Novelis
← 目次

氷の騎士と忘れた名前

第3話 第3話

第3話

第3話

重い足音は、思っていたよりもずっと長い時間をかけて近づいてきた。

 回廊の石畳を打つ革靴の響きは、衛兵のそれとは違っていた。急いでいるわけでもなく、かといってゆったりと歩を運んでいるわけでもない。ひと足ごとに、何かを背負い直しているような、そんな重さがあった。閉じた瞼の奥で、私はその足音を数えていた。数えているうちに、数える自分がひどく心細くなって、途中でわからなくなった。  扉の前で、足音は止まった。  息を整えるような間があり、それから、先ほどの医師とは違う、低く皺のある声がした。 「……入るぞ」  短い一言だった。許しを請うているのか、告げているのか、判じかねる響き方だった。ルシアンが私の枕元から一歩下がる気配がする。衣擦れの音も、外套の裾の流れも、すべてが音量を落として、部屋の隅へ身を退いていく。私はゆっくりと瞼を開けた。瞼を開けたその一瞬を、誰かに見られているようで恥ずかしかった。自分の目覚め方すら、よそ行きの形を知らないのだと、今さら気がついた。  入ってきたのは、背の高い壮年の男だった。深い藍の外套に銀の留め金。鬢のあたりに白いものが混じり、眉間には深い皺が一本、刻まれている。その皺は、今朝できたものではないのだろうとわかった。長い年月をかけて、同じ場所に同じ重さが繰り返し落ちて、そうしてできあがる種類の皺だった。  男は寝台の三歩手前で立ち止まり、私を見下ろした。  見下ろされているのに、なぜか見上げられているような錯覚があった。彼の視線には、私を値踏みするような圧はなかった。ただ、まっすぐに私の顔を見て、それから、視線を逸らすように一度だけ瞼を伏せた。その伏せ方が、なぜか、朝のルシアンによく似ていた。

 「……目を、覚ましたか」  絞り出すような声だった。私は返事の代わりに、小さく頷こうとして、うまく首が動かないのに気がついた。枕の上で、ほんのわずか、顎が揺れたぐらいだったと思う。それでも男は、その僅かな動きを見逃さず、喉の奥で何かを飲み込んだ。 「儂は」  と彼は言いかけて、一度言葉を切った。それから、言い直した。 「……お前の、父だ。アルファート・フォン・リースフェルト。侯爵、と呼ばれておる」  侯爵、という言葉が、まず先に耳に届いた。父、という言葉は、そのあとから遅れてやってきた。二つの言葉の間に、微かな隙間があった。その隙間のことを、私はたぶん一生忘れないだろうと、なぜかそのとき直感した。  父。  口の中で、その一音を転がしてみる。セレスティア、と自分の名を転がしたときと、ほとんど同じ感触だった。甘くも苦くもなく、温度を持たず、ただ他人の語彙として舌の上に乗る。父親という像が、胸の奥のどこにも浮かんでこない。浮かんでこないことを、どう詫びればいいのかもわからない。私はきっと、この人の膝の上で眠ったことがあるのだろう。この人の手に、幼い頃の小さな手を握られたことがあるのだろう。その記憶の一切が、私の中から抜け落ちている。抜け落ちた跡地に、冷たい風だけが通り抜けていく。  侯爵は、一歩だけ寝台に近づいた。近づいて、それ以上は踏み込まなかった。枕元に腰を下ろすこともせず、私の手を取ることもしなかった。ただ、そこに立って、私の顔を静かに見ていた。見ているうちに、その目のふちが、ほんの少しだけ赤く滲んだ。泣いているのではなかった。泣くことを、長年の習慣で自分に禁じている人の、ぎりぎりの滲み方だった。 「無事で、よかった」  彼はそう言った。言ってから、それ以上の言葉を続けるのをやめた。続けなかった言葉の分だけ、部屋の空気が重くなった。私はその重さの出所を探ろうとして、探しきれなかった。父と呼ばれた人の声には、安堵があり、悔恨があり、そして、私にはまだ読み解けない何かが混ざっていた。娘に対して向けられるものとしては、それはあまりに慎重で、あまりに遠かった。遠さそのものが、彼なりの愛情なのかもしれない、と思うそばから、そう思おうとしている自分が浅ましい気がした。私は、父という存在がどういうものなのか、比較する手札を一枚も持っていないのだ。  私は何か返さなければと思い、乾いた唇を開いた。 「……ご、心配を」  言いかけて、続けられなかった。心配をおかけしました、と言うには、心配をかけた、という自覚の記憶がない。申し訳ありません、と言うには、何に対して詫びているのかがわからない。言葉の続きを失くした私の唇の震えを、侯爵はじっと見つめ、それから、短く首を振った。振った首の動きの中に、「いい」とも「もうよい」ともつかない許しがあった。  窓辺のルシアンが、ほんのわずかに顔を上げたのを、視界の端で感じた。

