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走狗烹られて盤を返す

第2話 第2話

第2話

第2話

粗い麦藁の匂いが、頬の下で動いた。

陸黎は、冷たい板の感触を確かめるように、ゆっくりと頬を押しつけた。指先の霜焼けが疼く。爪の付け根の割れ目に、土埃が入り込んでいる。板の節目を視線が追うと、そこに自分の呼気が、白く小さく溜まっているのが見えた。

「黎。早馬だ。北からだ」

頭上から落ちてきた声は、若かった。声変わりの終わりかけの、まだ痩せた喉の音だ。十五年分の、土と汗と鉄の匂いを帯びた声だった。

陸黎は上体を起こした。肩の軽さに、一瞬、意識が遅れた。骨が鳴らない。腰が痛まない。五十二で斬られた首の、その一瞬のあと、自分の身体は縮んでいた。袖口から突き出した手首は細く、産毛が金色に光っている。掌を返してみると、剣を握り込んだ胼胝がない。墨を扱いすぎた指の、節の強張りもない。

(十五か)

声には出さなかった。目の前で、呉策がまだ早馬早馬と繰り返している。十五歳の呉策だ。まだ禁軍の校尉の鎧を知らない。綿布の胴着の袖を肘までまくり、泥のついた脚絆を巻いた、駅亭の下男の姿だった。頬にはまだ、昨日の薪割りで跳ねた木屑が一つ、貼り付いている。

「胡の商隊が、黒水河の向こうで塩の値を二倍にしたと。駅丞が、帳簿を改めろと」

呉策の声が、板戸の隙間から差し込む朝の光を、乾いた音で切る。陸黎は窓の外を見た。板戸の向こうで、痩せた雄鶏が三度、鳴いた。それは、北辺の乾定三年、秋九月の朝の音だった。梁王・賀蘭嶺が、辺境の次男坊としてまだこの駅亭の門を叩いていない、二年前の朝だった。

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板を軋ませて立ち上がる。脚が軽い。膝が鳴らない。頭蓋の裏側に、半月前に斬られた頸椎の記憶が、鉄錆の味と共にへばりついている。舌の奥にもまだ、その味が残っていた。唾を飲み下すと、喉仏が痩せた首を上下する、その骨の動きすら他人のもののようだった。だが、肉体はそれを知らぬ顔をしていた。

駅亭の土間へ降りた。三和土の上に置かれた黒檀の文机、その向こうで、駅丞・老魏が帳簿を開いている。老魏は、五十二の陸黎の記憶では、五年後に肺を病んで死んだはずの男だった。いま、その男が生きて、筆を走らせている。白髪はまだ半分、目元の皺も浅い。墨を磨る音がかすかに立ち、土間の隅に吊るされた干し棗の房が、風に揺れて乾いた音を立てた。陸黎の気配に気づくと、筆を置き、顎で文机を指した。

「黎坊主。塩の二倍は、穀の半減と同じことだ。辺境の飯が炊けなくなる前に、誰が黒水河を渡ったか、知らねばならん。おまえの耳は、誰より軽い。走れるか」

「走れます」

即答しながら、陸黎の声の裏で、もう別の計算が走っていた。

乾定三年九月。黒水河の塩値が二倍。これは、十二年後に梁王へ上奏した北方戦役の、最も古い兆しだった。五十二の自分が北の千二百騎を潰した、あの戦の、最初の芽だ。当時はただの少年として、老魏の言いつけで駆け回り、塩の買い手と売り手の名を帳簿に書き写しただけだった。符牒も、網も、まだ無い。

(そうか。ここから始めたのか)

陸黎は、老魏の帳簿の上にそっと手を置いた。指先が、十二年前の紙の匂いを吸った。桐の皮で漉かれた、北辺特有の、少し黄ばんだ紙。その一枚一枚を、五十二の自分は、延安の書庫の奥で密かに抜き写して保存していた。梁王が網の起点を追跡しても、そこまでは届かせないための保険だった。保険として隠された紙に、いま、十五の自分が素のままで触れている。

円は閉じていなかった。盤は、まだ配り終わる前の、配り始めの手にあった。

「黎」

呉策が土間の隅から呼んだ。草鞋の紐を結び直しながら、口の中に麦飯を詰めている。

「おまえ、顔が青えぞ。夢でも見たか」

「見た」

短く答えた。

「首が落ちる夢だ」

呉策は麦飯を噴き出しそうになり、拳で口を塞いだ。飯粒が一つ、板間に転がった。

「縁起でもねえ。早馬はおれが走る」

「いや、俺が行く」

陸黎は、帳簿の端を一寸ほど裂き、懐から炭の欠片を取り出した。老魏が眉を寄せて見ている。陸黎は炭の先で、紙片に三つの印を書いた。炭が紙を擦る音が、土間に落ちる。

一つ目、二重の横棒。二つ目、斜めに貫く短線。三つ目、点一つ。

五十二の陸黎が、辺境の符牒の最初に据えた三文字だった。塩、北、動。北の塩が動いた、そこに人が動く気配がある、見よ――その意味を、紙片一枚に圧し込む。書きながら、指がわずかに震えた。震えたのは恐怖ではなかった。十五の肉体が、まだ感情を処理しきれていないだけだった。胸の奥で、若い心の臓が過剰に打っていた。拍の一つ一つが、あばらの内側を叩いた。

