第3話
第3話
ep3を執筆します。
朝靄がまだ薬草畑の上に低く漂っていた。
私は土間に水を撒き終え、調合台の上に検屍道具を並べていた。昨夜のうちに革袋から出し、布で拭い直したものだ。銀の針、硝子管、薄い硝酸の小瓶、銅の匙——並べるごとに、二年前に封じたはずの感触が指先に蘇った。針の先端に滲む冷たい光、硝子の細口を通すときの微かな抵抗、匙の縁にこびりついた古い結晶の渋み。これらは病人を診る道具ではない。死人を読む道具だ。
——もう逃げられない。
そう悟った昨日の感覚が、朝の冷気の中でなお胃の底に沈んでいる。リーネが立ち去り際に口にした「霜抜けの十三薬」。あの名は、私が宮廷を去る最後の年に研究室の内輪でのみ呼んでいた解毒剤の通称だ。徹夜続きの夜々、蝋燭の芯が爆ぜる音、酢に晒した根の匂い、指先を染めた樹液の渋み——忘れたはずの記憶が、ひと晩のうちに薬舗の隅々まで戻ってきていた。
扉を叩く音がした。
予想より早かった。私は布を畳み、扉を開けた。
リーネが立っていた。昨日と同じ旅装束だが、髪はきちんと梳かれ、栗色の毛先が肩で揃えられている。胸に革鞄を抱えていた。昨日より、抱え方がほどけている。手放す覚悟が、ひと晩で固まったのだろう。
「お入りなさい」
土間の椅子を勧めた。リーネは浅く腰掛けると、革鞄の留め紐をほどき、中から一冊の帳面を取り出した。鞣し皮の表紙に、押し型で「DORAN」の文字が刻まれている。革は手の脂で艶を帯び、角は擦り切れていた。何年も持ち歩かれた品だ。
「父の旅日誌です。先生に、お読みいただきたいのです」
私は両手を膝で軽く拭い、帳面を引き寄せた。表紙を開くと、最初の頁に几帳面な縦書きで日付と地名が並んでいる。父ドーランは細字を用いた。墨は濃く、運筆は乱れがない。商人として帳簿に慣れた手だ。
「最後の方を、お開けください」
言われるまま頁を繰ると、薬草の押し葉が一枚、紙の間に挟んであった。乾燥した薄紫の葉。形を見て、息が止まった。葉縁の鋸歯、葉脈の走り方——灰月草だった。半年は経った押し葉だが、特徴は残っている。
「これは、どこで」
「半年ほど前、父が王都の旧友から預かったと申しておりました。『これに気をつけよ』と」
頁の余白に、父ドーランの筆跡で書き付けがあった。
『灰月草。第三類。発現遅延。媒介により時刻不定。気取られず服す。最も恐るべき毒なり』
書き付けは続いていた。
『解毒は霜抜けの十三薬を措きて他に無し。調合を知るは王都にてエルト殿のみ。隠居の地はハーゼル村と聞く。もしもの折はかの地の薬師を頼れ』
帳面の頁の端を、指先で支えていた。指先が震えるのを、その紙の硬さで誤魔化した。
——父ドーランは、自分が灰月草で殺される可能性を、半年前から具体的に予期していた。だからこそ、解毒剤を持つ私の名と居所を、娘に書き残していた。
「父上は、どこで私の名を」
「先生が王都を去られる折、父は宮廷の購買部に薬種を納めていたそうです。最後の納品日に、宮廷薬師の方々の話の端から先生のお名前と、その調合のお名前を耳にしたと書き残しております」
頁を遡ってみると、確かに王都の納品記録があった。納品先は宮廷薬学寮、品目は藍干、当帰、紫根。日付は私が宮廷を辞した三日前だ。あの混乱の最中、誰かが廊下で「霜抜けの十三薬」の名を口にしたとして、不思議はない。当時、私の机の周りはあの調合の話で持ち切りだった。
さらに頁を繰ると、父の旅程が見えてきた。半年のあいだに、辺境の村を順に巡っている。ヴァルゼ、エンドラ、コルトハイム、ファイレン、そしてハーゼル。五村。
「お父上は、何のためにこれらの村を」
「商いの巡回、と申しておりました。けれど——」
リーネは唇を結び、革鞄からもう一枚、折り畳んだ紙を取り出した。父が宿屋で書き、まだ送っていなかった書簡だという。私は紙を開いた。短い文面に、父の焦りが滲んでいた。
『此度の旅、各村の地相と水脈を改めて確かめ候。我が見立て、外れず。鉱の脈、五村いずれも東稜の下を走る。買い付けの真意、漏れし疑い濃く、用心の上にも用心』
