第3話
第3話
火曜日の朝、十時二十分に病院の自動ドアをくぐった。
予約の十分前には着こうと家を出た。団地の前の信号で二回、赤を見送った。三回目の青でようやくペダルを踏み込んで、駐輪場に着いたときには、まだ三十分近く時間があった。
総合受付で診察券を出すと、女性が機械に通して、小さな紙を差し出してきた。紙には、三桁の番号が印字されていた。
「こちらの番号でお呼びします。消化器内科の待合へどうぞ」
声は、四日前に電話で聞いたのと同じ人だったのかもしれないし、違う人だったのかもしれない。顔を覚えようとすると、いつのまにか忘れている。緊張しているわけではなかった。ただ、誰かの顔を、今朝のわたしは、覚えることができなかった。
消化器内科の待合のベンチは、背もたれが木で、座面だけが薄い青のクッションだった。端の席に腰を下ろして、手提げを膝の上に乗せた。手提げのなかには、保険証と、家の鍵と、今朝、郵便受けに届いていた電気の検針票と、それだけが入っていた。
本当は、あの封筒も持ってきてもいい、と、家を出るときに一瞬だけ思った。コンロ脇の引き出しの奥の、ブリキの缶のなかの、拓海の字の手紙。持ってきて、どうするつもりだったのか、自分でも分からなかった。結局、ふたを開けることもしないまま、引き出しを閉めた。缶が、また軽く鳴った。
ベンチの向かいの壁に、検診を勧めるポスターが貼ってあった。白い歯を見せて笑っている中年の男性が、箸を握っていた。写真のなかの男性は、わたしと、たぶん同じくらいの年だった。
「七二四番の方、第三診察室へお入りください」
自分の番号が呼ばれたのは、十時三十二分だった。
第三診察室のドアは、半分だけ開いていた。ノックをしてから、「失礼します」と小さく言って、自分でスライドさせる。
医師は五十代半ばくらいの、眼鏡をかけた男性だった。デスクの上のモニターには、わたしの名前と、撮ったばかりの断面画像のようなものが、白黒で並んでいた。
「どうぞ、おかけください」
丸椅子は、思ったより低かった。腰を下ろすと、視線が医師の肩のあたりになった。デスクの端に、麦茶のペットボトルが一本置いてあって、底のほうに結露の粒がたまっていた。
「検査の結果をお話ししますね」
医師は、モニターをこちらに少しだけ向けた。
「会沢さん。先週のCTと、昨日の血液の腫瘍マーカー、両方そろって出ました」
画面のなかの、灰色のどこかに、白い小さな影が一つと、もう少し向こうにも、滲んだような白い領域がいくつか、点のように散っていた。医師はボールペンの先で、それらを、一つ、二つ、三つ、と順に指した。
「膵臓のここに、二センチ弱の病変があります。それから、肝臓にも、こちら、こちら、こちら。リンパ節のこのあたりにも、影が出ています」
影。
その言葉は、四日前の電話の受付の女性も使った言葉だった。今、目の前のモニターのなかで、それが、実際に、白い点として、並んでいる。四日前の、影、という言葉の輪郭が、物の形になった。
「ステージで言うと、Ⅳ、ということになります」
医師は、一度言葉を切った。
「ご家族の方、今日は」
「一人で、来ました」
自分の声が、思ったよりも低かった。喉のあたりで、少し震えていたのかもしれないが、震えだとは、自分で確信が持てなかった。
「そうですか」
医師はうなずいた。責めるふうでもなく、同情するふうでもなかった。ただ、次に進むための、事務的なうなずきだった。
「膵臓の癌は、見つかった時点で、どうしても進んでいることが多くて。会沢さんの場合も、残念ながら、手術で取りきれる状態ではありません」
そこから先の言葉は、聞こえていたし、聞こえていなかった。
抗がん剤、という言葉が、一度出た。それから、緩和、という言葉も、出た気がする。間に、なにかの薬の名前と、なにかの学会のガイドラインと、平均的な経過、という言い方が挟まっていた。わたしの耳は、それらを、言葉として受け取っていた。受け取って、そのまま、どこかに流していた。
「――半年、というのが、一つの目安になります」
そのひとことだけが、まっすぐ耳の真ん中に入ってきた。
半年。
今は四月だ。半年後は、十月になる。十月の空の色を、わたしは特別には思い浮かべられなかった。ただ、ついこのあいだ、団地の裏手の欅が黄色くなっていたのを、なぜか、急に思い出した。あのときの黄色を、今年も見られるかどうか、わたしは、今、知らされたのだった。
医師が、こちらの反応を少しだけ待った。
