第3話
第3話
井戸端から物置へ戻る道すがら、俺は空を見上げた。雨上がりの空は、洗われた硝子のように薄青く、東の端だけがまだ灰色を引きずっている。その灰色の縁が、指先の青い粉と、どこか似ていた。 タケルの右手の甲に滲んでいた青。あの色が薬品棚の染料だとすれば、タケルはあの棚に触れたことがある。だが棚の鍵を持っているのは副責任者だけだ。──だとすれば、鍵が一度でも棚から離れた瞬間があったはずだ。あるいは、鍵を持つ人間が自ら棚を開け、タケルに何かを持ち出させた。どちらにせよ、副責任者の周辺で何かが動いている。 昼の点呼の時刻まで、まだ半刻ある。俺は子どもたちの寝台に戻り、板の裏から写真を引き抜いた。昼の光で見ると、夜に見た像とは別のものが浮き上がってくるような気がしたのだ。黒い外套の男の肩章のあたりに、刺繍のようなものがある。夜は影に紛れて見えなかった細い線。俺はそれを、目を細めて見つめた。花か、紋か、どちらにせよ──この収容所の誰も、身につけていないものだ。 胸の奥で鐘が一つ、鳴った気がした。写真を見るたびに、頭の奥の錠前が軋む。昨夜より、軋みの音は少しだけ大きくなっていた。
俺が薬品棚のことを考えながら廊下を歩いていると、背中に小さな足音が追いついてきた。年下の子ども、マメと呼ばれている六つの女の子だった。彼女は俺の袖を引き、寝台のほうを指さした。 「セイ兄。寝台のとこに、知らないもの、あったよ」 足が、半拍止まった。マメの目は大きく、嘘をつくには若すぎる。俺は腰を落として、彼女の視線の高さに自分を合わせた。 「いつ見た」 「さっき。お椀、片付けに戻ったとき」 「誰かいた?」 マメは唇を引き結び、少しだけ首を傾げた。髪の先に、朝餉の粥の匂いがまだ残っている。 「……知らない足音。大人の、長い靴の音だった。こつ、こつ、って。途中で、一回、止まったの」 長い靴。子どもたちは藁か布靴だ。革靴を履いているのは職員しかいない。俺はマメの頭に手を置いた。掌に、日向に置かれた小石のような、乾いた体温が伝わってきた。 「ありがとう。誰にも言うな。お前が見たことは、お前と俺だけの秘密だ」 マメはこくりと頷き、頷いた勢いのまま小さく笑った。その笑顔が胸の真ん中にちくりと刺さった。この子は、自分が何を運んできたかを知らない。知らないままでいさせなければならない。俺は急いで寝台に戻った。 俺の毛布の、枕の位置にあたる場所。そこに、見覚えのない紙片が差し込まれていた。折り畳まれていない、一枚の古ぼけた写真。昨夜、自分で板の裏に隠したはずのものと──別の、もう一枚。 息が浅くなった。毛布の端を持ち上げた指先が、自分のものとは思えないほど冷たかった。俺は写真を持ち上げ、光に翳した。陽の粒子が紙の繊維の凹凸を照らし、薄く反った縁から、埃が一筋、宙に舞い上がる。 写っているのは、同じ屋敷の門。昨夜の写真と同じ鉄の装飾。だが今度は、門の前に立っているのは幼い俺一人ではなかった。俺の隣に、同じくらいの背丈の、もう一人の子どもがいる。女の子だ。少しだけ俯いて、俺と手を繋いでいる。髪の分け目の位置と、耳の形。──知っている、と頭の奥が言った。知っているはずなのに、名前が出てこない。喉の奥で、呼ぼうとした音が形にならずに崩れる。胸の骨の内側が、熱い針でゆっくり貫かれるような痛みがあった。痛みは不思議と、懐かしさの匂いがした。 写真の裏を返した。同じ筆跡、同じ太さの線。だが文字は違っていた。 ──もう一人、いた。 俺は写真を取り落としそうになり、両手で掴み直した。掌が汗ばんでいた。もう一人、いた──誰が? 俺に? この子がか? あるいは、あの燃える屋敷の夜に? 断片的な記憶の中に、女の子の声は入っていなかった。男の背中と、女の悲鳴と、黒い外套と──そこに、もう一つ声が足されれば、何が変わる。耳の奥で、聞いたことのないはずの声が、微かに、笑った気がした。幼い、少し舌足らずな、呼びかけの語尾。兄、と、そう言った気がした。言った気がしただけで、俺はもう、息の仕方を忘れかけていた。 寝台の板の裏から昨夜の写真を引き出し、二枚を並べた。同じ屋敷、同じ門、同じ子ども。だが昨夜の写真には、女の子は写っていない。同じ日に撮られたとは限らない。いや──同じ日だ。俺の着ているものが同じだ。襟元の小さな染み、袖口のほつれ方、全部同じ。つまり、同じ一連の写真の中から、誰かが二枚を別々に持っていて、昨夜はリク兄経由で一枚、今朝は別のルートでもう一枚を、俺に届けたのだ。
