第1話
第1話
朝露が乾く前の薬草が、最も良い香りを放つ。
それは宮廷薬師団にいた頃に叩き込まれた知識ではない。追放されてから、自分の手で薬草を摘むようになって初めて知ったことだ。王宮の調合室では、乾燥済みの薬草が棚に整然と並んでいた。泥のついた根を洗ったことも、虫食いの葉を選り分けたこともなかった。
私は店の軒先に吊るした薬草束の具合を確かめながら、そんなことを考えていた。指先に残る朝露の冷たさが、今日も一日が始まることを告げている。
王都の東端、職人街と貧民街の境目にある細い路地。看板すら出していない私の薬草店は、知る人ぞ知る場所だ。正確に言えば、知っている人間がわずかしかいない場所、というだけのことだが。
「リーゼさん、膝の薬をもらえるかい」
戸口に立ったのはグレータ婆さんだった。この界隈で最も古い常連で、左膝の関節炎を半年前から診ている。
「昨日の分がもう切れたの? 量を増やした方がいいかもしれないわね」
「いいや、薬はまだある。それより——」
グレータ婆さんの顔が蒼白だった。普段は膝が痛かろうが孫に金をせびられようが、どっしりと構えている老婆だ。その顔から血の気が引いている。唇の端が細かく震え、杖を握る指の関節が白くなっていた。
「どうしたの、グレータさん。具合が悪い?」
「あたしじゃないよ。王宮の侍従長だ。ヘルマン侍従長が——死んだ」
私の手が止まった。ヘルマン侍従長。宮廷にいた頃、何度も顔を合わせた人物だ。薬師団が調合した薬を各部署に配分する際、必ず彼の承認が要った。几帳面で、記録を怠らない男だった。
「死因は?」
「毒だって。しかも、鍵のかかった自分の部屋で見つかったらしい。完全な密室だよ」
密室で毒死。私は薬草束を吊るしていた手を降ろし、グレータ婆さんの方を向いた。
「それで、なぜそんなに慌てているの?」
グレータ婆さんは私の目を見た。哀れみと、怯えが混じった目だった。
「遺体のそばに、薬瓶があったそうだ。宮廷薬師団の正規品で——あんたの名前が刻んであったって」
空気が変わった。軒先の薬草が風に揺れる音が、やけにはっきり聞こえた。
私の名前が刻まれた薬瓶。宮廷薬師団では、調合者が自分の識別刻印を瓶に刻む。私が在籍していた頃に調合した薬は、すべて私の刻印が入っている。追放された後も、在庫として宮廷に残っているものがあるはずだ。
だが、侍従長の部屋に私の薬瓶がある理由が思いつかない。
「誰から聞いたの?」
「市場でさ。朝一番で衛兵の噂が広まって、もう半分の店が知ってる。あたしは——あんたに知らせなきゃと思って」
グレータ婆さんの声が震えていた。彼女は私がなぜ宮廷を追われたか、詳しくは知らない。ただ、腕の良い薬師が不当な処分を受けたらしい、という程度の認識だろう。それでも半年間、膝の薬を買いに通ってくれた。
「ありがとう、グレータさん」
私は努めて冷静に言った。冷静でいるしかなかった。
宮廷を追放された薬師。侍従長の毒殺。現場に残された、その薬師の薬瓶。誰がどう見ても、筋書きは一つしかない。追放された恨みで、侍従長を毒殺した——そう結論づけるだろう。
だが、おかしい。いくつもおかしい。
まず、動機が成立しない。私を追放したのは薬師団長のヴェルナーだ。ヘルマン侍従長は追放の経緯に関与していない。恨みを晴らすなら、標的が違う。
次に、手段が不合理だ。仮に私が毒殺を企てるなら——こう考えること自体不愉快だが——自分の刻印入りの薬瓶を現場に残すはずがない。それは自白文を添えて殺すのと変わらない。
そして密室。鍵のかかった部屋で毒死。これは自殺か、あるいは——。
「リーゼさん、逃げた方がいいんじゃないかい」
グレータ婆さんが小声で言った。
「逃げてどうなるの。逃げれば有罪を認めたことになる」
「でも——」
「大丈夫よ。私はやっていない。やっていないことは、証明できる」
そう言いながら、本当に証明できるのかという疑念が胸の奥で蠢いた。宮廷にいた頃なら、調合記録を参照できた。薬師団の文献庫も使えた。今の私には、この狭い薬草店と、頭の中の知識しかない。
