第1話
第1話
酒場『錆びた錨』の空気は、いつも通り血と煙草と安酒の匂いが混ざり合っていた。
私はカウンターの端に腰を下ろし、薄く水で割られたエールを舐めるように飲んでいた。ぬるい液体が喉を通るたび、舌の奥にかすかな酸味が残る。水で嵩を増しているのは明白だが、文句を言える立場ではない。用心棒としての仕事は、酔客同士の喧嘩を止めることと、払いの悪い客を叩き出すこと。王都の裏路地にある酒場にしては、まあ平穏な夜だった。
半年前までは、王宮の執務室で機密文書を読み解いていた。宮廷探偵レイン・アッシュフォード——かつて、そう呼ばれていた男の成れの果てが、酔っ払いの吐瀉物を避けながらジョッキを磨く姿だ。我ながら見事な転落だと思う。
「おい、用心棒」
店主のバルドが顎でしゃくった先を見ると、奥のテーブルで三人の男が声を荒げていた。革鎧を着た傭兵崩れが二人、向かいに座る痩せた商人風の男に詰め寄っている。
「いかさまだろうが。袖に札を隠してんのは分かってんだよ」
大柄な方の傭兵が商人の胸倉を掴んだ。商人は顔を青くして首を振っている。
私は立ち上がり、三人のテーブルに近づいた。
「離してやれ」
「あぁ? なんだお前」
傭兵が振り返る。首筋に古い刀傷。右手の甲に擦過痕。左腰の剣帯が新しい——最近になって帯剣を始めた、つまり正規兵崩れではなく最近傭兵を名乗り始めた素人だ。もう一人は靴底が非対称に減っている。左足を庇う癖がある。
観察が勝手に走る。望んだわけではない。ただ、目が見て、頭が組み立ててしまう。宮廷を追われても、この癖だけは抜けなかった。
「いかさまはこの男じゃない」
私は傭兵の手首を指さした。
「袖に札を隠しているのは、お前の方だろう。右の袖口だけ布が伸びている。革鎧の右腕だけ擦れ方が違うのは、頻繁に袖に手を入れているからだ。それと——」
私はテーブルの上に散らばったカードに目を落とした。
「場に出ているカードの配分がおかしい。剣のスートが六枚出ているが、この遊戯で使う山札には剣は五枚しかない。一枚多い。増えた一枚は、お前の袖から出てきたものだ」
沈黙が落ちた。
大柄な傭兵の目が泳いだ。図星だ。もう一人の傭兵が腰の剣に手をかけたが、私はそちらに視線を向けた。
「左膝を庇っているな。古傷か。抜剣しても踏み込みが利かない。それに、ここで刃傷沙汰を起こせば衛兵を呼ばれる。裏路地の酒場とはいえ、この界隈の巡回は二刻ごとだ。次の巡回まであと四半刻もない」
嘘だ。巡回の間隔など知らない。だが、言い切ることが大事だった。
傭兵二人は舌打ちをしながら立ち上がり、乱暴に扉を開けて出ていった。商人は何度も頭を下げてから、こちらも足早に店を出た。
「相変わらずだな、レイン」
バルドがカウンター越しにジョッキを滑らせてきた。「口だけで喧嘩を終わらせる用心棒なんざ、お前くらいだ」
「殴り合いは趣味じゃない」
元々、そういう仕事をしていたわけではない。私の武器は拳ではなく、観察と推論だった。——いや、「だった」ではなく、今でもそうだ。ただ、それを向ける先がなくなっただけだ。
私は追放された。証拠捏造の罪で。
半年前のあの日、宮廷司法裁定会議の場で、私は自分が捜査した貴族殺人事件の証拠を改竄したと断じられた。身に覚えのない話だった。だが証拠品の保管記録には確かに私の署名が——偽造された署名が——残されており、弁明の余地は与えられなかった。
宮廷探偵の称号を剥奪。王宮への立入禁止。捜査権の永久停止。
判決を読み上げたのは主席判事ヴァレス。その隣に並んでいた司法官たちの顔は、今でも一人残らず覚えている。
「閉店だ。片づけを手伝え」
バルドの声で意識が戻った。壁の時計は深夜の二刻を指している。客はとうに掃けていた。
テーブルを拭き、椅子を上げ、床に散らばったカードの屑を掃き集める。こんな夜が、もう百八十回ほど続いている。明日もまた同じ夜が来る。事件も謎もない、ただ緩やかに腐っていくだけの日々。
——そう、思っていた。
表の扉が勢いよく開いた。
