第23話
第23話「騎士の誓い」
# 第23話「騎士の誓い」
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ユリアン様との間で、初めて意見が割れた。 影の郵便局の夜から一週間。マリーヌを通じた手紙のやり取りが続いていた。監査院への文書提出の手順について、二人で手紙を交わした。ユリアン様は三通目で、具体的な提案を書いてきた。
『エメラ嬢。監査院に文書を渡す前に、ある程度の政治的な地固めが必要です。監査院は独立機関ですが、院長は王家が任命します。文書を渡した瞬間に揉み消される可能性を排除しなければなりません。 私の提案は、まず騎士団内の信頼できる同僚に事情を打ち明け、騎士団として監査院に圧力をかけられる体制を作ることです。副団長の職務停止中の私では動きに限界がありますが、私を信じてくれる団員は何人かいます。彼らを通じて、監査院が文書を受理し、正式な調査を行うよう働きかけます』
手紙を読み終えたとき、胸の中で何かがざわついた。ユリアン様の提案は合理的だ。監査院が文書を受理しても、調査が行われなければ意味がない。政治的な裏工作は必要かもしれない。けれど—— 返事を書いた。
『ユリアン様。あなたの提案は理解できます。けれど、私は反対です。 騎士団の同僚に事情を打ち明ければ、文書の存在を知る人間が増えます。知る人が増えれば、漏洩の危険も増えます。ヴァルター卿の耳に入れば、文書は武器として使われます。あなたの味方だと信じた人間が、ヴァルター卿側だったら—— それに、この文書を「圧力」のために使うことに、私は同意できません。母は真実を守るために文書を作りました。圧力の道具にするためではなかった。文書を政治の道具にした瞬間、母の行為の意味が変わってしまいます。 ただ監査院に渡す。それだけでいい。あとは監査院の判断に委ねる。結果がどうであれ、文書を正しい場所に届けたという事実は残ります。母がこの文書を封印棚に預けたのと同じように。正しい場所に、正しい手順で、預ける。 ——あなたの手紙を待つ人より』
手紙を折り、封筒に入れた。封をしながら、自分の指先が震えているのに気づいた。ユリアン様に反対するのは初めてだった。手紙の中でも、声の中でも。いつも私はユリアン様の言葉を受け入れてきた。助けを求め、守ってもらい、導いてもらった。でも今回は違う。母の文書の使い方は——母の意志に関わることだ。譲れない。 封筒をマリーヌに託した。マリーヌは封筒を受け取るとき、少しだけ眉を上げた。「急ぎ?」と聞かれ、「急ぎです」と答えた。マリーヌは頷き、文書袋に滑り込ませた。 返事はその夜のうちに来た。マリーヌが夕方に届けてくれた封筒の中に、ユリアン様の筆跡があった。いつもの端正な字。けれど行間が狭い。考えながら書いている証拠だ。
『エメラ嬢。あなたの言うことは正しい。文書を圧力にすべきではない。 しかし現実的に、監査院に渡すだけで調査が行われる保証はありません。不正の当事者が権力を持っている以上、文書を握りつぶされる可能性は高い。正しい場所に正しい手順で預けた結果、何も起きなかったら——お母上の犠牲は無駄になりませんか』
ペンを握った。手が震えた。怒りではない。悲しみでもない。ユリアン様の言葉が正しいかもしれないと思ったから震えた。 母の犠牲が無駄になる。その可能性を、私は考えていなかった。いや、考えないようにしていた。正しい場所に預ければ正しい結果が出ると信じたかった。母が文書を守ったように、文書が真実を守ると信じたかった。 けれど現実は手紙の中の世界ほど綺麗ではない。手紙の中では言葉は正確に届く。書いた通りに読まれる。でも現実の世界では、文書を正しい場所に預けても、正しく読まれる保証はない。読む者の都合で、文書は紙屑にもなる。 台所で皿を洗いながら考えた。水音が思考を邪魔しなかった。むしろ水の流れに沿って思考が動いた。皿の汚れを落とすように、考えの表面を洗い流していく。 便箋の上でペンが止まったまま、長い時間が過ぎた。蝋燭が短くなっていく。窓辺のタイムの蕾が、蝋燭の灯りに照らされて小さな影を壁に落としていた。蕾の影は蕾より大きい。光の角度で、小さなものが大きな影を持つ。 