第21話
第21話「返事のない朝」
# 第21話「返事のない朝」
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手紙を送って三日が経った。 マリーヌに手紙を渡した朝のことを覚えている。仕立て屋の裏口は生地の染料の匂いがして、赤や青の布切れが足元に散らばっていた。マリーヌは封筒を受け取り、中身を聞かず、ただ「わかったわ」と言った。封筒を革の文書袋に滑り込ませ、袋の口を紐で縛った。父の文官用の袋だ。騎士団への定期連絡便に紛れ込ませる。追跡される心配はない。 「届けるわ。必ず」 マリーヌの琥珀色の瞳に迷いはなかった。この人は一度も私の秘密の中身を聞こうとしない。知らないほうが安全だと理解しているのか、それとも、聞かなくても信じてくれているのか。どちらにしても、ありがたかった。 それから三日。返事はない。 一日目は平気だった。手紙が届くまでに一日かかる。読んで考える時間が要る。あの内容だ。すぐには返せないだろう。理解していた。 二日目から、胸の奥がざわつき始めた。ユリアン様は読んだだろうか。読んで、何を思っただろうか。怒っただろうか。失望しただろうか。それとも——返事を書けないほど困惑しているのだろうか。 三日目。朝から落ち着かない。台所で皿を洗いながら、何度も窓の外を見た。洗った皿を拭く手が止まる。水滴が皿の表面を伝って、白い陶器の上に小さな川を作った。その川筋を目で追いながら、別のことを考えている。影の郵便局経由ではない。マリーヌ経由でもない。ユリアン様の信頼できる使者がこの家に来るとすれば、勝手口だ。最初の夜と同じように。でも勝手口には誰も来なかった。 午前中、庭に出て洗濯物を干した。濡れたシーツが風を受けて膨らみ、白い帆のように広がった。シーツの向こう側が見えない。その白い壁の向こうに、ユリアン様がいるような気がした。馬鹿げた想像だと知りながら、シーツの端をめくって庭を覗いた。誰もいない。庭の薔薇が赤く咲いているだけだった。 叔母の無視は続いている。もう五日目だ。食卓の空気は鉛のように重く、リゼットだけが場を繋ごうと必死に話題を探している。「今日の空、きれいだったね」「市場に新しい果物屋ができたの」。誰も応えない。リゼットの声が食卓に落ちて、テーブルクロスに吸い込まれて消えた。 セレナはあの夜以来、少しだけ変わった。変わったと言えるほどの変化ではない。廊下ですれ違うとき、視線がほんの一瞬だけ長く留まる。それだけ。でも以前のように目をそらすのではなく、一瞬だけ見て、小さく頷いてから通り過ぎる。あの夜の涙が、二人の間に見えない橋を架けたのかもしれない。
三日目の午後、影の郵便局に行った。 手紙の確認ではない。老郵便夫に会いたかった。あの人は待つことを知っている。何十年も、届くかわからない手紙を守り続けてきた人だ。待つことの先輩に、今の私の落ち着かなさを聞いてもらいたかった。 路地を歩いた。石畳に初夏の陽が照りつけて、壁の蔦が青々と茂っている。路地の角を曲がるたびに、日陰と日向が交互に訪れた。日向は暑く、日陰は涼しい。その温度差が肌にはっきり感じられた。 影の郵便局の扉を押した。紙の匂い。インクの匂い。時計の音。いつもと同じ。カウンターの向こうに老郵便夫が座っていた。今日は体調がいいらしく、背筋がいつもより伸びている。手元で何か書いていたが、私を見て筆を止めた。 「嬢ちゃん。珍しいな、用もなしに来るなんて」 「用がないわけではないんですが……手紙を待っているんです。返事が来なくて」 「ああ」 老郵便夫が皺だらけの目を細めた。わかっている、という顔だった。 「返事を待つのは苦しいかい」 「苦しいです。三日しか経っていないのに、三ヶ月くらいに感じます」 「そうだろうな。この局をやっていると、返事を待つ顔を何百も見てきた。みんな同じ顔をする。顔色が悪くなって、目の下に隈ができて、唇が乾く。あんたも今そうだ」 無意識に唇を舐めた。確かに乾いていた。 老郵便夫が椅子の下から木箱を引き出した。中には古い封筒が何通か入っていた。 「見てごらん。これは先代の局長が保管していた、返事を待ち続けた手紙だ。差出人はとっくに亡くなっている。受取人も。でもこの手紙は、まだ返事を待っている」 封筒を一通、手に取った。