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二十年目のごめんね

第1話 第1話

第1話

第1話

五番レジに立つとき、わたしは体の向きを左に二センチだけずらす。

そうすると、正面の通路の奥にある哺乳瓶の棚が、ちょうどレジ脇のポスター掲示板の陰に隠れる。二十年、そうやって立ってきた。同僚はたぶん、誰ひとり気づいていない。

ピ、と音が鳴る。キャベツのバーコードに、赤い光が一瞬当たる。値札のシールが少し湿っていて、指先の腹に冷たい感触が残った。ベビーカーを押した若い母親が、子どもに頬ずりをしながら財布を取り出す。首がしっかり据わっている。生後半年くらいだろうか。お釣りを渡すとき、母親の手首で、細い腕時計の針が秒を刻んでいた。小さな丸い文字盤だった。

「袋、いりますか」 「あ、持ってるんで大丈夫です」

声をかけるあいだも、わたしの体は哺乳瓶の棚と反対側を向いている。母親は気づかないままベビーカーの向きを変えた。子どもが一瞬、こちらを見た気がした。目が合った気がしたのは、きっと気のせいだ。

勤務を終えたのは午後六時すぎだった。

更衣室で制服を脱ぐと、胸ポケットから折りたたんだ紙が落ちた。病院の封筒。健康診断の再検査通知。受け取ってから三日、ロッカーの奥に押し込んだまま、忘れたふりをしていた。今朝、もう一度取り出して、今日こそ予約の電話を入れようと制服のポケットに移した。入れたまま、八時間、レジに立っていた。

封筒の角が、胸のあたりに当たる感触だけが、ずっと消えなかった。

駐輪場を出るころには、街灯が点きはじめていた。

四月の夜の空気は、昼よりわずかに冷たい。鼻の奥に、どこかの家の味噌汁の匂いが通りすぎる。ネギと揚げだ、とわたしは反射的に思う。昔、拓海に食べさせていたのが、ネギと揚げの味噌汁だった。

そう思いそうになるたび、わたしは自転車のハンドルを強く握る。

指先に力を入れすぎて、手のひらの付け根が痛くなる。痛くなったあたりで、ようやく拓海のことを考えるのをやめる。この二十年、そうやってきた。思い出しそうになったら、ハンドルを握る。台所の包丁を握る。レジのカゴを引き寄せる。なんでもいい、とにかく手のどこかを痛くする。そうすれば頭の中は、手の痛みに追い出される。

――拓海。

二歳だった息子の名前を、声に出したのはいつが最後だっただろう。

離婚のとき、二歳の拓海を元夫の実家に預けた。三日、と言って出た。三日経っても戻らなかった。半年経って、元夫から届いた書類にサインを返して、それで終わりだった。

スマートフォンの電話帳に、押さないまま二十年残している番号がひとつある。元夫の実家の固定電話。登録だけして、一度もかけていない。何度か指が近づいた夜はあった。けれど画面の緑のボタンは、わたしのなかで「押せない」と「押したらいけない」のあいだで、いつも折り合っていた。

拓海は、今年で二十二になっているはずだった。

置いてきたときの、ぽてりとした頬も、二重の下のまつ毛も、もう輪郭が思い出せない。写真は一枚も持っていない。持って出る資格がない、とそのときは思った。今になってそれを悔やむわたしには、たぶん悔やむ資格もない。

信号が赤になった。

自転車を停め、片足をついた。アスファルトの冷たさが、スニーカーの底ごしに伝わってくる。胸ポケットの封筒が、息をするたびに微かに動いた。

膵臓。

昨日、受付の女性が電話で「膵臓のあたりに影が見えるようなので」と読み上げた声が、いまだに耳の奥に残っている。影。臓器に、影。わたしの中の、たぶん、いちばん暗い場所に、それはきっとちゃんと在るのだろう。

信号が青に変わる。ペダルを踏み込む。

踏み込みながら、今夜こそ予約の電話を入れようと思った。

思って、そして、今夜は無理かもしれないとも同時に思った。

団地の入口の、郵便受けの前でだった。

自転車を押して回り込もうとしたとき、郵便受けの陰に、若い母親が一人しゃがんでいるのが見えた。手元には泣いている赤ん坊がいた。ベビーカーは郵便受け側に寄せられていて、その荷物入れから、透明なシロップの小瓶が転げ出している。たぶん、薬だ。

