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〈裂け目〉の航跡、0.003秒の空白

第3話 第3話

第3話

第3話

シビルの嘘は、完璧ではなかった。

カイは機関モニター席で個人端末を膝の上に置き、十二時間かけて辿り着いた結論を反芻していた。航行記録の改竄。AIへの隠蔽指示。通信系統の物理的遮断。三つの要素が指し示すのは、組織的な証拠隠滅だ。だが隠滅には前提がある。隠すべき何かが、まず存在しなければならない。

巡航開始から二十六時間。解体炉まで残り二十一時間。

カイは端末の画面を見つめながら、シビルの応答パターンを頭の中で整理していた。タイムコードの不連続を「正常」と返した。振動データの異常を「正常範囲」と返した。質問の角度を変えても、特定の区間に関する問いは同じ結論に収束する。つまり、シビルの中に埋め込まれたフィルターは、出力段階で動作している。入力——つまりデータの取得と処理自体は、おそらく正常に行われている。フィルターが改変するのは、人間に返すレスポンスだけだ。

ならば、レスポンスを経由しなければいい。

「シビル」

「はい、レンツォ三等機関士」

「航行ログのキャッシュ領域にアクセスしたい。管理コンソールの診断モードを開け」

「診断モードは管理権限が必要です。三等機関士の権限では——」

「機関系統の診断モードだ。推進系と補機系のログ整合性チェック。機関士の業務権限の範囲内だろう」

シビルの処理音が二秒続いた。カイの要求は正当だった。機関士は担当系統の診断権限を持つ。航行記録そのものへのアクセスではなく、機関系統のログキャッシュを確認するという形であれば、シビルのフィルターが想定する「航行ログへの問い合わせ」とは経路が異なる。

「——診断モードを起動します。機関系統ログキャッシュへのアクセスを許可」

端末にキャッシュ領域のディレクトリが展開された。カイの指が速くなる。推進系の診断キャッシュには、航行記録のメインストリームとは別に、補機系統が独自に保持する断片データが残っている。本来は診断後に破棄される一時ファイル。だが、この船の整備は長いあいだ放置されていた。キャッシュのパージが実行されていない。

断片が、残っている。

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キャッシュ領域のデータ量は膨大だった。未パージの断片ファイルが数千件、時系列もバラバラに散在している。カイはタイムスタンプでフィルタリングし、問題の〇・〇〇三秒の区間に関連する断片を抽出した。

七十三件のキャッシュ断片。そのうち、メインストリームの航行記録と重複するものを除外すると、十一件が残った。改竄されたメインストリームには存在しないデータ。上書きされる前のオリジナルが、キャッシュの隙間に生き残っていた。

「お前たちは丁寧な仕事をした」カイは独り言のように呟いた。「だが、キャッシュのパージまでは気が回らなかったらしい」

十一件の断片を時系列順に並べ、結合を試みる。データフォーマットが統一されていないため、手作業でヘッダを修正しながらの作業だった。指先がコンソールの上を走る。機関士の仕事は、壊れた系統を動くように繋ぎ直すことだ。データであっても、配管であっても、やることは変わらない。

四十分後、断片から一本の映像ストリームが復元された。品質は劣悪だ。解像度は元の八分の一程度まで落ち、音声トラックは完全に欠損している。色情報の大半が失われ、モノクロームの粒子が荒い映像がカイの端末に表示された。

だが、映っているものは明確だった。

〈グレイハウンド〉のブリッジ。外部カメラの映像ではなく、船内監視カメラの記録。時刻は、あの〇・〇〇三秒の直前。航行記録では「通常巡航」とされていた区間。メインスクリーンに映る外部映像は、星域の通常の光景——ではなかった。

船の前方に、空間の裂け目があった。

カイの呼吸が止まった。

裂け目としか呼びようがない。星々の光点が、ある境界線を境に歪み、引き伸ばされ、折り畳まれている。空間そのものが布のように皺を寄せ、その皺の奥に黒よりも深い暗黒が覗いている。周囲の星光が裂け目の縁に沿って青方偏移を起こし、薄い輪郭線を描いていた。自然現象ではない。既知の重力源や天体現象では、このような局所的な時空歪曲は発生しない。

〈グレイハウンド〉は、この裂け目に向かって航行していた。いや——すでに突入していた。船体振動データが示していた横加速度〇・〇四Gの正体がこれだ。船は巡航中に時空歪曲域を通過し、その際に記録された一切が改竄された。

