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嘘が視える捨て子の密室

第2話 第2話

第2話

第2話

雨は夜半過ぎに上がった。屋根を叩いていた音が途切れ、代わりに軒から滴る水音が、一定の間隔で土間を穿ちはじめた。俺は寝台の下で写真を胸に押し当てたまま、目を閉じていた。眠れるはずもない。瞼の裏には、あの黒い外套の裾と、崩れる柱と、名前を呼ぶ女の声が、何度でも蘇ってくる。けれど像は曖昧なままで、掴もうとすると水のように指の間から逃げていった。 だとすれば、今の俺に確かなものは二つだけだ。リク兄が殺されたという事実と、指先に残った青い粉の一粒。記憶はあてにならない。だが、物は嘘をつかない。 俺は写真を寝台の板の裏側に差し込み、そっと毛布を被り直した。鈴の音が、胸の奥でまだ鳴り続けている。副責任者の頬の筋肉。老婆の震えた手。二つの嘘は、形がまるで違っていた。前者は隠すための嘘、後者は庇うための嘘だ。庇うとしたら、誰を。何から。 夜明けの鐘が一度鳴った。俺は目を開けた。眠っていたのか、ただ暗闇を見ていただけなのか、自分でも判別がつかなかった。──まず、老婆からだ。嘘の形が柔らかい分、崩しやすい。そして嘘の奥にあるものを見てから、副責任者に向き合う。順番を間違えれば、こちらが先に潰される。

厨房の土間は、湿った木と灰の匂いがした。竈には昨夜の熾火がまだ残っていて、その赤みが土間の窪みに溜まった水に、ちりちりと映り込んでいる。炊事係の老婆は一人で粥の釜を掻き混ぜていた。痩せた背中が、朝の薄明かりの中で丸く縮んで見える。年を取った女の、骨ばかりになった肩甲骨が、擦り切れた麻の上衣の下で鳥の翼のように動いていた。粥の匂いは、いつもより薄い。米の量をけちったのか、それとも、掻き混ぜる手に力が入らなかったのか。俺が入っていくと、老婆は振り向かずに「朝餉はまだだよ」と低く言った。その声も、普段の張りを失って、喉の奥で擦れていた。 「婆さま。リク兄のことで聞きたい」 釜を掻き回す木杓の音が、半拍、止まった。そしてすぐに、前と同じ速さで再開した。半拍──そこに嘘の予備動作がある。竈の火が、老婆の横顔の皺を下から舐め、目の下の影を深く彫り込んでいた。泣いた跡、ではない。泣くことすら許されずに夜を越した人間の、乾いた瞼だった。 「何も知らないって言ったろう」 「知らないなら、昨日の夜、リク兄がどこで婆さまに紙包みを渡したのか、覚えていないはずだ」 木杓が、今度ははっきりと止まった。竈の火が、ぱち、と小さく爆ぜる。爆ぜた火の粉が、老婆の手の甲をかすめて消えた。老婆は避けもしなかった。熱さを感じる余裕すら、今のこの人にはない。 「……裏口だよ。水汲みに出た帰りだった」 「何時頃?」 「鐘が二つ鳴った後さ。それきり、あの子は物置のほうへ歩いていった」 鐘が二つ。深夜に近い時刻だ。俺は頭の中で、物置までの距離と歩幅を数えた。裏口から物置までは、濡れた土を踏んで約三十歩。リク兄の足なら一分もかからない。 「婆さま。その帰り道で、誰かとすれ違わなかったか」 老婆の肩が、今度は大きく震えた。木杓を握る指の関節が白い。爪の縁に、乾いた粥の粒がこびりついている。俺はその指を、じっと見ていた。指先の震えは、寒さのそれではなかった。見たものを見なかったことにするために、全身の筋肉を使って押さえつけている人間の、静かな痙攣だった。 「……見ちゃいないよ。あたしゃ目が悪いから」 鈴が鳴った。ちりん、と胸の奥で。 嘘だ。だが、さっきの「鐘が二つ」には鈴が鳴らなかった。つまり時刻は本当だ。嘘は「誰かとすれ違わなかった」のほうにある。老婆は誰かを見ている。そしてその誰かを庇っている。俺は一歩、竈に近づいた。熱気が頬を舐めた。熾火の匂いと、粥の匂いと、それから老婆の衣服に染み込んだ古い汗の匂いが、一度に鼻の奥へ押し寄せてきた。 「婆さま。俺は犯人を見つけたいんじゃない。──いや、見つけたい。けど、婆さまを責めたいんじゃない。婆さまが庇ってる相手は、たぶん犯人じゃない。だから言ってほしい」 言いながら、自分の声が思ったより低く落ち着いていることに、俺自身が驚いていた。胸の内側では、リク兄の名前を呼ぶたびに喉が塞がれそうになるのに、この場では、声だけが先に大人になっていく。 老婆はしばらく無言で粥を掻き混ぜていた。木杓が釜の底をこする、ごり、ごり、という重たい音だけが、土間に落ちていた。やがて、ぽつりと呟いた。 「……あんた、ほんとにリクの言った通りの子だね」 「リク兄が、俺のことを?」 「『あの子は人の嘘が視える目をしてる。だから、あの子にだけは嘘をつくな』って。昨日の夜、あたしに紙包みを押しつけながら、そう言った」 胸の奥が、熱くなった。熾火の熱ではない、もっと深いところ、肋骨の内側を内側から押し広げるような熱だった。──視える目。その言葉を、俺は今、初めて外から与えられた。自分の癖ではなく、誰かが俺を見てつけた名前のように。その名前を最後にくれたのが、もうこの世にいない兄だという事実が、遅れて胸を殴った。俺は奥歯を噛んで、こみ上げてくるものを喉の下に押し戻した。 「見たのは、潔癖症の若い職員さ。タケルだよ。手を洗いながら、裏口のほうを睨んでた。あの子はリクと仲が悪かったから、あたしゃ、あの子が疑われると思って……」 老婆の声は、最後のほうで震えて、粥の湯気に溶けていった。庇うという行為が、この人の痩せた体には重すぎたのだ。重すぎたのに、それでも背負おうとしたのだ。俺は、老婆の背中にかけるべき言葉を一つも持たなかった。ただ黙って、一度だけ深く頭を下げた。老婆の嘘の形が、ようやく見えた。殺人を隠したのではない。仲の悪かった若い職員が、状況だけで犯人に仕立てられるのを恐れたのだ。

