第1話
第1話
雨の音で目が覚めた夜は、たいてい誰かが死ぬ。
収容所の屋根は薄く、雨粒がひとつずつ数えられるほど鈍い音を立てる。俺は毛布の下で目を開けたまま、暗がりの梁を見ていた。湿った藁の匂いと、隣で寝息を立てる年下の子どもの、か細い呼吸の音。毛布の繊維は長年の洗濯でごわつき、首筋にあたるたびに小さく痒みを立てる。名前はない。あるのは十四という年齢と、セイ、という仮の呼び名だけだ。過去もない。覚えているのは、この雨漏りのする天井と、粥の匂いと、他人が嘘をつく瞬間に頬の筋肉がほんの少しだけ引き攣る、その不自然さだけだった。なぜ自分にそんな癖があるのか、誰に教わったのかも思い出せない。ただ、人が嘘をつくと、俺の胸の奥で小さな鈴が鳴るように、ちりん、と感覚が走るのだ。 明け方、廊下の奥で女の悲鳴が上がった。俺は跳ね起きるより先に、頭の隅で冷たく考えた。──悲鳴の種類が、怪我のそれではない。発見したときの声だ。痛みの悲鳴は短く、途切れる。だがあの声は、長く尾を引いて、途中で喉が塞がれたように裏返った。見てしまった者の声だった。 物置の前には既に人だかりができていた。炊事係の老婆が口元を覆い、若い職員が肩を震わせている。子どもたちは裸足のまま、土間の冷たさに震えながら、それでも首を伸ばして中を覗こうとしていた。副責任者の痩せた男が扉を押さえ、低い声で「自殺だ、騒ぐな」と繰り返していた。その言葉は朝の空気にやけに滑らかに溶けていく。用意してあった台詞のように。俺はその言葉を、喉に刺さった小骨のように受け止めた。結論が早すぎる。まだ誰も、遺体をきちんと検めてすらいない。
物置の中は狭く、黴と古い麻袋の匂いがした。雨で湿った土の匂いが床下から這い上がってきて、頬にぺたりと貼りつく。年長者のリク兄が床に仰向けで倒れていた。十八歳。昨日まで俺に薪の割り方を教えていた男だ。「刃は木目に沿わせろ、逆らうと手首を痛める」──そう言って笑った彼の歯の白さを、俺はまだ覚えている。両手は胸の前で、行儀よく組まれている。指先まで丁寧に重ねられた、まるで祈るような形。首には細い縄の痕。天井の梁から垂れた縄は、確かに輪の部分だけ切られていた。 「縄を自分で切って、それから胸の上で手を組んで死んだのか」 俺は声に出さず、自分の中だけで呟いた。だとすれば、順番がおかしい。首を吊った人間が自ら縄を切り、地面に落ちてから、わざわざ両手を胸の前で組んで、そのまま息を引き取る──そんな芸当ができるはずがない。 扉の鍵は内側から差し込まれたままで、窓は板で嵌め殺しになっている。争った形跡は、ない。棚の上の古い陶器も、床の箒も、すべて昨日のままの位置にある。確かに外見は完璧な密室だった。 俺はしゃがみ込み、リク兄の指先に目を寄せた。まだかすかに体温の名残があるような気がして、指先が震えた。爪の内側に、細かい青い粉が食い込んでいる。藍でも墨でもない。どこかで嗅いだことのある、化学めいた匂い。鼻の奥を刺す、ぴりっとした冷たさ。視線を床に落とす。麻袋の山の崩れ方が不自然だった。倒れ込んだ人間の重みで崩れたにしては、袋の口が全部、扉のほうを向いて揃っている。誰かが一度積み直してから、わざと崩したように。 妙だ、と俺は思った。違和感の在り処が多すぎる。多すぎる違和感は、犯人が慌てていた証でもある。 「おい、セイ。何してる」 副責任者の影が扉口に落ちた。油で汚れた作業着の裾から、昨夜の雨に濡れた土の匂いがした。俺は立ち上がり、顔を上げずに答えた。 「……リク兄は、左利きでした」 「それが?」 「縄の結び目が右利き用です。自分で吊ったなら、結び目の向きが逆になるはずだ」 一瞬、副責任者の頬の筋肉が、ほんの半拍だけ固まった。俺の目には、それがはっきりと見えた。嘘をつく前の、あの引き攣りだ。胸の奥で、鈴が、ちりん、と鳴った。 「子供が口を出すな」 男は俺の頭を軽く叩き、外へ押し出した。叩かれた場所が、やけに熱かった。ただの小突きにしては、力が一瞬、本気になりかけていた。
