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観測者の烙印 〜Eランクと誤認された俺は静かに歩き出す〜

第1話 第1話

第1話

第1話

地下迷宮、第三層。

湿った石床にリオンの靴底が音もなく接した瞬間、鼻先をかすめたのは、苔の匂いに混じったかすかな硫黄臭だった。

その硫黄臭は、たとえば隊商の野営地で焚かれる魚油のランプのものとも、街の鍛冶場から漏れる炉のそれとも違う。もっと冷たく、もっと深い場所から滲み出してくる種類の臭い。リオンは無意識のうちに息を浅く整え、鼻腔の奥にその匂いの輪郭を刻みつけた。第三層に入って三歩目で硫黄が立つ位置——これは、罠の場所を覚えるための座標になる。

「待って」

リオンは右手を上げて、後ろを歩く三人を止めた。

「ああ?」

リーダーのガイが、迷宮の天井に跳ね返る太い声で応じる。声は石壁を二度三度と打って戻ってきて、戻ってくるたびに少しずつ濁った。リオンは、その反響の中に混じる微かな擦過音——遠くで何かが石を擦る音——を聞き取り、敵影ではないと判断してから口を開いた。

「三歩先、床石の継ぎ目。圧力式の毒霧罠です」 「……ちっ」

リオンは腰の革袋から細い針金を取り出し、しゃがんで床石の隙間に差し込んだ。指先に、わずかな張力の変化が伝わる。針金の先端が、罠機構の留め金に触れた感触。爪の先ほどの突起。そこへ針金を斜めに差し込み、留め金を内側に押し戻す。角度を一度ずらす。カチリ、と乾いた音が鳴って、起動音が止まった。

額にうっすら浮いた汗を、リオンは手の甲で拭った。汗は冷たく、すぐに袖に吸われた。

「行けます」 「もたもたすんな」

ガイは肩で風を切ってリオンの脇を通り過ぎた。すれ違いざま、革鎧の腰がリオンの肩を突く。背嚢から薬瓶が一本、石床に転がった。割れない。リオンが瓶ごと布で巻いておいたからだ。

魔導士のセインも、剣士のミラも、何も言わずにリオンの横を抜けていく。セインは目を伏せ、ミラは口角だけをわずかに歪めた。誰かが何か言葉を発すれば、それは合図になってしまう。三人は黙っていることで、無言の合意を交わしていた。

リオンは薬瓶を拾い、背嚢に戻し、最後尾に並んだ。

──いつものことだ。

第三層の最深部、広間の中央に四体のオーク。

四体の体臭は獣脂と糞便の混ざったもので、湿った空気の中で粘りつくように広がっていた。リオンは反射的に、左から二体目のオークの右膝に古傷があることを見て取った。歩幅がわずかに不均等。あれは追い込めば必ず崩れる。

「来るぞ! セイン、火炎弾! ミラ、左から回り込め!」

ガイの号令で戦闘が始まった。セインが詠唱を済ませ、炎弾を放つ。だが、ぐらりと弾道が揺れる。狙いが甘いのではない。第三層は霧が濃く、火属性の魔術が空気の水分に食われる。

リオンは無言で背嚢から砂袋を取り出し、ミラの足元に放った。乾燥砂が水分を吸う。袋が破れて、白い粉塵がぱっと広がった。粉塵は霧と混ざりながら、おおよそ三歩四方の空気を一瞬で乾いたものに変える。鼻の粘膜がきゅっと縮む感覚。

セインの第二射が、ようやく一体のオークの肩を焼き切った。

焼けた肉と毛の臭いが鼻を打つ。オークの咆哮が広間の天井で割れて、四方に散った。

ミラの剣が、左のオークの脇腹を裂く。返り血を浴びたミラが顔をしかめた瞬間、その背後に隠れていた一体が斧を振り上げる。

リオンの視界の中で、すべてが半拍だけ遅く流れた。斧の刃に映る松明の光、ミラの肩越しに見える牙、自分の指が革袋の口紐をほどく感触——それらが順番ではなく、同時に意識の上に並んだ。

「ミラさん、後ろ!」

叫ぶと同時に、リオンは革袋から麻痺粉の小瓶を抜き、敵に投げつけた。粉末がオークの口に入り、斧を握った腕が硬直する。その隙にミラが振り返り、首を斬り落とした。

首の落ちる音は、湿った布を石に叩きつけたときの音に似ていた。

「……ふん」

ミラはリオンを見もせずに、剣を払って血を落とした。剣の腹から飛んだ赤い飛沫が、リオンの靴の爪先にかかる。ミラはそれに気づいているはずだったが、振り向きもしなかった。

戦闘は十分で終わった。ガイは死体を蹴ってから、リオンを振り返った。

「核石、回収しろ」

リオンは黙って頷き、四体の胸を短刀で開いた。魔石を取り出し、布で包む。指先がべたつく。鼻の奥に、生臭さが届く。

魔石は四つとも、握ると低くじんと響く程度の質。粒は中の上、しかし二つには細かなひび割れがある。これはガイの一撃が雑だった証拠だ——と、頭の中で勝手に値踏みしてしまう自分を、リオンは小さく咎めた。判定するのは自分の役目ではない。自分はEランクで、罠と荷物の係なのだ。