誰だ。リク兄はもういない。老婆はリク兄から預かった一枚しか持っていなかった。もしそれ以外に写真を持ち込める人間がいるとすれば──昨夜、物置の近くまで来ていた、別の誰か。急ぎ足で戻った、踵の深い足跡の主だ。 俺は写真を毛布の下に隠し、廊下に出た。寝台のある部屋の入り口は、朝餉の片付けが終わるまでは人の出入りが少ない。差し込まれたのは、ついさっき。老婆が俺に「嘘が視える目」と告げている間か、あるいは俺が井戸端で石の筋を読んでいた間か。どちらにせよ、犯人に近い誰かが、俺の寝床の位置を知っている。 鈴は鳴らないのに、背筋だけが冷たい。嘘を聞いていないのに、嘘の気配だけが空気に残っているようだった。監視されている、と初めて思った。昨夜までは俺が観察する側だった。今朝からは、観察される側に回った。写真を置いた者は、俺がこれを見て、動揺して、動き出すことを期待している。つまり、俺を何かに誘導したい誰かがいる。 俺は廊下の角で立ち止まり、壁に背を預けた。漆喰の冷たさが、薄い肩甲骨を通じて背骨まで沁みてくる。心臓の音がうるさかった。自分の鼓動が、遠くの太鼓のように耳の裏側で鳴っている。誘導に乗るのは危ない。だが乗らなければ、もう一人が誰なのかは、永遠に分からないままだ。 判断を下さなければならない。冷静に──冷静に、だ。俺は目を閉じ、老婆が言った言葉を反芻した。『あの子は人の嘘が視える目をしてる』。視えるのは嘘だけだ。置かれた写真は嘘ではない。置いた人間の意図が嘘なのだ。だとすれば、意図を読むには、意図を置いた現場から逆算するしかない。 俺は目を開け、もう一度寝台に戻った。枕の位置を確かめ、毛布の皺の向きを確かめる。写真が差し込まれていたのは、入り口から入って最も見えにくい角度、子どもたちが出入りしても踏まない位置だった。つまり、置いた人間はこの部屋の寝台の配置を正確に知っている。外から慌てて投げ込んだのではない。一度、しゃがみ込んで、丁寧に差し込んだのだ。膝をついた跡はないかと床を撫でたが、土間は乾いていて、何も残っていない。だが毛布の端に、微かに、薬品のような、しかし薬品よりも甘い、青臭い匂いがこびりついていた。あの青い粉と、同じ匂いだった。
俺は廊下を戻り、職員室の前を通った。扉の隙間から、副責任者の背中が見えた。机に向かって、勤務表らしきものに何かを書き込んでいる。その手元に、薬品棚の鍵束が置かれていた。鈍い光を反射する、小さな鉄の輪。 鍵束のそばに、もう一つ、俺の目を引くものがあった。机の端に伏せて置かれた、一枚の古ぼけた紙の縁。──写真の縁と同じ、黄ばみ方だった。 俺は息を止めた。副責任者が顔を上げる前に、扉の前を離れた。廊下の角を曲がり、壁に手をついて、荒い呼吸を整えた。 二枚目の写真を置いたのは、副責任者か。あるいは、副責任者のもとにもう一枚、別の写真がある。どちらにせよ、写真は一枚ではなかった。リク兄が届けようとしたのは「一枚」ではなく、「複数のうちの一枚」だったのだ。 裏書きの言葉が、耳の奥で繰り返された。──忘れるな。もう一人、いた。 忘れるな、と命じてくる過去がある。思い出せ、と急かしてくる現在がある。俺の中で、昨日まで閉じていた錠前が、今朝は確かに一段、外れる音を立てた。 廊下の窓から、昼前の光が差し込んでいた。光の中で、俺は自分の指先を見た。青い粉の一粒は、もう消えていた。代わりに、掌にうっすらと、写真を握った形の汗の跡が残っていた。 もう一人、いた。その誰かは、今も生きているのだろうか。生きているなら、どこにいるのだろうか。そして──その子の名前は、俺の半分だけ残された名前と、どこかで繋がっているのだろうか。 俺はもう一度、職員室の扉のほうを振り返った。副責任者の背中は、まだ机に向かっている。鍵束は、まだそこにある。 今夜だ、と俺は決めた。鐘が二つ鳴るまでに、あの棚を開ける方法を見つける。青い粉の出所と、伏せられた写真の正体。二つを同時に掴まなければ、置き去りにされたもう一人の影は、また闇の奥へ戻ってしまう。 廊下の先で、誰かが俺の名を呼んだ気がした。振り返ったが、誰もいなかった。ただ、胸の奥の鈴が、昨夜より少しだけ高い音で、ちりん、と鳴った。