第1話
第1話
朝露に濡れた灰月草の葉が、指先で微かに震えていた。
私はしゃがみ込んだまま、その薄紫の葉脈を観察する。三日前に植え替えた株だが、根付きは悪くない。土壌の酸度がもう少し低ければ葉の色素がさらに濃くなるはずだが、この辺境の土では贅沢というものだ。宮廷の薬草園なら最適な調合土が使えた——だが、あの場所に戻りたいとは微塵も思わない。
ハーゼル村に移り住んで二年になる。王都ヴァルトハイムの宮廷薬師という肩書きを捨て、辺境の村で薬草を育てる暮らしを選んだ。政争に巻き込まれ、派閥の道具として使われることに疲れ果てた末の決断だった。ここには急かす者がいない。朝は薬草畑の手入れから始まり、昼は村人の不調を診て、夜は調合の研究をする。それだけの日々が、私には何より贅沢だった。
立ち上がると、東の山稜から昇りかけた朝日が畑全体を琥珀色に染めていた。乾いた風が薬草の青い香りを運んでくる。深く吸い込むと、肺の奥まで清涼な空気が沁みた。都の空気とは別物だ。あちらは香を焚き込めた石造りの部屋で、常に誰かの思惑が澱のように漂っていた。
「エルト先生!」
声のする方を見ると、村の少年マルクが畑の柵を跳び越えようとしている。息が上がっていた。走ってきたらしい。
「柵を壊すな。回って入れ」
「そんな場合じゃないです! 宿屋で人が死んでます!」
手にした収穫籠を地面に置いた。死んだ、という言葉に、身体が自然と動いた。薬師である以上、人の死に無関心ではいられない。だが同時に、胸の奥で小さな警鐘が鳴るのを感じた。この村で人が死ぬのは珍しいことではない。老衰や持病の悪化なら、私の出る幕は弔いの後だ。だが、マルクの顔色が尋常ではなかった。唇が白く、額には冷や汗が浮いている。この少年は家畜の屠殺を手伝って育った農家の子だ。死そのものに怯える歳ではない。それがこの怯え方ということは、ただの病死ではないと直感が告げていた。
宿屋〈鹿の角亭〉に着くと、既に人だかりができていた。村に一軒しかない宿で、一階が酒場、二階が客室という造りだ。駐在衛兵のヴォルフが入口に立ち、野次馬を押し返している。
「エルト先生か。まあ見てくれ、だが触るなよ」
二階への階段を上がると、古い木の軋む音が足元から響いた。壁に染みついた煙草と獣脂の臭いに混じって、かすかに甘い匂いがする。花のような、果実のような——いや、違う。この甘さには覚えがある。だが今は確信が持てない。
二階の突き当たりの部屋に通された。扉は内側から施錠されていたと、ヴォルフが言う。宿の主人が合鍵で開けたらしい。窓は閉じたままで、格子の隅には蜘蛛の巣が張っている。少なくとも数日は開閉された形跡がない。
部屋の中央、寝台の上に男が仰向けで横たわっていた。旅商人のドーラン。三日前に村に来て、一昨日の夜に宿の宴会に参加し、昨夜は部屋に戻ったきり——今朝、食事に降りてこないので確認したところ、この状態だったという。
「心臓発作だろう。旅の疲れもあったんだろうな」
ヴォルフはそう言って、報告書に書き込みを始めた。
私は遺体に近づいた。顔色は蒼白で、表情は比較的穏やかだ。確かに、苦悶の跡は少ない。寝ている間に心臓が止まったと言われれば、そう見える。
だが——。
膝をついて、遺体の手を観察した。指先はわずかに冷えきっており、死後硬直が始まりかけている。死後六時間から八時間といったところか。時刻は合う。爪だ。右手の人差し指と中指、爪の根元にごく薄い灰青色の変色がある。陽の光では見落とす程度の、微かな色の違い。だが私の目は見逃さなかった。宮廷で毒杯の疑いがかかるたびに、こうして遺体の末端を検分してきた。あの薄暗い地下検屍室で身につけた習慣が、二年経った今も指先に染みついている。
私の背筋を、冷たいものが走った。
この変色を私は知っている。宮廷薬師時代に何度も見た。ある毒草の代謝物が爪母基に沈着したときに生じる特有の症状だ。心臓発作では、こうはならない。