回収を終えたリオンは、背嚢の薬瓶を確認した。傷薬、解毒薬、回復薬。残量を逆算する。──薬が足りない。明日の昼までに調合しておかないと、第四層では持たない。

特に解毒薬が心許ない。第三層の毒霧罠を見越して二本余分に持ってきていたのに、ガイが今朝、二日酔いの胃に流し込んでしまった。あれは解毒薬で、胃薬ではない。だが訂正すれば殴られるだけだ。

「リオン、何ぼけっとしてんだ」 「いえ、薬の残量を」 「黙ってついてこい」

ガイは舌打ちして歩き出した。

地上に戻ったとき、空はすでに茜色だった。

地下の冷気から外気へと出た瞬間、頬の皮膚がぴりりと締まる。茜色の光は西の城壁の上にだけ薄く残っていて、東の空にはもう紺が滲んでいた。リオンは深く息を吸った。地上の空気は、生きた草と人の汗と煮炊きの匂いがした。

ギルドの建物に入り、依頼受付に魔石を提出する。受付の女が秤に乗せ、報酬を計算した。金貨十二枚。四人で割れば、一人三枚。

ガイは革袋を受け取り、酒場前のテーブルで山分けを始めた。ミラに三枚、セインに三枚、自分に三枚。

金貨の音が木のテーブルに三度、はっきりと響いた。

リオンの前に置かれたのは、銀貨が混じった小さな山だった。

銀貨は十枚で金貨一枚。つまりリオンの取り分は、金貨一枚と銀貨五枚——金貨換算で一・五枚。残る一・五枚分は、ガイの懐に収まったはずだった。山の上に乗った銀貨の一枚は、縁が欠けて黒ずんでいた。

「……」 「ああ、お前の取り分は半額だ。文句あるか?」

ガイが歯を見せて笑う。セインとミラが目を逸らした。

セインは指で杯の縁をなぞり、ミラはテーブルの木目をじっと見ている。二人とも、リオンの顔を見ない。見てしまえば、何かを言わなければならなくなる。

「半額、ですか」 「お前のやることなんざ、荷物持ちと罠の確認くらいだろ。それで一人前の取り分は払えねえなあ」 「……」 「不満なら、明日から来なくていいぜ?」

リオンは銀貨混じりの山を見下ろした。

(罠を解除しなければ、ガイたちは三歩先で死んでいた。麻痺粉を投げなければ、ミラの首は転がっていた。砂袋を撒かなければ、セインの炎はオークに届かなかった)

胸の奥で、違和感が静かに膨らむ。怒りではない。ただの違和感。長い間、ずっとこれだけを抱えてきた。

膨らんではいるが、破裂しない。破裂のさせ方を、リオンは知らない。三年間、毎日少しずつ膨らみ続けて、それでも破裂しないものは、たぶんもう破裂のしかたを忘れているのだ。

リオンは銀貨を一枚ずつ拾い、革袋にしまった。

銀貨同士が触れる、軽い、安っぽい音。

「……いただきます」 「物わかりがいいじゃねえか」

ガイは満足げに頷いて、酒場の扉を蹴り開けた。

ミラもセインも、もうリオンを見ない。リオンも、もう何も言わない。

──Eランク。

己の鑑定スキルが告げた等級は、それだった。だから、自分の判断は、本当は正しくないはずだ。罠も、薬効も、敵の動きも、自分には「なんとなく」しか分からない。たまたま当たっているだけ、のはずだ。

そう思おうとして、思いきれない夜が、もう何百回も続いていた。

宿屋に戻る前に、リオンはギルドの掲示板の前で足を止めた。

自分宛ての通達が、画鋲で留められていた。

『冒険者リオン殿。明日早朝、王都大聖堂にて定期再鑑定を執り行う。不参加は登録抹消。神官長より』

リオンは紙を剥がし、折りたたんで懐に入れた。

定期再鑑定。三年ぶりだ。

──また同じ結果が出るだけだろう。

三年前、初めて鑑定を受けたあの朝、神官の口から「Eランク」という言葉が落ちた瞬間の、待合室の空気をリオンはまだ覚えている。隣の席にいた同期は全員、口元に同情を貼り付けて、目だけはどこか安堵していた。自分は彼ら以下だと、確定した瞬間だった。

そう思った瞬間、酒場の中から響くガイの笑い声が、扉越しに耳に届いた。

「明日? ああ、リオンの再鑑定か。ついでだ、無能の烙印を更新してこいって言ってやろうぜ!」

セインとミラの追従笑いが続く。

リオンは扉を見ず、踵を返した。

外は雪が降り始めていた。

最初の一片が、リオンの睫毛に触れて、すぐに溶けた。冷たさが目尻から頬へ伝う。空はもう群青で、雪はその群青の中から、ひとつずつ意思を持ったように降りてくる。石畳に落ちた雪は、踏まれる前にゆっくりと白さを増しはじめていた。

懐の中で、神官長の通達が、かすかに体温を吸い始めていた。

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