第3話
第3話
水が滴る音の拍に、異質なものが混じった。
六つ数える間に一度──それが、この地下で唯一確かな時を刻む音だった。窓はなく、昼夜の別は衛兵の交代でしか測れない。それも二度過ぎた。三度目の夜である。明日の朝が、処刑の朝であるはずだった。
いま、水滴の合間に別の音が差し込まれている。履物だ。石畳を打つ衛兵の鉄鋲入りの靴音ではない。もっと軽い、布底の沓が石を擦る音。
私は鉄格子の方に目だけを向けた。衛兵の鼾は止まっていない。この地下に下りてきているのは、衛兵の交代ではない。
足音は、通路の奥へ進んでくる。途中で一度、二度、壁を伝うように止まり、また歩を刻んだ。慣れない者の歩き方だった。燭台の油の匂いが、わずかに濃くなる。持ち手のある火を、誰かがこちらへ運んできている。
やがて鉄格子の向こうに、小柄な影が立った。
薄紅の襦裙。肩の線が細い。歳は十七、八──私よりいくつか若い。片手に燭台を掲げ、もう片方の手で胸元を押さえている。顔は覚えていた。弁明の場で読み上げられた三人の証言者ではない。だが麗華様の居室で幾度か見かけた顔だった。麗華様の衣の裾を最も近くで整える侍女。紅玉、と呼ばれていた。
「翠蘭さん」
声は細かった。ただ、震えてはいなかった。眠っている衛兵の方を一瞥してから、紅玉は鉄格子に一歩近づいた。燭台の炎が格子の影を壁に長く引き伸ばす。
「麗華様が、お目覚めになりました」
最初の一言を、私は内側で二度なぞった。目を覚ました。生きておられる。喉の奥で、何かが熱く詰まる。けれど口に出したのは別の問いだった。
「症状は」
紅玉の目が、かすかに揺れた。
---
「唇の色は戻りました。痙攣も止みました。声は、まだ掠れておいでです」
紅玉は燭台を床に置き、膝をついた。石の冷たさに一瞬だけ眉が寄る。湿気を吸った裾が、すぐに色を濃くした。
「けれど──」
そこで、声が一度詰まった。
「昨夜遅く、もう一人、倒れられた方がいます」
水の滴る音が、ひときわ大きく響いた気がした。
「どなたが」
「常在の、春玲様です」
聞き覚えのない名だった。後宮の序列で言えば麗華様より三段ほど下。寵妃ほどの位ではないが、末席侍女の目にはめったに触れない高みにいる。私の知らない場所で、私の知らない女人が倒れた。その事実だけが、先に冷たく腹の底に落ちた。
記憶の中の後宮の廊下を、一筋ずつ辿ってみる。茶房から春玲様の居室までの距離。麗華様の居室との位置関係。廊下を共にする刻限があるとすれば、いつの、どの刻か──頭の中で、まだ形にならない地図を引こうとする。引こうとして、白く霞む。私の見ていた後宮は、麗華様の衣の裾までの範囲でしかなかった。
「症状は」
繰り返した。紅玉は一度唾を呑み、呼吸を整えてから答えた。
「唇が、紫に染まりました。それから四肢の震え。呼吸が浅くなられて──麗華様のときと、同じです」
同じ、という一語を、紅玉は囁くように置いた。その一語が、石壁の底に沈んで、水滴と同じ拍でゆっくり輪を描いてゆくようだった。
私は膝の上で指を折った。同じ症状。しかし違うのは、昨夜遅くに倒れたということだ。私はこの石壁の内側にいた。茶房にも、居室にも、近づいていない。
折った指を、もう一度開く。爪のあいだに、数日前までの茶葉の香りはもう残っていない。指の腹だけが、まだ微かに乾いた葉の感触を覚えている。けれどそれも、この地下の湿気に少しずつ削られて、今夜には失われる。
同じ毒が、同じ経路で、もう一度仕込まれた。 そしてその経路から、私は完全に切り離されていた。
「宦官長は、なんと」
「共犯者の仕業、と」
紅玉の声が、そこで低くなった。
「翠蘭さんには外に通じる一味がいる、と。だからこそ拘束されていても次の被害が出たのだ、と。処刑は明朝、予定通り行うと申されました」
筋の立て方は、宦官長らしかった。物語を組み上げた者は、新しい事実を物語に合わせて削り直す。私が牢にいたという事実は「一味がいる」の一文で吸収される。動機、機会、証言。そこに「共犯」という語を一つ足せば、像は崩れない。
私は笑うか、歯を鳴らすか迷って、結局どちらもしなかった。代わりに、鉄格子の冷たい鉄を指先でなぞった。
「あなたは、それを信じていないのね」
紅玉は答えなかった。代わりに胸元から折り畳んだ小さな紙を取り出した。指先が震えている。
「麗華様から、あなたへの言伝がございます」