念のため左手も確認した。こちらには変色がない。右手のみ——つまり、右手で何かに触れた、あるいは右手側から摂取した可能性が高い。食事の際に右手で杯を持つ習慣があったなら、飲み物に混入されたと考えるのが自然だ。
「ヴォルフ」
「ん?」
「この男の爪を見ろ。根元が変色している」
ヴォルフが面倒そうに覗き込んだ。眉を寄せ、首を傾げる。
「変色? どこがだ。普通の爪に見えるが」
無理もない。この変色を識別できるのは、毒草の代謝過程を熟知した薬師だけだ。一般の医者でも見落とす。私が宮廷で毒物鑑定に関わっていなければ、気づかなかっただろう。
「この色は、特定の毒草が体内で代謝されたときにのみ現れる。心臓発作の死体には、絶対に出ない」
ヴォルフの手が止まった。だが、その表情は半信半疑だった。
「つまり何だ。毒殺だと言いたいのか」
「可能性がある、と言っている」
「エルト先生。あんたの腕は認めてるが、この部屋は内側から鍵がかかっていた。窓も閉まっている。誰がどうやって毒を盛るんだ?」
密室。確かにヴォルフの言う通りだ。だが密室であることと、毒殺でないことは別の問題だ。密室の謎は物理的なトリックで説明がつくかもしれない。しかし、爪の変色は化学的な事実だ。事実は状況に優先する。
「部屋に入る方法は分からない。だが、この爪の変色は毒物の代謝以外では説明できない。少なくとも、すぐに病死と断定するのは早計だ」
ヴォルフは報告書の羽ペンを机に置き、腕を組んだ。沈黙が重い。階下から酒場の喧噪がくぐもって聞こえてくる。誰かが笑い声を上げた。その無邪気さが、この部屋の空気とあまりに不釣り合いだった。
「エルト先生。俺はこの村の駐在だ。上に報告を上げなきゃならん。『元宮廷薬師が爪の色がおかしいと言っている』では報告にならんのだ」
その言い分も分かる。ヴォルフは無能ではない。ただ、辺境の駐在衛兵に毒物鑑定の知識を求めるのは筋違いだ。そして私は——もう宮廷薬師ではない。公的な鑑定権限を持たない、ただの村の薬師だ。
「……分かった」
それ以上は踏み込まなかった。踏み込む義理もない。私はこの村に静かに暮らしに来たのであって、事件を解決しに来たのではない。
宿屋を出ると、朝の光がやけに眩しかった。通りでは村人たちがひそひそと話し込んでいる。旅商人の突然死は、小さな村にとっては大事件だ。だが数日もすれば忘れられるだろう。辺境の日常とはそういうものだ。
薬舗に戻り、中断していた軟膏の調合を再開した。だが、乳鉢を回す手が何度も止まる。
あの爪の色が、瞼の裏に焼きついていた。
灰青色。代謝物の沈着。遅効性の——。
だとすれば、毒は昨夜ではなく、もっと前に摂取されている可能性がある。前夜の宴会か、あるいはそれ以前か。発現までの時間は媒介物によって変動する。油脂なら早く、アルコールなら遅い。何に混ぜたかが分かれば、犯行時刻を逆算できる。
私は乳鉢を置いた。
いや——これは私の仕事ではない。ヴォルフに任せればいい。私は薬草を育て、村人の風邪を治す。それだけでいい。
薬舗の窓から、遠くの山並みが見えた。穏やかな稜線。静かな風。この景色を守るために都を捨てたのだ。余計なことに首を突っ込めば、またあの頃に戻ってしまう。派閥の暗闘、毒杯の応酬、誰が味方で誰が敵かも分からぬ日々。あの泥沼に片足でも踏み入れれば、二度と抜け出せないことを、私は身をもって知っている。
扉を叩く音がした。
開けると、見知らぬ少女が立っていた。旅装束に埃がこびりつき、長い栗色の髪が風に乱れている。年は十六、七だろうか。目の縁が赤い。泣いていたのだ。頬にはまだ涙の跡が乾ききらずに光っている。だが、その瞳の奥にあるのは悲嘆だけではなかった。何かを堪えるような、強い意志の光が宿っていた。背筋を真っ直ぐに伸ばし、唇を引き結んでいる。崩れかけの感情を、意志の力だけで支えている——そんな危うい均衡が、少女の全身から伝わってきた。
「薬師のエルト様ですか。私、リーネと申します。——死んだドーランの、娘です」
その言葉を聞いた瞬間、朝の宿屋で感じた警鐘が、再び鳴った。今度は、もっと大きく。