昼過ぎ、雨は小降りになった。俺は物干し場の軒先にしゃがみ、膝を抱えて考えていた。濡れた布が頬に触れ、冷たい滴が首筋を伝う。 リク兄の死は自殺ではない。それは確定していい。問題は、なぜこんな手の込んだ殺し方を選ぶ必要があったか、だ。首を絞めて床に転がすだけなら、誰にでもできる。事故に見せかけるだけなら、階段から落とせば済む。だが犯人は扉の内鍵を使い、窓を嵌め殺しのまま、密室という演出を選んだ。 密室を作るには時間がいる。時間をかけても作りたかった、ということは、犯人にとって「発見を遅らせること」よりも、「自殺だと断定させること」のほうが重要だったのだ。調べられたくなかった。疑われたくなかった。自殺という言葉で、すべてを閉じたかった。 だとすれば、リク兄は誰かにとって、生かしておけないほど何かを知っていた。あるいは──何かを、誰かに渡そうとしていた。 俺はそこまで考えて、ふと自分の指先を見た。爪の間に、青い粉が一粒だけ付着している。リク兄の体に触れたときに移ったものだろう。親指でこすると、粉は滲むようにひろがり、薄い青の線を残した。──この色を、俺はどこで見た? 記憶の奥で、遠い鐘の音のように、何かが鳴っている気がした。 記憶の水面に、何かが触れた気がした。だが像は結ばない。ただ胸の奥が、火に炙られたように熱くなった。指先の青が、心臓に直接刺さっているみたいに。 「セイ」 声に振り向くと、炊事係の老婆が立っていた。痩せた手が、前掛けの裾を強く握りしめている。彼女は周囲を素早く見渡してから、俺の手に小さな紙包みを押しつけた。紙は体温でわずかに温かく、端が汗で湿っていた。 「リクが、昨日の夜、あんたに渡してくれって。……あたしゃ何も知らないよ。見てないよ」 老婆の声は震えていた。嘘だ、と俺の目は告げた。だが、それは殺人についての嘘ではない。何か別のものを、必死に庇っている嘘だった。老婆の目の奥には、恐怖と、それ以上の哀れみがあった。まるで、俺の顔に別の誰かの面影を見ているような目だった。老婆はそれだけ言うと、逃げるように厨房へ戻っていった。下駄の音が、濡れた土の上で、ぺたり、ぺたりと遠ざかる。
夜、俺は寝台の下で紙包みを開いた。周りの子どもたちの寝息を確かめ、息を殺し、毛布を頭から被って。 中から出てきたのは、古ぼけた一枚の写真だった。 色の褪せた紙の上で、三つか四つくらいの子供が、黒い外套の男に抱き上げられて笑っている。背景は大きな屋敷の門。鉄の装飾が施された、見たこともないほど立派な門だった。男の顔は影になって見えない。だが、その子供の、少しだけ垂れた右目の形を、俺は知っていた。毎朝、井戸の水鏡で見ている目だ。息が止まった。指が、勝手に写真の縁をなぞっていた。 写真の裏に、細い字でたった一言。 ──忘れるな。 その文字を読んだ瞬間、頭の奥で、錠前が軋むような音がした。 熱。煙。焦げた木の匂い。遠くで女が俺の名前を呼んでいる。知らないはずの名前だ。だが確かに、俺の名前だった。誰かの腕が俺を抱え上げ、燃える廊下を駆け抜ける。柱が崩れる音、ガラスの割れる音、そして──あの青い粉の匂い。そうだ、火薬の前触れの匂いだ。背中越しに見えたのは、黒い外套の裾が炎に舐められて舞う、あの影──。 俺は写真を握りしめたまま、息を止めた。指先が冷たく、額には汗が滲んでいた。 リク兄は、使者だったのだ。誰かに託されて、この一枚を俺に届けようとしていた。そのために殺された。密室は、彼の口を封じるためではなく、俺に気づかせないための幕だったのだ。自殺という一言で、彼の持っていた何かごと、闇に葬るための。 窓の外で、雨がまた強くなった。屋根を叩く音が、今度はひとつひとつ、秒を刻む針の音のように聞こえた。青い粉の一粒が、指先でまだ光っている。 俺は初めて、自分の鼓動を、他人のものでないはっきりとした音として聞いた。どくん、どくん、と、胸の内側から世界を押し返すような音。 名前のない少年が、ひとつだけ決めた。 ──この密室を、俺が解く。