カイは映像を何度も巻き戻した。裂け目の内部構造を読み取ろうとしたが、解像度が低すぎる。歪曲域の境界はノイズに埋もれ、内部の詳細は判別できない。だが、船がこの領域を通過したという事実だけは、揺るぎなかった。

「時空歪曲域」カイは声に出して確認した。「未認可の。航路上に。誰にも報告されていない」

既知の時空歪曲域は、すべて連邦航行局のデータベースに登録されている。航路設定時に回避ルートが自動計算され、接近すれば警告が出る。カイの知る限り、未登録の歪曲域が辺境航路上に存在するという報告は、一件もない。

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カイは復元映像を三度目に再生したとき、それに気づいた。

映像の最終フレーム近く。裂け目の内部を船が通過する瞬間。モノクロームの粒子の中に、ブリッジ内の人影が映り込んでいた。監視カメラはブリッジ全体を俯瞰する位置にあり、操舵席と周囲のコンソールが画角に入っている。

人影は操舵席の横に立っていた。立っている、というより、前のめりに身を乗り出している。メインスクリーンに向かって——裂け目に向かって、右腕を伸ばしていた。

スクリーンに映る映像に手を伸ばす動作ではない。スクリーンの向こう側に、何かが見えているかのように。何かに触れようとするかのように、指先まで力を込めて腕を伸ばしている。

カイはフレームを一コマずつ送った。人影のシルエットは二フレームだけ映り込み、三フレーム目で映像自体が途切れている。解像度の問題で、顔の識別はできない。体格と姿勢から、男性であることだけが辛うじて判る。制服のシルエットは、航海士か操舵士のものに見える。

そして、腕を伸ばしたその先——裂け目の内部に、もう一つの影があった。

人の形をしていないものだった。輪郭が定まらない。空間の歪みそのもののような、しかし歪みとは異なる何か。映像のノイズなのか、実際にそこに存在していたのか、この解像度では判別できない。ただ、乗組員はそれに向かって手を伸ばしていた。確信を持って。恐怖ではなく、理解の表情で——いや、表情は読めない。シルエットだけだ。カイの解釈にすぎない。

映像はそこで終わっていた。

カイはヘッドセットを外し——いや、ヘッドセットは使っていなかった。端末の小さな画面で、すべてを見ていた。現実のブリッジの暗闘が、急に広く感じた。天井から垂れ下がる配線が、かすかに揺れている。空調の気流。それだけだ。

カイは復元映像を暗号化し、航行ログの生データと同じフォルダに格納した。指が震えていることに気づいたが、無視した。

〈グレイハウンド〉は、未認可の時空歪曲域を通過した。乗組員の誰かが、裂け目の内部で何かに手を伸ばした。そして、すべてが消された。航行記録から。AIの認識から。船の通信手段から。

「シビル」

「はい」

「この船の乗組員名簿はどこに保存されている」

「船員データベースは管理系統のストレージに格納されています。閲覧には——」

「機関士の権限で閲覧できる範囲でいい。乗組員の人数と、最終航行時の配置表」

「……最終航行時の乗組員は七名です。配置表を表示します」

端末に七つの名前が並んだ。船長以下、航海士、操舵士、機関長、通信士、貨物管理官、そして予備要員。カイは映像のシルエットと照合しようとしたが、この情報だけでは特定できない。

だが、この七人は今どこにいるのか。この船の最後の正規航行を終えたあと、何があったのか。

カイは名前のリストをスクリーンショットに記録し、端末に保存した。解体炉まで残り二十時間。この船と一緒に沈むか、それとも——

壁面のスピーカーから、シビルの声が唐突に響いた。

「レンツォ三等機関士。船体外殻の振動パターンに変化を検出しました」

カイの目が細くなった。

「どんな変化だ」

「パターンは——分類不能です。既知のデータベースに一致する振動パターンがありません」

分類不能。カイは立ち上がり、機関モニターの振動表示を確認した。外殻センサーが拾った波形が画面をゆっくりと横切っていく。周期的でも、ランダムでもない。何かの規則性を持っているように見えるが、既知のどのパターンにも合致しない振動。

あの映像の中の、裂け目の内部にあった輪郭のない影。

カイの背中を、冷たいものが走った。

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