第19話
第19話「選択の手紙」
# 第19話「選択の手紙」
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二十三枚の帳簿写しが封印棚の金庫に眠っている。その重さが、首に下げた鍵を通じて胸の上に乗っている。 影の郵便局から戻って三日が経った。屋根裏の小窓から見える空は初夏の青で、窓辺のタイムの蕾が日に日に膨らんでいく。蕾の先端に紫色がうっすら滲み始めていた。花が咲くまで、あと少し。 けれど私の中は凍りついたままだった。 枕の下の送れない手紙の束を取り出した。十二通。手紙を控え始めてから書き溜めた十二通。全てユリアン様宛て。日付と、その日の出来事と、伝えたかった言葉が詰まっている。インクの匂いが、束のどこからでもした。 十三通目を、書かなければならない。 これまでの十二通とは違う。送れない手紙ではなく、送らなければならない手紙。二十三枚の文書のことを、ユリアン様に伝える手紙。 十二通の手紙を順に開いた。一通目は手紙を控え始めた日の夜に書いたものだ。文字が小さく、行間が詰まっている。書きたいことが溢れて、便箋一枚に収まらなかった。五通目あたりから文字が大きくなり、行間が空いた。書くことが減ったのではない。言葉の力を抜くことを覚えたのだ。力まなくても、ペンは動く。 それでも十三通目の前では、すべてが白紙に戻る。
ペンを取った。便箋を一枚、机に広げた。白い紙面が蝋燭の灯りに照らされて、ほのかに黄色みを帯びている。インク壺の蓋を開けると、鉄の匂いがした。いつもと同じインク。いつもと同じペン。なのに一文字も書けない。 ペン先が紙面に触れて、そのまま止まった。インクの滴が丸い染みを作った。 ユリアン様は騎士だ。王家に仕えている。王家の財務不正の記録を——その存在を知れば、彼は二つの忠義の間に立たされる。王家への忠誠と、正義への忠誠。どちらも捨てられない人だ。この文書は、彼の立場をさらに危うくするかもしれない。ヴァルター卿に告発され、副団長の職を停止されている今の状態で、王家の不正文書を知れば—— 隠し続けることもできる。文書の存在を伏せたまま、ユリアン様との関係を続けることも。 でもそれは嘘だ。 手紙は嘘をつけない場所だと、ずっと思ってきた。紙の上の私は、声の私より正直だった。手紙の中で嘘をついたら、紙の上の私まで嘘になる。残るのは、嘘をつく声と嘘を書く手だけだ。何も信じられるものがなくなる。 便箋を破った。くしゃりと丸めて、床に落とした。 二枚目を広げた。書き出しを変えた。「ユリアン様。お伝えしなければならないことがあります」——堅すぎる。ユリアン様に通達を出すのではない。三枚目。「母の秘密の続きを書きます」——違う。これは母の秘密ではない。今は私の選択の問題だ。 四枚目。五枚目。六枚目。書いては破り、破っては書いた。床に紙の残骸が散らばった。白い紙片が蝋燭の灯りを受けて、雪のように見えた。初夏の屋根裏に降る偽の雪。 七枚目で手が止まった。何も書いていない便箋を、しばらく見つめた。ペンを置き、椅子の背にもたれた。屋根裏の天井の梁が低く、頭のすぐ上に暗い木目が見える。この天井を毎晩見上げてきた。二年間。その二年間のすべてが、この一通の手紙に集約されようとしている。 手紙は怖い。声は消える。でも手紙は残る。紙の上に書いた言葉は取り消せない。ユリアン様がこの手紙を読めば、もう知らなかった時には戻れない。その瞬間から、彼は共犯者になる。王家の不正を知る共犯者に。 それを望んでいいのだろうか。ユリアン様を巻き込む権利が、私にあるのだろうか。 母のことを考えた。母も同じ選択を迫られたのだろう。父に打ち明けるか、一人で抱えるか。母は一人を選んだ。正直すぎる父が公にしようとするのを恐れたから。母は父を守るために嘘をついた。その嘘が、鍵を遺品箱の底に眠らせた。 私は母と同じ道を選ぶのか。それとも、違う道を行くのか。 窓辺のタイムに目をやった。蕾の紫が、蝋燭の灯りでは見えない。暗がりの中で、タイムの輪郭だけが小窓の外の空を背景に浮かんでいた。ユリアン様がくれた種。水をやり、日に当て、話しかけて育てた。この蕾は私一人のものではない。ユリアン様と私の、二人の時間が育てたものだ。 