第1話
第1話
燭台の炎が揺れた瞬間、アリシアは自分の名が死刑宣告のように読み上げられるのを聞いた。
「伯爵令嬢アリシア・フォン・エルデン。毒殺未遂の嫌疑により、今宵より王城内での行動を制限する」
王太子の執務室。磨き上げられた黒檀の机の上に、小さな硝子瓶が転がっていた。封蝋は破られ、粘つく液体がわずかに零れている。零れた液の縁が、蝋燭の灯りを受けてぬらぬらと虹色に光っていた。甘い花の香りの奥に、鼻の粘膜を焦がすような刺激臭が混じっている。アリシアはその匂いを知っていた。孤児院の帳簿で、薬師への支払いを確認したときに、一度だけ嗅いだことのある——トリカブトの根から抽出される毒の匂いだった。その横に、真新しい絹のハンカチが一枚。銀糸で縫い取られた紋章は、間違いなくエルデン伯爵家のもの——アリシア自身の紋章だった。
「……これは、わたくしのものではございません」
声は掠れなかった。十六の頃から王太子の婚約者として務めてきた五年間、感情を殺すことだけは人一倍上達していた。背筋を伸ばし、膝を曲げず、ただ事実を告げる。それが王家の評判を守ってきた彼女の作法だった。喉の奥がからからに乾いていた。舌が上顎に貼りつきそうだった。それでも、震えは指先の一本にも出さなかった。出してはいけなかった。震えた瞬間、それは肯定と同じ意味を持つのだと、彼女は五年かけて学んでいた。
だが王太子ユリアンは、彼女を見もしなかった。
磨き抜かれた長靴の爪先で床を二度、苛立たしげに叩く。その音が石壁に跳ね返り、アリシアの耳の奥でやけに大きく響いた。爪先の音は、五年前に初めて謁見の間で聞いた、彼の機嫌のいいときの軽やかな拍子とは、まるで別の生き物のようだった。
「お前の筆跡だという証言がある。お前の紋章がここにある。お前が昼過ぎにこの部屋を出入りしたという侍女の証言もある。——これ以上、何を弁明する?」
扉の脇で、男爵令嬢セシリアが口元を隠して立っていた。花のような薄紅のドレス。揺れる巻き毛。ハンカチで覆われた唇の端が、たしかに吊り上がっていた。アリシアは見逃さなかった。見逃さなかったが、それを口にすれば、ますます自分の立場が悪くなるのは明白だった。セシリアの青い瞳は、濡れているようで濡れていなかった。睫毛の先まで計算され尽くした、完璧な被害者の表情。アリシアは、その表情の作り方を知る者だけが気づく、わずかな——頬の筋肉の硬直を見た。笑いを堪えている者の顔だった。記憶の底で、幼い頃に見た舞台女優の横顔が重なった。あのときも、幕間の袖で、同じ角度で頬が強張っていた。
「……恐れながら、殿下。この硝子瓶、わたくしが手にした覚えはございません。紋章入りのハンカチも、先月セシリア様にお貸ししたままでございます」
セシリアの肩が、ほんの微かに震えた。歓喜の震えだった。
「まあ、酷いわ。アリシア様ったら、わたくしに罪をなすりつけようとするなんて」
涙声に切り替える早業。ユリアンの眉が険しくなる。アリシアは瞬きを一つして、それ以上は何も言わなかった。言葉の無力を知っている者の沈黙だった。ユリアンの瞳には、もう何も届かない。届く隙間が、そもそも用意されていない。彼女はそのことを、喉の奥で噛みしめた。鉄の味がした。気づけば、唇の内側を噛み切っていた。血の味は、奇妙なほど冷たかった。体温がもう、そこまで失われていた。
「明朝、大広間にて正式に断罪する。今宵は自室にて謹慎せよ。逃亡を企てれば、一族郎党まで連座とする」
一族郎党、という言葉がこの夜の最後の釘だった。父。母。まだ十歳の弟。顔を思い浮かべた瞬間、アリシアは深く頭を垂れた。弟のルカ。去年の冬、初めて乗馬に成功したと、泥だらけの顔で笑っていた。あの笑顔を、自分の弁明一つで消すわけにはいかなかった。
「——承知いたしました」
*
自室へ戻る廊下は、やけに長かった。
