第2話
第2話「薔薇園の星詠み」
# 第2話「薔薇園の星詠み」
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三日目の朝は、右手の痛みで始まった。
星紋が脈打っている。昨夜まで手のひらの中心にとどまっていた銀色の模様が、手首に向かってじわりと伸びていた。指先で触れると、体の奥から小さな針を押し出されるような痛みが走る。
(まだ、二日しか経っていないのに)
わたくしは寝台の上で右手を持ち上げ、朝の光にかざした。手首の静脈に沿って銀色の筋が走り、まるで血管そのものが模様に置き換わったように見えた。銀盤がベッドサイドのテーブルで光を弾いている。磨き残した面に、わたくしの指先が映った。
窓の外で小鳥が鳴いていた。春の朝に似つかわしい、のどかな囀り。けれど右手の脈動が重なるたびに、鳥の声が遠くなる。星紋の痛みは、世界とわたくしの間に薄い幕を引くようだった。
「お嬢さま、おはようございます。朝餉の支度が——」
ルルが扉を開けた瞬間、わたくしは右手を掛け布の下に滑り込ませた。
「おはよう、ルル」
「……お顔の色が悪いです。ちゃんとお休みになれましたか」
「ええ、よく眠れましたわ」
嘘だった。夢は何度も見た。リオンが血を流さない夢、わたくしの肩を抱きしめる夢。だが目覚めるたびに、右手が、少しずつ熱を帯びていた。予言を書き換えた代償が、体に刻まれていく。三日後——いや、今日を含めて、あと一日。明日の夕暮れまでに予言が成就しなければ、わたくしはあの処刑台にのぼる。
ルルが朝餉の盆を運んできた。白磁の皿に載った焼きたてのパンと蜂蜜、それに温かなハーブの茶。パンの表面がきつね色に焼けて、蜂蜜の甘い匂いが鼻先をくすぐった。ルルの淹れる茶は、いつも少し薄い。けれど今朝は、その薄さが喉に優しかった。
「あの、お嬢さま」
「なあに」
「薔薇園に、見知らぬ方がいらしているんです。朝から、ずっと」
ティーカップを持つ手が止まった。白磁の縁に触れていた指先が、かすかに震えた。
「見知らぬ方?」
「黒い髪の、綺麗な女の方です。侍従に名を聞かれても、『星の客だ』とだけ。追い返そうとしたんですが、その……衛兵が、なぜか動けなくなって」
衛兵が動けなくなる。星詠みの威圧か、あるいは——。わたくしはティーカップを静かに置いた。カップの底に残った茶葉が、渦を巻いている。予兆を読むつもりはなかったが、嫌な形に見えた。
「ルル、着替えを」
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薔薇園の空気は、朝露と花弁の匂いに満ちていた。春の盛りの薔薇は、白、淡紅、深紅と咲き乱れ、露を含んだ花弁が陽光を散らしている。足元の石畳は夜の雨で濡れていて、わたくしの靴が踏むたびに、ぴちゃりと小さな音を立てた。けれど今朝、その甘い香りの奥に、別の気配が混じっていた。冷たい、けれど鋭い。星を読むときに銀盤から立ちのぼる、あの匂いに似ている。
園の中央、噴水の縁に、その女性は腰かけていた。
黒い髪が腰まで流れ、陽光の中で青みを帯びて揺れている。瞳は金色——星詠みの血筋に稀に現れる亜種の証。黒いレースの手袋が、両手を覆っている。年の頃は二十代後半。纏う衣裳は王宮付きの術師の正装だった。噴水の水音が、彼女の周りだけ不自然に静かだった。まるで水までもが息を潜めているように。
「あら。ようやくお出ましね、小さな星詠み」
女性は微笑んだ。微笑みの形は完璧だったが、目の奥に温度がなかった。
「……名を伺ってもよろしくて」
「セレスティア・ルミエール。あなたのおばあさまの、最後の弟子よ」
足が止まった。祖母の弟子。星詠みの訓練を、祖母から直接受けた者がいたことは知っていた。けれどその名は、家の記録から消されていたはずだ。
「記録を探しても無駄よ。おばあさまが狂われた後に、わたくしの名は宮廷の命令で抹消されたの。——でも、血は消せないし、力も消えない」
セレスティアが噴水の縁から立ち上がった。黒い裾が石畳を掃く。わたくしの方へ、ゆっくりと歩いてくる。薔薇の棘を避けるように、しかし棘など恐れていないように。近づくにつれ、彼女の纏う空気の冷たさが肌に伝わってきた。春の朝だというのに、腕に鳥肌が立った。
「あなたが処刑台でなさったこと、見ていたわ。予言の書き換え。三代に一度の異例、だったかしら?——いいえ、違うわね。あれは異例ではなく、禁忌よ」
「存じていますわ。だからわたくしは、自分の命を——」