蹴り開けたのではない。体当たりだ。扉にぶつかった衝撃でよろめきながら転がり込んできたのは、十二、三歳くらいの少女だった。栗色の髪が汗で額に張りつき、息は完全に上がっている。かなりの距離を走ってきたのは明白だった。
靴の泥は港区特有の赤い粘土質。裾に魚市場の鱗がこびりついている。港区の、それも倉庫街の方角から来たのだろう。
「た、助けて——人が、人が死んでる」
少女は膝に手をつき、肩で息をしながら言葉を絞り出した。
「港区の、倉庫で……胸に、変な文字が、刻まれてて……」
バルドが眉をひそめた。「衛兵を呼べ。うちは酒場だ」
「呼んだ。呼んだけど来ない。あの辺りは巡回が来ないって——」
少女の声が震えている。恐怖だけではない。走りすぎて体温が下がり始めている。
私は棚からバルドの外套を取り、少女の肩にかけた。
「落ち着け。場所は港区のどのあたりだ」
「第三倉庫街の突き当たり。錠前が壊れた大きな倉庫。中に入ったら——」
少女がえずいた。
「文字、というのはどんなものだ。見たことのある文字か」
少女は首を横に振った。「読めない。模様みたいだった。でも、ちゃんと並んでて……落書きじゃない」
模様のように見えるが、規則性がある文字。
この王都で、そう表現される文字体系は多くない。
私はバルドを見た。バルドは渋い顔で首を振った。「行くなよ、レイン。お前はもう探偵じゃない」
その通りだ。私はもう探偵ではない。宮廷を追放され、捜査権も称号も持たない、ただの用心棒だ。
だが、足が動いていた。
港区の倉庫街まで、裏路地を抜ければ四半刻もかからない。少女の言う第三倉庫街の突き当たりは、かつて密輸品の摘発で踏み込んだことがある場所だった。月明かりの下、崩れかけた煉瓦塀の間を早足で進む。潮の匂いが強くなり、足元の泥が赤みを帯びてきた。夜風が運河の水面を渡って吹きつけ、首筋に湿った冷気が纏わりついた。
錠前の壊れた倉庫はすぐに見つかった。鉄扉が半開きになっている。内側から微かに獣脂蝋燭の匂い。誰かが最近ここにいた、あるいは今もいる。
私は息を整え、扉を押し開けた。錆びた蝶番が軋み、その音が暗い空間の奥まで反響した。
倉庫の中央に、男が仰向けに倒れていた。
四十代後半。仕立ての良い上着。だが靴底が片方だけ新しい——修理に出す余裕はあるが買い替える余裕はない、中級官吏に多い特徴だ。
死因は一目では分からなかった。外傷らしい外傷がない。だが、明らかに死んでいる。肌の色、四肢の硬直の進み具合から、死後四、五時間というところか。
問題は——胸だった。
上着が大きく開かれ、素肌が露出している。そこに、刃物のようなもので丁寧に刻まれた文字列があった。
刻みの深さは均一。線の太さも揃っている。震えも迷いもない。これを刻んだ人間は、書き慣れている。そして、死者の胸を紙面のように扱うことに、一切の躊躇を持たなかった。
私は膝をつき、蝋燭の残り火を頼りに文字列を読んだ。
呼吸が止まった。
月蝕文字。
古代アルディス王朝が暗号通信に用いた文字体系。現存する解読資料は宮廷機密文書庫に保管された三冊の写本のみ。完全な解読法を知る人間は、この王国にはもういないはずだった。
——私を除いて。
文字列は短い。だが、その意味は明白だった。
「裁きは——始まった」
声に出していた。薄暗い倉庫の中で、自分の声だけが反響して消えた。
私は死体の顔をもう一度見た。薄い月明かりの中でも、その顔には見覚えがあった。半年前、宮廷司法裁定会議の席で、私の追放を読み上げる主席判事の隣に座っていた男。
司法官ドルクス。
私を追放した七人のうちの一人が、私にしか読めない暗号で「裁きは始まった」と胸に刻まれて死んでいる。
背筋に冷たいものが走った。恐怖ではない。半年間、錆びついていた歯車が軋みながら噛み合い始める、あの感覚だ。
倉庫の暗がりの中で、私は立ち上がった。もう一度、文字列の全体を目で追う。
——妙だ。
「裁きは始まった」の後に、まだ符号が続いている。文字ではない。句読の記号のようだが、月蝕文字の標準的な句読法とは配置が違う。まるで——まだ何かが書かれているかのように。
未解読の符号が、暗闇の中で私を見つめ返していた。