——鉱脈。
父ドーランは薬売りに身をやつしながら、辺境の鉱脈を調べて回っていた。買い付けの真意は別にある。そして、その真意がすでに漏れていることを、本人も警戒していた。だとすれば、灰月草の押し葉と書き付けは、漠然とした警句ではない。具体的な敵が、具体的な毒で、具体的な場面を狙っていることを、父は知っていた。
私は日誌を閉じた。閉じる手の重さが、開く前の倍になっていた。
「リーネ殿。この日誌、駐在のヴォルフには」
「いいえ。ヴォルフ様は昨日、書き付けで処理を終えられました。今さらお見せしても、覆らぬと判じました」
聡明な娘だ。覆らぬ判定を覆させる労力より、覆させる別の道を探す。父譲りの計算かもしれなかった。
「先生」
リーネが膝の上で、両手を重ねた。爪先が反対の手の甲に食い込んでいる。昨日と同じ堪え方だった。だが今日は、その指先が小刻みに震えていた。
「父は、先生の薬を頼ろうとしておりました。けれど、頼る前に死にました。——もし、父が先生の薬を、半年前に手に入れていたら」
そこで言葉が切れた。
リーネは続けなかった。続けずに、私を見た。続けるべき言葉は、私の側で鳴っていた。
——もし、私が宮廷を去る折にあの調合を持ち出していたら。もし、私が王都の薬学寮にあの処方を残していたら。もし、私が「隠居」を選ばず、解毒剤を必要とする者の手の届くところに留まっていたら。
父ドーランは、毒を口に含む前に解毒剤を服むことができたかもしれない。私の二年の静寂は、誰かの命と引き換えだった可能性がある。胸の警鐘が、もはや鐘ではなく、頭蓋の内側を直接打つ太鼓に変わっていた。
「——リーネ殿」
声が掠れた。咳払いで整え、言い直した。
「私は、お父上の遺体をもう一度、検分する」
「ヴォルフ様の判は、もう」
「判は降りた。だが遺体はまだ村に残っている。明日の引き取りまでは安置のままだ。今日のうちに、爪と組織の一部から灰月草の代謝物を抽出する。硝酸銀で発色させれば、淡黄の濁りが立つ。手順は王都の毒物目録に載っている。資格の問題ではなく、化学の問題だ。誰の目にも色は見える」
「ヴォルフ様は、お認めくださるでしょうか」
「認めさせる」
私は調合台の方へ歩いた。並べた検屍道具を、革袋に詰め直す。針、硝子管、硝酸の小瓶、銅の匙。最後に、棚の奥から硝酸銀の褐色瓶を取り出した。封蝋には宮廷薬学寮の刻印が残っている。二年間、開けなかった瓶の蓋を、指先で確かめた。蝋は乾き、爪の先で軽く弾くと、乾いた音が返ってきた。中身は生きている。
「先生」
振り返ると、リーネが立っていた。革鞄を抱え直し、背筋が真っ直ぐに伸びていた。
「私も、同行いたします。父の遺体に触れる手は、家族の手が一つ要りましょう」
家族の同意。確かに、それがあれば、検分の正当性が一段増す。ヴォルフへの説得材料も、その分だけ厚くなる。
「足手まといにはならぬよう」
「足手まといにはなりませぬ」
私は革袋の口を絞った。紐の結び目が、二年前と同じ手順で指の腹に締まる。手は覚えていた。
薬舗の扉を開けると、朝靄はすでに薄れ、日差しが土の上に短い影を落としていた。リーネが先に外へ出た。私は鍵をかけ、革袋を肩に掛け直す。皮の重さが二年ぶりに肩骨に乗った。重みの位置と角度が、昨日まで使っていた道具のように馴染んでいた。
宿屋〈鹿の角亭〉の方角へ歩き出すと、向かいの家の窓から、村の老婆がこちらを覗いていた。視線を返すと、慌てて雨戸が閉じる。村はすでに、昨日の死を「片づけた話」として語り始めている。私とリーネが宿屋へ向かう姿は、その語りを乱す異物だ。
それでよかった。異物として歩く覚悟を、私は今朝から決めた。
通りの先、宿屋の屋根の三角が、朝日の中に浮かんでいた。一歩踏み出すごとに、革袋の中で硝子管が硝子管に触れ、微かに鳴った。その金属質の小さな音が、二年間止まっていた何かを、確かに動かし始めていた。