紙は黄ばんで、端が朽ちかけている。差出人の名前は読めないほどインクが薄れていた。宛名だけがかろうじて残っている。知らない名前。知らない時代の、知らない人の手紙。 「返事が来なかったんですか」 「来なかった。でも、この手紙は書かれた。それだけで意味がある。返事があろうがなかろうが、言葉を紙に託したという事実は消えない」 封筒を木箱に戻した。古い紙の匂いが指先に残った。 母の手帳を思い出した。母もまた、返事を待っていたのかもしれない。金庫に文書を隠したとき、母は誰かが来るのを待っていた。いつか誰かがこの鍵を見つけて、この金庫を開けて、この真実を世に出すのを。 その「誰か」が私だった。母は返事を受け取れなかった。けれど手紙は届いた。何年もかかったけれど。 「おじいさん。母も、ここで返事を待ったことがありましたか」 老郵便夫が少し黙った。椅子の肘掛けを指で叩きながら、記憶を辿っている。 「あったよ。リーネが文書を預けた日の翌朝、この店に来て、カウンターの前に立って——何も言わなかった。ただ立っていた。わしが『どうした』と聞いたら、『正しいことをしたのか、わからなくなった』と言った。それから毎日のように来た。一週間。毎日来て、カウンターの前に立って、何も言わずに帰った。八日目に来なくなった。次に来たのは一ヶ月後だ。そのときは笑っていた。『答えが出ました』と言って。何の答えかは聞かなかった」 母。カウンターの前に立ち尽くす母。何も言わずに帰る母。一ヶ月の沈黙の後に笑って戻ってきた母。 私は今、母と同じ場所に立っている。同じカウンターの前で、同じように返事を待っている。 「おじいさん。もう少しだけ、ここにいてもいいですか」 「好きなだけいなさい。ここはそういう場所だ」 カウンターに肘をついて、しばらく老郵便夫の仕事を眺めていた。古い手紙の仕分け。封筒の状態確認。一通ずつ丁寧に扱う手つき。何十年もこの作業を繰り返してきた手。節くれ立って、インクの染みが消えない手。 時計が三時を打った。帰らなければ。台所の仕事が残っている。叔母に無視されていても、仕事は免除されない。 「行きます。おじいさん、ありがとうございます」 「返事は来るよ、嬢ちゃん。あの若い騎士は、返事を書かない男じゃない」 老郵便夫の声が、背中を押してくれた。 路地を出た。王都の大通りに出ると、午後の人波に飲み込まれた。果物売りの声。馬車の車輪。子供たちの笑い声。みんな自分の日常を生きている。返事を待つ苦しみなど知らずに。いや、この中にも返事を待っている人がいるのかもしれない。すれ違う人の顔を見た。みんな、何かを待っている顔に見えた。
屋敷に戻り、台所に立った。夕食の仕込み。じゃが芋の皮を剥き、人参を切り、肉に塩を揉み込んだ。包丁がまな板を叩く音が規則正しく響いた。手を動かしている間だけ、待つ苦しさが少し和らいだ。 窓の外が橙色に染まった。夕暮れ。もう一日が終わる。返事のない四日目が来る。 屋根裏に戻り、母の手帳を開いた。最後のページ。「あの文書は必ず守らなければ。エメラのために。この国のために。鍵は——」。途切れた文章。母はこの先に何を書こうとしたのだろう。「鍵は封印棚の金庫のもの」とでも書こうとしたのか。それとも別のことを。 母の筆跡を指でなぞった。すみれのように小さく、まっすぐな字。最後のページだけ、少し震えている。書いている途中で手が止まったのだろう。母の手が止まった場所を、私の指がなぞっている。時間を超えて、母と私の指が同じ場所に触れている。 窓辺のタイムを見た。蕾の紫が、夕日の残照で深い色に見えた。もうすぐ咲く。あと何日だろう。花が咲いたとき、返事は届いているだろうか。 送れない手紙を一通、書いた。十四通目。
『ユリアン様。返事を待っています。怖いけれど、待っています。母もこの場所で待ったそうです。同じカウンターの前で。私は母の娘です。待つことを、知っています。——あなたの手紙を待つ人より』
枕の下にしまった。明日も待つ。明後日も。返事が来るまで、待ち続ける。 眠る前に、窓の外の空を見た。雲が薄く月にかかり、淡い光の輪を作っていた。ユリアン様も、同じ月を見ているだろうか。騎士団の宿舎の窓から、あるいは書斎の窓から。同じ月を見ているなら、紙がなくても光で繋がっている。 そう思うことにした。