グレータ婆さんが帰った後、私は店の奥で薬草の仕分けを再開した。手を動かしていないと、思考が暗い方向に流れる。
ヘルマン侍従長の毒殺。密室。私の薬瓶。
この三つの事実を、薬学の観点から考えてみる。
毒殺に使われた毒の種類がわからない以上、推論には限界がある。だが一つだけ、確実に言えることがある。私が宮廷時代に調合した薬の中に、致死性の毒物は一つも含まれていない。薬師団の調合記録は厳密に管理されており、私の調合品はすべて治療目的のものだ。つまり、仮に私の薬瓶が本物だとしても、中身が私の調合物である可能性は極めて低い。
瓶だけが利用された。中身は別の誰かが用意した。
だとすれば——これは仕組まれている。私に罪を着せるために、意図的に薬瓶が置かれた。
背筋が冷えた。恐怖ではない。怒りでもない。既視感だ。一年前、ヴェルナーの調合ミスを押し付けられたときと同じ構図。証拠を捏造され、弁明の機会もなく、追放された。あのときは抵抗する術を知らなかった。
今度は違う。
私は棚から帳面を取り出した。宮廷を追われる際、調合記録の写しだけは持ち出していた。自分が何を作り、何を作らなかったか。その証拠だけは手元にある。
午後になると、空気が変わり始めた。
通りを歩く人々の視線が、明らかに私の店に向いていた。ひそひそ話す声。指差す仕草。噂は市場から街全体に広がったらしい。
「追放された薬師が復讐した」
誰かがそう言うのが聞こえた。壁越しに、くぐもった声で。
私は窓から通りを見た。普段は閑散としている路地に、見慣れない顔がちらほら見える。野次馬だ。追放された薬師の顔を見に来たのだろう。
そのとき、硬い音がした。
窓の格子に何かがぶつかり、砕けた。石だった。拳ほどの大きさの石が、格子の隙間から店内に転がり込んできた。薬草の束を掠め、床に落ちる。乾いた衝撃音が狭い店内に反響した。
続けてもう一つ。今度は格子に当たって跳ね返った。
「毒殺者!」
外から叫び声が上がった。若い男の声だった。
「侍従長を殺した女だ! 出て来い!」
私は石を拾い上げた。表面がざらついている。川原の石ではない。建材の破片だ。近くの工事現場から持ってきたのだろう。手のひらに、角張った縁が食い込んだ。
もう一つの石が格子を抜けて飛び込んできた。棚に当たり、乾燥薬草の瓶が一つ割れた。カモミールの花弁が床に散らばる。甘い香りが、場違いなほど穏やかに立ちのぼった。
私は窓から離れ、店の奥に下がった。反論しても無駄だ。群衆は証拠で動かない。感情で動く。追放された薬師が侍従長を毒殺した——その物語は単純で、わかりやすく、人々の正義感を満たす。真実がどうであれ、物語の方が先に走る。
石の音が止んだ。誰かが野次馬を制止したのか、あるいは飽きたのか。
床に散ったカモミールを拾い集めながら、私は考えていた。
三日。おそらく、それが限界だ。噂が広がり、民衆の怒りが膨らみ、王都警備隊が正式に動く前に。自分の無実を証明するための時間は、長くて三日しかない。
帳面を開き、宮廷時代の調合記録に目を落とす。ヘルマン侍従長に納品した薬の一覧。消化促進剤、睡眠補助の煎じ薬、季節性の咳止め。どれも日常的な処方だ。致死性のものは一つもない。
だが、それを証明するには毒の報告書が要る。被害者の体内から検出された毒物の成分。それと私の調合記録を照合すれば、私の薬ではないことを示せる。
問題は、毒の報告書が王都警備隊の管轄だということだ。追放された薬師に開示される資料ではない。
割れた瓶の破片を布で包みながら、私は唇を噛んだ。一年前と同じだ。証拠はあるのに、手が届かない。弁明の手段を持たないまま、罪だけが積み上がっていく。
だが——一年前と違うことが、一つだけある。
あの頃の私は、宮廷の外の世界を知らなかった。人の悪意がどう動くか、噂がどう広がるか、権力がどう使われるか。追放されてからの一年で、嫌というほど学んだ。
私は帳面を閉じ、店の扉に鍵をかけた。
窓の外では、夕暮れの影が路地を染め始めていた。遠くで鍛冶屋の槌音が響いている。この街の日常は何も変わらない。変わったのは、私の周りだけだ。
明日、警備隊が来る前に、動かなければならない。