「今日、この話をお聞きになって、いろいろ、お気持ちの整理もあると思いますので」
気持ち、と、その人は言った。
整理、とも、言った。
頷いた気がした。自分の顎が、上から下に、一度動いたのか、動かなかったのか、あとから思い返すと、はっきりしない。膝のうえの手提げの持ち手を、両手でつかんでいた。指の第二関節が、白くなっていた。そのことを、自分の手のことなのに、他人の手を見ているように、ぼんやり眺めていた。
診察室を出たとき、廊下の蛍光灯が、入るときよりも白かった。
どこか、音の聞こえ方が、少しだけ遠かった。待合のベンチに戻ろうとして、足が、途中で止まった。自分が、なぜベンチに戻ろうとしているのか、分からなくなったからだった。会計の番号は、もっと先で呼ばれるはずだった。それまで、座って待てばよかった。けれど、今、座るということが、うまく、できる気がしなかった。
廊下の端に、売店があった。
病院の一階の、柱のかげのような場所に、小さなコンビニのような店が入っている。ガラスのドアの向こうに、お菓子と、雑誌と、飲み物の冷蔵ケースが並んでいた。
入って、冷蔵ケースの前に立った。
何を買いたいのか、特に考えていなかった。ペットボトルの棚に、緑茶が並んでいた。五百ミリリットルの、見慣れたラベル。その一本を、手に取った。冷たかった。ひんやりとした感触が、指のはらから、腕の内側のほうへ、ゆっくり上ってきた。
レジの女性に、小銭を渡した。百三十円だった、と思う。財布の小銭入れの口を閉めるときに、指がうまく動かず、ファスナーが途中でひっかかった。引っぱり直して、やっと閉めた。
売店を出て、廊下の壁の一番端のところに、もたれた。
もたれかかる、というよりは、壁に、体をあずけた、に近かった。ひやりとした硬さが、肩甲骨の下のあたりに当たった。スーパーの休憩室の壁もこれくらい冷たい、と、場違いなことを、わたしは考えた。
ペットボトルのキャップに、指をかけた。
まわす。
動かない。
もう一度まわす。
動かない。
指の腹が、キャップのぎざぎざにこすれて、赤い筋が浮いた。力を入れなおした。手首が少し痛んだ。それでも、動かなかった。
キャップの内側のシールが、まだ切れていないだけだ、と頭では分かっていた。最初に一度だけ、少し強く回せば、かちっと音がして、あとはするすると開くはずだった。それだけのことだった。二十年以上、毎日のように、わたしはスーパーで似たようなボトルを扱ってきた。客のかごから取り出して、バーコードを通して、袋に入れてきた。あのボトルは、どの店員の手のなかでも、ちゃんと開く前提で作られている。わたし自身の手のなかでも、たしかに今日まで、そうだった。
それが、今は、動かない。
動かないのが、ボトルのせいなのか、自分の手のせいなのか、分からなかった。たぶん、後者だった。握る、という動作の、どこかの筋肉の入れ方が、今朝からずっと、ほんの少しずつ、ずれている。ずれているというより、何かが、一本、抜けている。その抜けたところを、自分の指は、まだ、うまく探せていなかった。
壁にもたれたまま、ボトルを胸の前に下げた。
胸ポケットの、いつもの封筒の位置には、今日は何も入っていない。ポケットは、空のまま、ぺたんとしていた。膵臓のあたりに、影。あの影は、たぶん、この胸のあたりの、もっと下のほう、腰のちょっと上の裏側にある。触っても何も感じない。痛みも、重さも、今は、ない。影、というものは、触れないのだ、と、今さらのように思った。触れない場所に、わたしの、あと半年分が、並べられている。
廊下の向こうから、ワゴンを押した看護師が一人、通り過ぎた。
車輪の音が、やけに長く、耳に残った。
壁から、体を起こした。
すぐ近くに、廊下の端のベンチがあった。二人掛けの、背もたれのない、待合の簡素なもの。そこまで、たぶん、五歩くらいだった。その五歩が、自分の膝で歩けるかどうか、試すみたいに、一歩ずつ、確かめるように歩いた。歩けた。ベンチのふちに、腰を下ろした。
ボトルを、膝の上に置いた。
緑のラベルが、蛍光灯の下で、思っていたよりも鮮やかだった。電話帳のなかの、あの緑のボタンの色と、どこか似ていた。似ている、と思ったとたん、喉の奥が、かちり、と鳴った。
もう一度、キャップをまわした。
やはり、動かなかった。
ベンチの、ちょうどとなりの席のうえに、窓から斜めに降りてきた光が、小さな四角い日だまりをつくっていた。その日だまりのうえに、誰かの足が、ゆっくり、一歩分、近づいてくるのが、目の端に見えた。