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追放料理人の兵糧戦記

第3話 第3話

第3話

第3話

馬蹄の音は、夢の底から湧き上がる地鳴りのように、少しずつ確かな輪郭を帯びていった。ユーリが研ぎ石の上で庖丁の刃を最後にひと撫でしたとき、外の闇を裂いて、短い角笛がひと声、陣所の東から吹き鳴らされた。続けて二声、三声。ひとつは長く、ふたつは短い。夜襲を告げる符丁だった。

 バルトが繕いかけの麻袋を投げ捨て、立ち上がった。老いた膝が軋む音が、天幕の中ではっきりと聞こえた。

「来おったか」

 ユーリは庖丁を鞘代わりの麻布に包み、腰に差した。刃はまだ温い。研ぎ終えたばかりの鉄は、掌に馴染むまでに少しの時を要する。その少しの時が、いまはない。天幕の外へ踏み出せば、篝火がすでに半ばまで掻き立てられていた。赤い火の粉が、風に煽られて夜空へ舞い上がり、星のない闇に吸い込まれていく。炎の向こうで、馬のいななきと、誰かの短い悲鳴が、ほぼ同時にあがった。

 兵たちが、痩せた身体を無理に起こしていた。肩当てを付ける手が震え、胸甲の留め金を三度かけ直す若い兵がいた。その兵の唇は、祈りの言葉を刻むように細かく動き、しかし音にはならなかった。ロザリンデはすでに陣の中央で、残る隊をふた組に分けていた。ひと組は土塁の西側、ひと組は北の斜面。声は低く、短い。女騎士の剣はいまだ鞘の中にあったが、鞘を握る左手の指は、骨が浮くほど強く柄頭を押さえていた。

「料理人殿、厨へ」バルトの声が背を押した。「もし火矢が飛んでくれば、狙われるのは兵糧庫だ。焼け残りの樽を、ひとつでも多く、土塁の裏へ運ぶぞ」

 ユーリは頷き、走った。足の裏が霜に凍った地面を踏むたび、骨の髄まで冷たさが上ってくる。息を吸えば、冬の空気が喉の奥を針のように刺し、吐けば白い靄が頬を撫でて後ろへ流れていった。厨の天幕——といっても、柱を四本立てただけの粗末な覆い——の奥には、昼間仕分けたばかりの「生かせる山」が、麻袋ごと積み上げられていた。焦げた麦、煮出せば出汁になる干し肉、灰を被った燻し肉の芯。明日の朝、兵の腹を温めるはずの、ただそれだけのための、ささやかな山だった。指先が一瞬、その麻袋の粗い目に触れた。昼間、自分の手で仕分け、自分の舌で「まだ生きている」と頷いたものたちだった。

 ユーリは最初の麻袋に腕を回し、抱え上げた。麻の繊維が頬に擦れ、干し草に似た匂いが鼻先を掠めた。

 そのとき、頭上を、ひと筋の光が掠めた。

***

 火矢だった。

 鏃の根元に油を染ませた布を巻き、燃え立たせたまま放たれたそれは、風を裂く音よりも先に、眼の端で尾を引いた。一本。二本。三本。夜空の低いところを、赤い筋が何条にも奔り、厨の天幕の帆布に突き刺さった。布は一瞬、火を食い止めるように膨らみ、それから弾けるように燃え上がった。乾いた帆布の焦げる音は、紙を握り潰すのに似ていた。

「退け! 料理人殿、退けっ」

 バルトの叫びが、炎の爆ぜる音に掻き消された。ユーリは抱えた麻袋を一度強く掴み直し、歯を食い縛って後ろへ跳んだ。背中から地面に倒れ込んだ瞬間、肺の奥から空気が押し出され、喉の奥で小さな呻きになった。さきほどまで立っていた場所に、四本目の火矢が突き刺さった。油の炎が飛び散り、積み上げた麻袋の端に舌のように絡みついた。乾いた麻は、待っていたかのように燃えた。

 赤い光が、ユーリの顔を下から炙った。熱よりも先に、匂いが来た。焦げた麦の、二度目の焦げる匂い。焼ける干し肉の、饐えた脂が燃える匂い。煮出せば出汁になるはずだったもの、晒せば粥になるはずだったもの——その全てが、いま黒い煙に変わっていく。喉の奥にその煙が絡みつき、ユーリは一度、強く咳き込んだ。咳き込みながら、舌の付け根で、失われていく味のひとつひとつを数えていた。

 火は、生き物のように走った。麻袋から麻袋へ、樽の縁から縁へ。バルトが水桶を掴み、駆け寄るより早く、炎は厨の覆いを根こそぎ包み込んだ。老兵糧係は水桶を振り上げ、空に向かって叫んだ。言葉にならぬ叫びだった。四十年、袋を担ぎ、樽を見張ってきた男の喉から、獣のような、子どものような、ひとかたまりの声が噴き出した。水桶から零れた水が、老人の肩を濡らし、炎の熱にたちまち蒸気となって立ち上った。

「姫様の炊き出しがっ——!」

 炎の向こうで、ロザリンデが剣を抜き放つのが見えた。銀の刃が火を映し、赤くうねった。女騎士はしかし、厨へは駆けてこなかった。駆けてこられなかった。北の斜面から、黒い影の群れが土塁を乗り越えてきたのだ。敵の夜襲の本隊——否、本隊と見せかけた陽動か、本物の本隊か、闇の中ではまだわからぬ。ロザリンデは剣を振り、短く号令を発した。痩せた兵たちが、それでも槍を構え、斜面に向かって押し出していく。