衛兵が二人、三歩後ろをついてくる。甲冑の擦れる音が、一歩ごとに彼女の背中を小突くようだった。すれ違う侍女たちは目を伏せ、壁際に退き、彼女と視線が合わないよう息を殺していた。昨日まで「アリシア様」と笑いかけてきた者たちだ。噂は、毒より速く回る。一人の若い侍女が、手にした水差しをわずかに傾けた。水が一滴、石畳に落ちて、小さな染みを作った。その娘は、アリシアが孤児院から引き取って王城に上げた娘だった。名を、確か、ミアといった。目が合った。娘はすぐに俯いた。責めるつもりはなかった。誰もが生きるのに必死なのだ。
窓の外で、冬の風が裸の梢を鳴らしていた。
(……わたくしは、何をしてきたのだろう)
貧民街への慰問。孤児院の帳簿確認。王家主催の茶会の席次調整。大司教との擦り合わせ。地方領主からの陳情の整理。——すべて、華やかさとは無縁の仕事だった。ユリアンは一度として「助かっている」と言わなかったし、セシリアが現れてからは、彼の瞳に映るのは常に薄紅のドレスの方だった。
それでも腐らなかった。腐れば、困るのは民だと思っていたからだ。孤児院の子どもたちの顔が、毎晩眠る前に浮かんだ。あの子たちの冬が暖かいなら、自分の冬は冷たくて構わなかった。
——それが、この結末。
自室の扉を閉めた瞬間、膝から力が抜けた。絨毯に両手をつく。掌に伝わる毛織の感触が、やけに遠かった。涙は出なかった。出し方を忘れていた。代わりに、喉の奥から乾いた笑いが一度だけ漏れた。それは笑いというより、息が引き攣れた音に近かった。
そのときだった。
胸の奥で、小さく、何かが脈打った。
心臓ではない。もっと奥。鎖骨と鎖骨のあいだ、息の通り道の少し下。冷えきった身体の中に、ぽつりと温かい光が灯ったような感覚。
アリシアは、反射的にそこへ手を当てた。指先が、夜着の薄い絹越しに、確かな熱を感じ取った。熱湯のような激しさではない。湯たんぽを抱いたときの、あの穏やかで、しかし逃げ場のない温もり。絹の繊維の一本一本までが、内側から照らされているようだった。
幼い頃から、ときおり感じていた。熱を出した乳母の手を握ったとき。庭の雛鳥が死にかけていたのを拾い上げたとき。胸の奥に、灯るでもなく消えるでもなく、ただ静かに在ったもの。母はそれを「お前のやさしさね」と笑っただけだった。神官も気づかなかった。彼女自身も、ただの気のせいだと思ってきた。
だが今夜、それは初めて——脈打った。
脈打って、熱を持った。
(……なに、これは)
掌の下で、小さな鼓動が二度、三度と繰り返される。遠くで鐘が鳴るような、深い響き。怯えた。怯えたが、同時に、何故か涙が一粒だけ零れた。温かかった。自分の身体から零れたものとは思えないほど、温かかった。その一粒は、絨毯の毛先に落ちて、すぐに吸い込まれて消えた。けれど消えたあとも、頬にはその軌跡の熱がいつまでも残っていた。指の腹でそっと辿ると、皮膚の下で何かが応えるように、もう一度、とくん、と脈を打った。
窓の外で、風の音が変わった。
雪の匂いが、混じっている。
*
深夜、廊下の端で衛兵が交代する音。蝋燭の芯が爆ぜる音。そして遠く、大広間の方角で、明朝の式典の準備に走る従僕たちの慌ただしい足音。絨毯を引きずる音、椅子を並べる音、誰かを叱る低い声。それらすべてが、彼女を裁くための舞台を整える音だった。
アリシアは寝台に腰かけたまま、窓の向こうの闇を見ていた。胸の奥の温もりは、まだ消えていなかった。消えるどころか、時が進むほどに、確かな形を得ていくようだった。指先でそっと鎖骨の下をなぞる。皮膚の下に、小さな種のようなものが埋まっている気がした。種は息をしていた。彼女の呼吸に合わせて、ゆっくりと、膨らんだり縮んだりしていた。
(明日、わたくしは罪人として引き出される)
弁明は聞かれないだろう。セシリアは泣き、ユリアンは断じ、貴族たちは囁き合う。父の顔が、どんなふうに歪むのか、想像したくもなかった。母は気丈に振る舞うだろう。そして夜、誰もいない部屋で、声を殺して泣くのだ。弟は——弟は、きっと、何が起きたのかさえ、すぐには理解できない。
それでも——と、アリシアは静かに胸に手を当てた。
この光だけは、誰にも奪わせない。
なぜそう思ったのか、自分でもわからなかった。ただ、夜明けと共に訪れる断罪の向こうに、見知らぬ雪の匂いが、微かに、確かに、漂っている気がした。