「代わりに差し出した。ええ、ええ。立派なことだわ」
セレスティアの声には、からかいとも感嘆ともつかない響きがあった。金色の瞳が、わたくしの右手を見つめている。掛け布の下に隠した星紋を、まるで透視するように。
「星紋が動いているでしょう。手のひらから、手首に向かって」
わたくしは答えなかった。答える必要がなかった。この女性には見えている。
「予言の書き換えには代償がある。あなたのおばあさまはそれを知っていて、それでも掟を作った。『予言は必ず成就させよ』と。あの掟は、星詠みを守るためのものだったのよ。書き換えの代償から」
「……何が仰りたいのですか」
「簡単なことよ」
セレスティアが、わたくしの正面で足を止めた。薔薇の香りの中に、彼女の体温が混じった。冷たい。生きている者の温度とは思えないほど。背後の噴水が、ちょろちょろと控えめな音を取り戻した。
「その罰を、わたくしが代わりに受けてあげましょうか?」
息が詰まった。代わりに受ける——そんなことが、できるのか。
(この人は、何者なの)
「星詠みの代償は、星紋を通じて体に蓄積される。けれど、星紋は移せるの。わたくしには、その術がある。あなたのおばあさまから、最後に教わったことだから」
黒い手袋の指先が、わたくしの右手に向かって伸びた。指先の爪が黒く塗られていて、薔薇の棘のように尖っている。わたくしは一歩退いた。靴の踵が濡れた石畳に滑りかけた。
「——なぜ、見ず知らずのわたくしを助けるのです」
「見ず知らず?」セレスティアが、小さく笑った。「わたくしは、あなたが生まれた日を知っているわ。満月の夜、銀盤が割れた夜。あなたのおばあさまが最後に正気だった夜」
言葉が、喉に刺さった。祖母の最期。わたくしの誕生。その二つが重なっていたことは、父からも聞かされていない。胸の奥が冷える。知らされなかった事実が、星紋の痛みとは別の形で体を蝕んだ。
「それに」セレスティアの声が、一段低くなった。「わたくし、あなたのお母さまとは、古い友人だったの」
「——母を、ご存じなのですか」
「ええ。知っているどころではないわ。あの人は、わたくしの——」
そこで、セレスティアの言葉が切れた。薔薇園の入り口に、人影が現れたからだ。
赤毛、碧眼。剣帯を腰に提げた青年が、やや早足で石畳を踏んできた。リオンだった。朝の光を背に受けて、赤毛が銅のように輝いている。
「アイリーンさま。朝から薔薇園にいらっしゃると、ルルさんから聞きました。——護衛の申請が通りました。今日から正式に」
リオンの視線が、セレスティアに移った。わずかに目を細める。騎士の本能が、目の前の女性の異質さを嗅ぎ取ったのだろう。彼の右手がさりげなく剣の柄に近づいた。
「こちらは?」
「セレスティア・ルミエールと申します。王宮付きの星詠みよ。——あら、あなたが、あの処刑台の騎士?ずいぶんと、お元気そうね」
セレスティアの視線がリオンの左手に留まった。火傷の跡を、金色の瞳が舐めるように見つめる。リオンが無意識に左手を引いた。
「アイリーンさま、この方は——」
「大丈夫ですわ、リオン。ただのご挨拶です」
大丈夫ではなかった。けれど、リオンの前で動揺を見せるわけにはいかない。この人の碧眼は、わたくしの内側を読むのが上手すぎるから。
セレスティアが、ふっと微笑んだ。
「そう。ただのご挨拶。——では、わたくしはこれで。ファルネーゼの小さな星詠み、わたくしの申し出は、いつでも受けられるわ。星紋が肘を超える前に、考えてちょうだいね」
黒い裾を翻し、セレスティアが薔薇園を去っていく。その背中に、朝の陽が落ちて、影が長く伸びた。彼女が通り過ぎた場所の薔薇が、まるで身を引くように花弁を閉じかけていた。
去り際、すれ違いざまに、彼女はわたくしの耳元で囁いた。声は甘い香水の匂いを纏っていたが、言葉は氷だった。
「——あなたのお母さまも、同じことをなさったのよ」
足が、凍った。
振り返ったとき、セレスティアの背中はもう薔薇園の奥に消えていた。残されたのは、薔薇の香りと、母の名前と、答えの出ない問いだけだった。
「アイリーンさま? 顔色が——」
「なんでもありませんわ」
わたくしは、震える右手を背中に隠した。星紋が脈打っている。母も、同じことをした。予言を書き換えた。では——母は、その代償を、どう払ったのだろう。
噴水の水音が、ようやく元の勢いを取り戻していた。けれどわたくしの耳には、セレスティアの囁きだけが、いつまでも残っていた。
答えを知っているのは、あの金色の瞳の女だけだった。