 ユーリは立ち上がった。炎の熱で、頬の皮が引き攣れるほど熱い。眼の奥が乾いて、涙が出ぬ。睫毛の先がちりちりと縮れ、鼻孔の奥に焦げた毛の臭いが残った。抱えたまま倒れた麻袋を、もう一度引き寄せ、土塁の裏へと引きずった。麻袋の底が凍った土を擦り、ざり、ざり、と低く鳴った。一袋。たった一袋。それだけが、厨から救い出せた全てだった。

 背後で、最後の樽の箍が、熱に弾けて乾いた音を立てた。

***

 戦は、夜明けの前に止んだ。

 敵は、深く攻め込む気はなかったらしい。土塁を半ばまで乗り越えたところで、ロザリンデ隊の槍に三人を討たれ、残る影たちは北の斜面を滑るように退いていった。組織立った退却だった。目的は、最初から兵糧庫を焼くことにあった。首を取るためではなく、胃袋を断つために、敵は来たのだ。

 夜が白み始めた頃、ユーリは焼け落ちた厨の前に立っていた。立っていた、というより、立ち尽くしていた。柱の四本は炭と化し、骨のように黒く空を指していた。足元には、焦げた麦の粒が、踏むたびに砕ける音を立てて広がっていた。麻袋は一枚残らず灰になり、灰の中に、干し肉の塊だった何かが、まだ赤い芯を覗かせてくすぶっていた。

 救い出せたのは、麻袋ひとつ。焦げの下にかろうじて生きていた麦が、ほんの三升ばかり。三千の兵の、ひとりあたり、ひと匙にも満たぬ量だった。

 バルトが、隣に並んだ。老いた兵糧係は、何も言わなかった。言葉を探す素振りすらなかった。ただ、灰の山を見下ろし、しばらくして、鼻の奥で短く息を吸い、吐いた。

「料理人殿」やがて、掠れた声が落ちた。「明日の、朝飯が、無い」

 ユーリは答えなかった。答える言葉を、持たなかった。昨日まで、腐敗寸前の干し肉から出汁を引くと胸を張った舌が、いまはただ、焦げと煙の味ばかりを拾っていた。舌が鋭いほど、いまは苦しかった。焼け落ちた食材の、最期の声を、ひとつずつ拾ってしまうからだ。この麦はあと一刻早ければ粥になれた。この肉はあと半日早ければ汁になれた。——ユーリの舌は、救えなかった命の名を、ひとつずつ呼んでいた。呼べば呼ぶほど、口の中に灰の味が広がり、喉の奥がひりついた。

 ロザリンデが、近づいてきた。剣はすでに鞘に収まっていた。胸甲の継ぎ目から、新しい血が一筋垂れていたが、女騎士はそれに気づいていないようだった。蒼い瞳は、焼け跡を一瞥し、それからユーリの横顔に止まった。その視線は咎めるのでも憐れむのでもなく、ただ、重かった。

「料理人殿」

 ロザリンデの声は、怒鳴りでも、詰問でもなかった。むしろ、問いですらなかった。ただ、名を呼ぶ、それだけの声だった。けれどその一声の底には、昨夜北の斜面で槍を構えた痩せた兵たちの、明日の朝の顔が沈んでいた。

「……明日」女騎士は続けた。「三千の兵に、何を食わせる」

 ユーリは瓦礫の前に膝を折った。膝頭が灰に沈み、ほのかな温みが布越しに伝わってきた。焦げた麦の粒を、指先でひと粒、摘まみ上げた。粒は指の腹で、あっけなく崩れ、黒い粉になった。その黒さの中に、ユーリは何も見ていなかった。昨日、鍋底の焦げに見えていたはずの「まだ生きている魂」が、今朝はもう、どこにも見えなかった。

 宰相に嗤われた舌が、ようやく意味を持ちかけた矢先に、この有様だった。前世の師の言葉が、嘲るように耳の奥で響いた。戦は胃袋で決まる。——ならば、胃袋を焼かれたこの陣は、もう決まってしまったのか。指先の黒い粉を、ユーリはそっと灰の上に落とした。

 立ち尽くすユーリの背に、風が吹き抜けた。冷たい、骨を削るような風だった。

 そのときだった。

***

 右目の奥が、熱を持った。

 熱、というより、ほのかな圧に近かった。眼球の奥、視神経の根のあたりが、内側からそっと押されるような感覚。ユーリは思わず右手で目を覆った。掌の下で、瞼の裏が、ぼんやりと明るんでいた。闇の中に、ひとつの小さな光。その光は、やがて形を取り始めた。円でもなく、線でもない。何かの——文様。

 昨夜、研ぎ石の上で庖丁を鳴らしていたとき、脈打ったあの気配が、いま確かな輪郭を帯びて、ユーリの視界の端に灯ろうとしていた。

 掌を離し、瞬きをした。焼け跡の灰の山が、視界に戻ってきた。けれど、さきほどまでとは、何かが違っていた。焦げた麦の粒のひとつひとつが、輪郭を帯びて、ほんのりと光を纏っているように見えた。錯覚だ——そう思おうとしたユーリの右目の奥で、文様は、もう一度、はっきりと脈を打った。

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