俺は厨房を出て、井戸端に回った。朝の冷たい風が、濡れた髪を撫でていく。風は雨上がり特有の、土と青葉と、どこか遠くの炭の匂いを運んできて、寝不足の頭の芯をきりきりと締め上げた。タケル──潔癖症の若い職員。あの男なら俺も知っている。一日に何度も手を洗い、子どもの触れたものを布で拭いてから持つ、神経質な男だ。リク兄とは、確かに何度か言い争っていた。薪の積み方が汚いだの、土足で厨房に入っただの、そんな理由で。 だが、見ていたからといって犯人とは限らない。むしろ、見ていたからこそ、犯人ではない可能性が高い。見た人間は「証人」であり、殺したい相手ではない。犯人なら、目撃されないほうを選ぶ。 問題は、タケルが何を見たのか、だ。リク兄が物置へ入っていく姿か。それとも──その後で、別の誰かが物置へ入っていく姿か。 俺はしゃがみ込み、井戸の縁の石を指でなぞった。石は夜の雨を吸って冷え切っていて、指先から肘の内側まで、細い針のような冷たさが昇ってきた。石には、雨で流されきらなかった土の筋が残っていた。筋の向きは、物置のほうへ歩いていった足と、物置から戻ってきた足の、二種類。後者の歩幅は広い。走っていた、とまでは言わないが、急いでいた者の歩幅だ。踵の沈み方が深く、爪先側が浅い。前のめりに急いだ人間の、重心の癖だった。 リク兄は急いでいない。彼は「渡し終えた」後で物置に向かった。急ぐ理由がない。急いで戻ってきたのは、別の人間だ。 俺は立ち上がった。膝の裏に冷たい水がじわりと染みていた。指先の青い粉が、朝の光の中で、昨夜よりも鮮やかに見えた気がした。この色の正体を突き止めれば、犯人の輪郭が一段階はっきりする。化学めいた匂い、鼻を刺す冷たさ、藍でも墨でもない青──心当たりは、一つだけある。職員室の奥の、鍵のかかった薬品棚。あそこに、確か染料の瓶が並んでいたはずだ。

井戸端から戻る途中、俺はタケルと鉢合わせた。男は洗ったばかりの手を布で拭きながら、俺を見て足を止めた。その目が、昨夜の物置を見た人間の目だった。怯えと、隠しきれない何かと、それから──俺に対する、奇妙なほどの警戒。布を握る指は、布の織り目が肌に食い込むほど強く、何度も何度も同じ場所を拭っていた。洗い流したいのは、水気ではなく、記憶のほうなのだと、見ていて分かった。 「……セイ。おまえ、昨日の夜、どこにいた」 問い返してきたのは、向こうのほうだった。声は平静を装っていたが、喉仏が一度、大きく上下した。俺は答えなかった。ただ、男の右手の甲に、ごく薄い青の滲みが残っているのを見た。洗っても落ちきらなかった、染料の痕。親指の付け根から手首にかけて、指で擦ったらしい筋が何本か走っている。必死に落とそうとして、かえって広げてしまった、そういう滲み方だった。 鈴は、鳴らなかった。タケルはまだ、俺に何も嘘をついていない。だが、その手の青は、確かに何かを語っていた。語っているのに、本人はまだ、自分が語っていることに気づいていない。 俺は静かに頷き、男の横をすり抜けた。すれ違いざま、タケルの衣服から、あの鼻を刺す冷たい匂いが、ほんのわずかに立ち昇ってきた。指先の一粒と同じ匂い。背後で、タケルが小さく息を呑む音がした。 ──嘘が視える目、か。 ならば次に見るのは、嘘ではなく、嘘をつかざるを得なかった者たちが指先に残した、色のほうだ。薬品棚の鍵を、どうにかして開ける方法を考えなければならない。雨上がりの空の下で、俺はもう一度、自分の鼓動を数え始めた。

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