二人の時間。 二人の関係は、最初から「全部を渡す」ことで始まった。匿名の手紙の差出人が正体を明かしたあの夜。ユリアン様は嘘を終わらせるために、自ら名前を告げた。私も、手紙の中で少しずつ自分を開いていった。母のこと。叔父のこと。社交界の棘のこと。全部渡してきた。 渡していないのは、これだけだ。二十三枚の真実。最後の一つ。 これを渡さなければ、私たちの手紙は、どこかで嘘を孕んだまま続いていくことになる。紙の上の私が嘘をつく。それは、紙の上の私が死ぬことと同じだ。 八枚目の便箋を広げた。 書き始めた。今度は止まらなかった。ペン先が紙を走る音だけが屋根裏に響いた。鋼のペン先が繊維を引っ掻く、さらさらという小さな音。この音を、私は好きだった。手紙を書くときだけ聞こえる音。世界で私だけが聞いている音。
『ユリアン様。 この手紙を書くのに、七枚の便箋を無駄にしました。床に白い紙片が散らばっています。雪みたいです。初夏の屋根裏に降る雪を見ながら、怖くて、書けませんでした。 けれど書かなければ、私はあなたに嘘をつくことになります。手紙の中で嘘をつくくらいなら、書くのをやめたほうがいい。でも書くのをやめるくらいなら、怖くても本当のことを書くほうがいい。 影の郵便局の封印棚の奥に、母が隠した金庫があります。首に下げていた銀の鍵は、その金庫の鍵でした。金庫の中には、母が宮廷侍女時代に写し取った、王家の財務不正の記録が入っていました。二十三枚の帳簿写しです。赤い墨で不正の箇所が印をつけてあります。 この文書を握る者は、宮廷で大きな力を持てると老郵便夫は言いました。嵐の夜の男が探していたのは、この文書です。宮廷の調査も、おそらくこの文書に関わっています。 あなたにこれを伝えることが正しいのか、わかりません。あなたは王家に仕える騎士です。この文書を知れば、あなたの立場はもっと危うくなるかもしれません。 でも、あなたに隠し続けることはできません。あなたが護りの印の蝋印で「あなたの秘密を守る」と誓ってくれた日から、私は全部を渡すと決めていました。七枚の便箋を破ってようやく、その覚悟にたどり着きました。 この文書をどうするか。一人では決められません。一緒に考えてください。 ——あなたの手紙を待つ人より 追伸。窓辺のタイムに蕾がつきました。紫色です。あなたの庭のタイムと、同じ色だといいと思います。』
書き終えたとき、蝋燭が半分まで減っていた。指先がインクで汚れている。右手の小指の染みが、さらに濃くなった。 便箋を折り、封筒に入れた。封蝋はない。私にはフェルネ家の蝋印もなければ、リルティング家の紋章を使う資格もない。ただの白い封筒に、ただの文字で宛名を書いた。「ユリアン・フェルネ様」。 宛名を書いた自分の字を見た。母の字に似ている。すみれのように小さく、まっすぐな字。老郵便夫がそう言った。母から受け継いだものは、鍵と手帳だけではなかった。この字も。言葉を紙に託す性分も。 封筒を枕の下にしまった。送れない手紙の束の一番上に。 けれどこの手紙は、明日、送る。マリーヌに頼もう。あの日、蔦の影に人の気配を感じた東屋ではなく、別の場所で渡す。マリーヌの父は宮廷文官で、騎士団への連絡経路を持っているはずだ。あるいは老郵便夫の秘密の経路を使えるかもしれない。手段は考える。でもこの手紙は、送らなければならない手紙だ。 蝋燭を吹き消した。暗闇の中で、窓辺のタイムの輪郭がぼんやりと浮かんでいた。蕾は闇の中でも膨らみ続けている。 明日、この手紙を送ったら、もう後戻りはできない。老郵便夫が最初に言った言葉を思い出す。「返事を出したら、もう後戻りはできないよ」。あの日から、私はずっと後戻りできない道を歩いてきた。もう一歩。あと一歩だけ、進む。 目を閉じた。枕の下の手紙の束が、頭の重みで少し潰れた。十三通分の言葉の厚み。その一番上にある手紙が、明日、ここを離れていく。 屋根裏の闇の中で、一つだけ確かなことがあった。ユリアン様が返事をくれるまでの時間は、おそらくこれまでで最も長い待ち時間になる。その間、私は自分の選択と向き合い続けなければならない。怖い。けれど、手紙を書けなかった七枚分の怖さよりも、八枚目を書いた後の怖さのほうが、ずっとましだった。