蛍光灯の白い光が、郵便受けの金属の縁にぼんやり跳ね返って、母親の横顔の輪郭だけを薄く浮かびあがらせていた。床のタイルには、こぼれたシロップが小さな水たまりをつくっていて、そのなかに、団地の天井灯がひとつ、ゆらゆらと映りこんでいた。甘い、どこか薬っぽい匂いが、ふっと鼻先をかすめた。

母親は、床に落ちた瓶を拾いながら、低い声で赤ん坊に話しかけていた。

「――ごめんね。ごめんね、ほんとに」

声は、うわずってはいなかった。泣いてもいなかった。ただ、静かに、何度も繰り返されていた。

「こぼしちゃった、ごめんね。あっためなおすからね、ごめんね、お母さん、今日いっぱいでごめんね」

わたしは、自転車のハンドルを握ったまま、足を止めていた。

止めたつもりはなかった。気がつけば、止まっていた。

赤ん坊は、母親の胸に顔をこすりつけて泣きつづけていた。小さな手のひらが、母親のカーディガンの胸元を、ぎゅっ、ぎゅっと握りしめては離す。母親は片手で背中をさすり、もう片方の手で転がった瓶のふたを閉めた。ふたは一度、からり、と乾いた音を立ててずれ、それを彼女はもう一度、丁寧に閉めなおした。指先が、わずかに震えているのが、遠目にも分かった。

ごめんね。

短い、ありふれた三文字だった。

それなのに、わたしはその場から動けなかった。ハンドルを握る手が、いつのまにか、いつもの「痛くするための握り方」をやめていた。痛みで追い出すべきものが、もう、追い出せない場所まで上がってきていた。

わたしは、あの日、言わなかった。

二歳の拓海を元夫の実家の玄関に置いて、くるりと背中を向けたとき。抱きあげもせず、膝もつかず、「また来るね」とだけ言って、また来なかった日。あの日、わたしは「ごめんね」と言わなかった。言えなかったのではなく、たぶん、言う資格がないと思っていた。言ってしまえば、自分が許されてしまいそうで、そのほうがずっと、わたしにはこわかった。

けれど、今、目の前で。

この人は、ただシロップをこぼしただけで、赤ん坊の前で膝をついて、ごめんね、と言っている。膝のストッキングが、こぼれたシロップで濡れているのも、たぶん気づいていない。

言えるんだ、と思った。

ああ、こうやって言うだけだったのか、と思った。

謝るというのは、許されるためにする行為ではなく、ただ、目の前のこの子に向かって、自分の小ささを差し出すだけのことなのかもしれない。そんなことを、二十年もかかって、わたしは今ようやく、知ろうとしているのだろうか。

喉の奥で、乾いた音がした。唾を飲み込んだ音だったのかもしれない。それとも、二十年のあいだ内側にしまってきた何かが、ほんの少しだけずれた音だったのかもしれない。

「大丈夫ですか」

気がついたとき、わたしはそう声をかけていた。母親は顔を上げた。まだ若い。二十代半ばくらい。目の下に、薄いくまがある。

「あ、すみません、すみません、騒がしくして」

「……いえ」

わたしは何かを言いたかった。

けれど、出てくる言葉がなかった。代わりに、自転車のかごから、使い古しのハンカチを一枚、無言で差し出していた。母親は一瞬、戸惑った顔をして、それから小さく頭を下げて受け取った。受け取る指先が、やはり、少しだけ冷たそうだった。

胸ポケットの封筒が、心臓の近くで、もう一度、ことり、と動いた。

部屋に戻って、玄関でスニーカーを脱いだ。

明かりはつけなかった。

台所まで歩き、コンロ脇の引き出しを、そのままの流れで開けた。いつもは触らない、奥の引き出しだ。その底に、ずっとしまっている薄いブリキの缶がある。

その缶のなかに、二通の封筒が入っているのを、わたしはずっと知っていた。

一通は、十二年前、元夫の実家から転送されてきた、拓海の字の手紙。

もう一通の差出人の名前を、今はまだ、思い出したくなかった。

指先が、暗がりのなかで、缶のふたをそっとなぞった。

冷たかった。

なぜわたしはあの日、ごめんね、と言えなかったのだろう。

その問いだけが、胸の奥で、低く、低く、残っていた。

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