---
紙は開かなかった。開けば字を読まれた痕跡が残る。紅玉は言伝を、自分の声で渡した。
「三日のうちに、真の下手人を示せ。さすれば、この身が恩赦を出す」
息が止まった。
明朝に迫っていた刃が、三日の猶予に姿を変えた。後宮の深奥から差し伸べられた、細い縄。掴めば牢を出られる。掴み損ねれば、また刀の下に落ちる。
縄は細く、先は見えない。向こう側で誰がそれを握っているのかも、いまはまだ確かではない。紅玉の背後に、麗華様ご自身の手があるのか、それとも、麗華様の名を借りた別の意志が動いているのか──そこすら、この闇の中では確かめようがない。掴むのも掴まないのも、ここからは私の問いではない。紅玉の細い指が、縄の一端を握らされている。
「なぜ、麗華様は」
「お目覚めの直後、最初にお下しになった言葉です」
紅玉は燭台の火を見つめたまま答えた。
「『あの侍女は、私の唇の色を見ていた』──と」
そうか、と思った。倒れた瞬間に私が床に膝をつき、症状を目で追っていたことを、朦朧とした意識の中で、麗華様はご覧になっていた。毒を盛った者は倒れる相手の唇の色を観察しない。麗華様は、それを一点の手掛かりに、一縷の疑いを私の側に残されたのだ。
薄い縄だ。だが、縄は縄だった。
「紅玉」
私は名を呼んだ。彼女の肩が、ぴくりと跳ねた。
「あなたは、私を共犯者だと思っていますか」
紅玉はしばらく黙った。燭台の火が、彼女の睫毛の影を頬に落とす。
「わかりません。けれど──麗華様があなたに賭けると仰るなら、私はその賭けの駒になります。お目覚めになった麗華様が、最初に声を絞られたのは、『あの侍女』のためでした」
縄の端は、もう一度私の手に握り直された。
「三日で、三つの裏を取らせてほしい」
紅玉が顔を上げた。
「一つ目」
私は声を落とした。石の床に言葉が吸われないよう、一つずつ確かな輪郭を刻みつけるように。
「昨夜倒れた春玲様の症状を、一字一句違わず教えて。唇の色が変わったのが先か、痙攣が先か。倒れる直前まで呂律は正しかったか。どちらかに偏った記憶ではなく、見たままを」
紅玉が息を呑んだ。彼女が想像していた問いとは、違ったらしい。無実を訴える言葉でも、下手人の名を示唆する言葉でもない。ただ、見たものを見たままに寄こせ、という無愛想な指示。
「症状の順序は、毒の入り口を教えてくれる」
私は小さく付け足した。
「口から入ったものと、肌から入ったもの、息から入ったもの──同じ毒でも、現れる順が違う。もし共通の経路があるなら、順序のどこかに必ず同じ形が残る」
紅玉の瞳が、初めて明確に揺れた。毒とは、茶碗の底にあるもの。そう信じて長く後宮の日々を過ごしてきた者にとって、それ以外の入り口という考え方自体が、薄い氷のようなものなのだろう。
「二つ目。春玲様のお部屋で、肌に触れるものが最近変わっていないか。香油、白粉、櫛、帯──一つでも新しく届いた物がないか」
「肌に、触れるもの……」
繰り返す紅玉の声に、小さな戸惑いが混じった。毒といえば、誰もがまず口に入るものを疑う。そこから目を逸らされれば、真の経路はいつまでも暗がりに置かれる。私は自分がその暗がりに押し込まれた者であることを、今夜、改めて胸の底で確かめた。
「三つ目。麗華様と春玲様、このお二人に共通して、最近近づいた者はいなかったか」
紅玉の唇が、薄く開いた。私が何を追っているのか、彼女の聡さはすでに輪郭を掴みかけている。
「茶では、ない」
私は言った。
「毒は、茶ではなかった」
---
燭台の火が、一度大きく揺らいだ。
遠く、通路の奥で衛兵の鼾が切れた。紅玉は素早く膝を折り、燭台を持ち上げる。影が壁を滑るように戻った。紙は既に袖の内側へ消えている。
「明日の夜、同じ刻限に参ります」
囁きは、足音の前に置かれた薄い布のように、すぐ引き取られた。紅玉は立ち上がり、来たときより慣れた足取りで通路を戻っていく。布底の沓が石を擦る音が、水の滴る音に紛れて遠ざかった。
私は鉄格子に額を当てた。錆びた鉄の匂いが鼻先をかすめる。湿った石から立ちのぼる土の匂いと、遠くから流れてくる微かな燭台の油の残り香が、鼻の奥で混じり合う。冷たい鉄は、額の熱をゆっくりと奪っていった。
明朝の刃は退き、代わりに三日という細い板が足元に渡された。踏み外せば、落ちる。踏みしめたとしても、板は三日で尽きる。
真実を運ぶ手が、外に一本、増えた。