(情報だ)

陸黎は、震える指の腹で炭の粉を擦り、紙の上で整えた。

(これは予兆ではない。記憶でもない。俺の頭の中に、十二年分の情報が、すでに書き込まれている帳簿があるだけだ)

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老魏が、こちらを見ていた。

「黎。その印は、誰に教わった」

陸黎は顔を上げた。老魏の目は光を含まない、ただの観察者の目だった。頬の皺の奥に、まだ病の影は差していない。この男は、十二年後に肺を病んで死ぬ。死の床で、彼は一度も、陸黎の符牒の素性を口にしなかった。老魏は、陸黎が駅亭で密かに符牒を磨き始めた年の、最初の黙認者だった。黙認の重さを、五十二の陸黎はずっと背負ってきた。いま、その黙認を、ここから引き出さねばならない。

「誰にも」

陸黎は答えた。声は乾いていたが、揺らがなかった。

「胡の塩商が馬の鞍に結ぶ紐の色を、去年の秋、俺は黒と赤の二色で数えていました。今年の春、赤が消えて、黒だけが倍になりました。今朝、塩の値も倍になった。紐と値は、同じ動きです。それを早馬の腹に書きつけた紙一枚では、書ききれません。こうして、圧し込むしかない」

老魏は黙った。筆の軸が、指の節の間で一度、音もなく回った。しばらくして、筆を置き、陸黎の書いた三つの印を、自分の帳簿の隅に、そのまま写した。写し終えた筆先が、硯の縁で軽く叩かれ、余分な墨を落とした。

「おまえの書いた印を、わしは知らんことにしておく」

老人は目を閉じた。閉じた瞼の内側で、何かが静かに決着したようだった。

「ただ、その印を使うなら――早馬の腹で死なせるな」

陸黎は、深く頭を下げた。項に朝の冷気が滑り、産毛が総毛立った。

これが、始まりだった。

駅亭を出ると、空は高く乾いていた。黍の穂が風に傾ぐ。呉策が馬の轡を引いてきた。ぼろの鞍、ぼろの蹄鉄、だがこの馬は、十年後、梁王のために北方諸部族との和議を結ぶ使者として、最初に北へ走らせることになる駅馬の、血の一頭前の種馬だった。陸黎は、馬の鼻面に掌を当てた。息が、温かかった。湿った鼻孔から吐き出される呼気が、掌の皮膚に小さな湯気の輪を作っては消えた。

「黎、本気で走るつもりか」

「黒水河の上流、第七駅亭まで」

「二日だぞ」

「二日で行く」

「帰りは」

「帰らんかもしれん」

呉策の動きが止まった。轡を握る指の関節が、白く浮いた。

「策」

陸黎は、幼馴染の名を、十二年ぶりに呼んだ。喉の奥で、その音節が妙に新しく響いた。

「おまえ、俺と一緒に、駅亭を渡り歩く気はないか。北から南まで、息をするみたいに」

呉策は、馬の胴を叩く手を止めた。日焼けした頬に、一瞬、少年の戸惑いがよぎった。

「おれに、何をさせる気だ」

「石の深さを、量らせる」

五十二の処刑台で、呉策が目を伏せた瞬間のことを、陸黎は不意に思い出した。水の深さを量る男が、人の心の深さも量れた。量った上で、伏せた。その選択を、もう一度この若い男にさせてよいか。

させない、と陸黎は決めた。

今度は、量らせるのは石ではない。盤だ。呉策の前に、陸黎は盤面の端しか見せない。中央は、二度と見せない。それが、呉策を守り、陸黎自身をも守る、唯一の手だった。

「いいぜ」と呉策は言った。意味も分からぬまま、いつもの調子で肩を揺らした。「どうせ、この駅亭は退屈だ」

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陸黎は鞍に飛び乗った。十五の腰で、身体が軽く跳ねた。

北の山道は、朝霧に包まれていた。馬の蹄が、朝露の残る草を踏む。背後で、呉策が自分の馬にまたがる音が聞こえた。二頭の蹄の音が揃い、やがて駅亭の門が遠ざかる。

懐の中で、陸黎は一枚の紙を握りしめていた。三つの印が、炭の粉で書かれた、最初の符牒。今日の夕、黒水河の手前の第五駅亭で、老爺・趙の手に渡る。趙は、五十二の陸黎が薪をくべさせた、あの老爺だ。

円は、閉じない。だが、開いた側から、新しい糸が伸び始めていた。

霧の向こうで、痩せた雄鶏が、もう一度鳴いた。

十二年後、この朝の一頁は、延安の大広間の、磨かれた檜の処刑台まで、一本の細い線で繋がっている。今日、陸黎は、その線の、最初の一目を結ぶ。

馬の腹を、軽く蹴った。

霧の先で、若い賀蘭嶺が、まだ兄・梁嵩の膝下で酒を注いでいる年の朝だった。

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