 侯爵は、私から一度視線を外し、ルシアンの方へ目を向けた。二人の視線が交わる。ほんの数秒のことだった。けれどその数秒の間に、何か言葉にならない約束のようなものが取り交わされたのを、私は確かに感じた。侯爵の口が、ほとんど動かないまま、低く言った。 「療養の地を、変える」  ルシアンが、胸に手を当てて一礼した。 「王都郊外、北の離宮だ。空気がよい。人目も少ない。――此度のことが、ただの病では、ないのならば」  言葉の後半は、私に聞かせるためのものではなかった。けれど、聞こえてしまった。ただの病ではない。その一言が、朝から胸の底でくすぶっていた小さな不安に、静かに火を移した。私は三日間、眠っていた。三日という空白の中で、私は何から遠ざけられ、何から守られていたのか。喉の奥の苦い残滓が、薬湯のそれだけではないことを、私の身体はきっと、意識よりも先に知っている。  侯爵は再び私の顔に視線を戻した。 「セレスティア。お前にとって、酷な話をせねばならぬ。――ここは、あまりに近すぎる」 「近い、とは」  問い返した声は、自分でも驚くほど細かった。侯爵は答えをくれなかった。答えの代わりに、彼は大きく息を吐き、その息に乗せるように言葉を継いだ。 「離宮で、しばらく静かに過ごすがよい。誰の目も届かぬ場所だ。薔薇がよく咲く。お前が幼い頃、一度だけ連れて行ったことがある。……覚えておらぬか」  覚えていない、と答えることは、この人に対して何度目の裏切りになるのだろう。私は首を横に振ろうとして、振りきれずに、瞼を伏せた。伏せた瞼の裏に、見たこともない薔薇の庭がぼんやりと浮かんだ気がした。それはきっと、私の記憶ではなかった。たった今、彼の言葉が私の中に植えた、仮初めの景色だった。それでも、私はその仮初めの景色に、小さくしがみついた。父と呼ばれた人が私にくれた、最初の贈り物がそれだったから。  侯爵は、ゆっくりとルシアンの方へ向き直った。 「ルシアン・ヴァイス」 「はっ」 「此度の警護、引き続きお前に任せる。離宮までの道中、離宮に着いてからの日々、すべてだ。――委細、承知しておるな」  ルシアンの返事は、一瞬だけ遅れた。遅れたのは、ほんの呼吸半分ほどだった。けれどその遅れの中に、彼が何を飲み込んだのか、私には見当もつかない。やがて彼は、深く頭を下げた。 「命に、かけて」  命に、かけて。  その四文字が、部屋の空気を打った。打たれた空気が、私の頬にまで届いた気がした。職務、と昨日彼は言った。ここに、おります、と今朝彼は言った。そして今、命にかけて、と。彼の言葉は、少しずつ重さを増している。重さを増しているのに、そのどれもが、私を怖がらせない。怖がらせないのが、なぜか、いちばん怖かった。

 侯爵が退出する時、扉の前で彼は一度だけ振り返った。振り返って、何か言おうとして、結局言わずに出ていった。閉じた扉の向こうで、重い足音が来たときと同じ歩幅で遠ざかっていく。その足音が完全に聞こえなくなるまで、部屋の中の誰も、身じろぎひとつしなかった。  沈黙の中で、私は毛布の縁をそっと握りしめた。  離宮。薔薇の庭。ただの病ではない、と侯爵は言った。近すぎる、とも。近すぎるのは、何にとってなのだろう。遠ざけられる私は、いったい何から遠ざけられるのだろう。問いは次から次へと胸の底で膨らみ、そのどれにも答えは返ってこなかった。答えの代わりに、窓辺に戻ったルシアンの、真っ直ぐな背だけがあった。その背は、先ほどまでより、ほんの少しだけ硬くなっているように見えた。  「ルシアン」  呼ぶと、彼は静かに振り返った。氷の瞳が、朝とはまた違う光をたたえていた。何かを決めた人の目だった。 「……離宮へ、一緒に行ってくれるのね」 「ええ」  短い返事のあとに、彼はほんの少しだけ言葉を足した。足すことを、自分に許したように見えた。 「どこへなりと。お供いたします」  その一言が、胸の奥に静かに降りてきた。降りてきた場所で、昨日からずっと疼いていた名もない何かが、今朝よりも少しだけ、はっきりとした輪郭を持ち始めるのを、私は感じていた。  窓の外で、風が木々を揺らしている。遠くの空には、雲のひとつもなかった。その晴れ渡った空の下、私たちは近いうちに、この部屋を出ていくのだろう。出ていった先の離宮で、何が待っているのか、私にはまだ何ひとつわからない。  ただ、廊下の奥の方で、誰かが馬車の支度を命じる声が、風に乗ってかすかに聞こえてきた気がした。

この話はいかがでしたか?

最新話です

次の更新をお楽しみに!