵士で、彼女と目を合わせるまいと、手綱ばかり見ていた。

衛兵がアリシアの背を押した。

「お乗りください」

声は、できるだけ丁寧だった。それが、この男にできる精一杯の抵抗なのだと、アリシアには分かった。彼女は一度だけ振り返り、王城の尖塔を見上げた。五年間、自分が守ろうとしたもの。民のために腐らずにいた、その場所。

——さようなら。

心の中で、一度だけ告げた。

荷馬車の奥に腰を下ろすと、幌の隙間から、ちらりと白いものが舞い落ちた。今年、最初の雪だった。

車輪が軋み、馬が歩き出した。石畳の音が、一歩ずつ、王都の心臓から遠ざかっていく。

胸の奥で、光が、一際強く——脈を打った。

その脈の向こう側に、アリシアは、まだ見ぬ誰かの気配を、確かに感じた気がした。

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