ユリアン様の提案は、結果を確実にするための手段だ。私の主張は、手段の正しさを守るための拘りだ。どちらが正しいのか。結果と手段のどちらを優先するのか。 母のことを考えた。母は結果を選ばなかった。文書を作ったが、それを使って告発はしなかった。封印棚に隠し、正しい場所に預け、あとは時間に委ねた。母は手段の正しさを選んだ人だった。 でも母の選択の結果、文書は十年以上も金庫に眠り続けた。不正は裁かれなかった。母は死に、父は死に、私は叔父の家で厄介者になった。母の「正しい手段」は、何も変えなかった。 その事実が、胸に重かった。 ベッドに横になった。天井の木目を見つめた。母の顔を思い出そうとした。優しい顔。すみれの香水。小さくまっすぐな字。でも母の表情は思い出せなかった。二年前の記憶は、輪郭がぼやけ始めている。母は笑っていたのか。後悔していたのか。金庫に文書を隠したとき、母は何を思っていたのか。 わからない。母に聞くことはもうできない。母の代わりに、私が決めなければならない。
翌日、マリーヌを通じて返事を送った。
『ユリアン様。昨夜、考えました。あなたの言葉は正しいです。母の犠牲が無駄になる可能性を、私は見ないふりをしていました。 けれど、やはり文書を政治の道具にはしたくない。母が選んだ道と同じ道を、私も選びます。結果がどうであれ。 ただし、あなたの提案の中で一つだけ受け入れたいことがあります。監査院への提出を、あなた一人ではなく、二人で行いたい。ユリアン・フェルネ副団長と、エメラ・リルティングの連名で。騎士団の公人と、文書の正当な所有者の連名であれば、監査院も無視しにくいはずです。 これが私の妥協点です。あなたの妥協点はどこですか。 ——あなたの手紙を待つ人より』
返事は翌朝、マリーヌの文書袋に入っていた。
『エメラ嬢。了承します。連名での提出。それが最善です。 一つだけ。あなたの妥協を妥協と呼ぶのは適切ではありません。あなたは「文書を政治の道具にしない」という原則を守りつつ、「結果を出すための現実的な手段」を受け入れた。それは妥協ではなく、判断です。 あなたの判断を、信頼します。 監査院への手続きに必要な時間は一週間ほどです。その間に、影の郵便局から文書を安全に移す手順を整えます。 ——ユリアン・フェルネ 追伸。タイムの花が咲きましたか。私の庭のタイムは満開です。小さな紫の花が、葉の間から顔を出しています。匂いが変わりました。葉のときとは違う、甘い、清涼な香りです。あなたの窓辺にも、もうすぐ同じ香りが届くはずです』
手紙を三回読み返した。一回目は内容を。二回目は言葉の選び方を。三回目は行間を。ユリアン様は私の判断を「信頼する」と書いた。信頼。この言葉は、護りの印と同じくらい重い。信頼は、誰かの判断を自分の判断として受け入れるということだ。ユリアン様は自分の意見を曲げたのではなく、私の判断を自分のものとして引き受けた。 窓辺のタイムを見た。 咲いていた。 朝の光の中で、ごく小さな紫色の花が一つ、茎の先端に開いていた。昨日はまだ蕾だった。今朝、一輪だけ、ひっそりと咲いた。花弁が四枚。唇の形に似ている。小さいのに、はっきりとした色を持っている。 鼻を近づけた。ユリアン様が書いた通りだった。葉の香りとは違う、甘く清涼な香り。涼しさの中に温かさがある、不思議な匂い。タイムの花の香り。ユリアン様の庭でも同じ香りがしているのだ。離れていても、同じ花が咲き、同じ香りがしている。 手紙と花と香り。三つのものが、離れた二人を繋いでいた。 送れない手紙を書くのは、もうやめた。十四通の束は枕の下に眠ったまま。いつか渡す。でも今は、送れる手紙を書くことに集中する。監査院への提出。叔父との対峙。全てが動き出す。 タイムの花に指先で触れた。花弁が柔らかく揺れた。騎士団の庭園でユリアン様がタイムの葉を一枚摘んでくれた日を思い出す。「タイムは勇気の象徴です」。あの日のユリアン様の声が耳の奥に残っている。 一週間後、文書を監査院に持っていく。ユリアン様と連名で。母が始めた道を、私たちが歩き終える。 この花が満開になる頃、全てが終わっているだろうか。それとも、まだ始まりの途中だろうか。どちらであっても、私は手紙を書き続ける。それだけは変わらない。