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追放された博物士、未踏層で図鑑を埋める

第1話 第1話

第1話

第1話

剣が届かない。

 Bランクダンジョン「黒牙洞」の第十二層。天井から垂れ下がる鍾乳石の隙間を縫うように、巨大な蜥蜴が這い寄ってきていた。全長四メートル超。鱗は鉄錆色に鈍く光り、裂けた口腔の奥で青白い火が明滅している。熱気が洞窟の湿った空気を歪ませ、硫黄に似た刺激臭が鼻腔を焼いた。炎吐蜥蜴——Bランク相当の中型魔物だ。

 前衛のガルドが大剣を構え直した。パーティ「鉄槌の牙」のリーダーであり、このダンジョンの攻略隊長でもある。その背後に槍使いのドルク、回復士のミーナ、斥候のアリサ。四人の視線が蜥蜴に集中する中、最後尾でハルトは図鑑を開いていた。

「ガルド、左の前脚!」

 叫びは反射だった。炎吐蜥蜴の項目、自ら書き足した欄外の走り書き。左前脚の第三関節に古傷を持つ個体が黒牙洞の深層に棲息する——三ヶ月前の調査記録が脳裏に蘇る。

「左前脚の付け根、鱗が逆向きに生えてる個体だ。そこを打てば体勢が崩れる!」

 ガルドは振り返らなかった。だが身体は動いた。大剣が弧を描き、蜥蜴の左前脚を薙ぐ。鱗が弾け、蜥蜴が体勢を崩す。その隙にドルクの槍が喉元を貫いた。

 蜥蜴は一度だけ尾を痙攣させ、動かなくなった。洞窟に湿った静寂が戻る。

「……助かった」

 ドルクが槍を引き抜きながら呟いた。アリサが小さく頷き、ミーナが回復魔法の残量を確認している。ハルトは図鑑のページをめくり、いま確認した個体の詳細を書き加えた。鱗の逆生え、確かに左前脚第三関節。戦闘中の動作速度は通常個体比で約七割。火炎の射程は短い。

 誰も、礼は言わなかった。

 いつものことだ。ハルトは図鑑を閉じ、腰の革袋に戻した。

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 地上に戻ったのは日が傾き始めた頃だった。

 ギルドの酒場には冒険者たちの喧騒が満ちている。杯を打ち合わせる音、武勇伝を語る声、魔物素材の値踏みをする商人の囁き。焼けた獣肉と安酒の匂いが混じり合い、煙草の煙が天井の梁に絡みついている。その片隅のテーブルで、「鉄槌の牙」の五人が向かい合っていた。

 ガルドが最初に口を開いた。

「ハルト。単刀直入に言う」

 大剣を壁に立てかけ、腕を組んだまま。日焼けした顔に表情はない。

「パーティを抜けてくれ」

 酒場の喧騒が一瞬だけ遠くなった。ハルトの指が、テーブルの上に置いた図鑑の表紙を無意識に撫でた。

「……理由を聞いていいか」

「火力が足りない」

 四文字。ガルドはそれだけ言った。ドルクが気まずそうに目を逸らす。アリサが口を開きかけたが、ガルドの視線で黙った。ミーナは俯いたまま杯の縁をなぞっている。

「さっきの蜥蜴だってそうだ。お前の情報がなけりゃ危なかっただろ。それは認める。だが——」

 ガルドは一度言葉を切り、ジョッキの麦酒を一口含んだ。

「Bランク帯はこれからもっと厳しくなる。知識だけで五人分の枠を一つ使い続けるのは、パーティとして限界だ。お前の代わりに攻撃職を一人入れれば、今日みたいな綱渡りをしなくて済む」

 反論はいくらでもあった。あの蜥蜴の弱点を見抜けたのは自分だけだ。先月の甲殻蟲の群れを地形誘導で殲滅させたのも、毒沼地帯の安全路を図鑑の菌糸パターンから割り出したのも。だが、ガルドの言葉には否定しようのない事実が含まれていた。

 博物士——【博物士】という職は、剣を振れない。魔法も使えない。回復もできない。できるのは、見ること。記録すること。知っていること。

 それだけだ。

「……分かった」

 ハルトは図鑑をテーブルから持ち上げ、立ち上がった。革表紙の角は擦り切れ、背表紙には幾重もの折り癖がついている。三年分の記録。三年分の観察。三年分の、誰にも評価されなかった仕事。

「世話になった」

 ガルドは頷いただけだった。ハルトがテーブルを離れ、酒場の出口に向かう。背中に視線を感じたが、振り返らなかった。振り返れば、何か言ってしまいそうだった。三年間一緒に潜った仲間に、恨み言のひとつでも——いや、恨みではない。ただ、分かってほしかっただけだ。自分がいたから生き延びた夜が何度もあったことを。

 外に出ると、夕風が頬を冷たく撫でた。橙色の空の下、ギルド本館の石壁が長い影を落としている。ハルトは図鑑を胸に抱え、掲示板の前で立ち止まった。

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 パーティ募集の羊皮紙が何枚も貼り出されている。「前衛募集・Cランク以上」「魔法職急募・高火力優遇」「斥候求む・即日可」。どれも求めているのは戦えるものだった。

 ハルトは一枚一枚、目を通した。【博物士】を歓迎する募集は一つもない。当然だ。冒険者ギルドの評価基準は戦闘貢献度で決まる。魔物を何体倒したか、どれだけのダメージを与えたか。記録係に割く枠などない——それが常識だった。

 図鑑を開いた。最後のページには、今日書き足した炎吐蜥蜴の記録がある。鱗の模様、火炎腺の位置、弱点部位。正確で、詳細で、誰の役にも立たない記録。

 いや。役には立っていた。立っていたはずだ。

 ハルトは図鑑を閉じ、受付窓口に向かった。

「ソロ探索者として再登録したい」

 受付嬢が目を丸くした。ハルトの顔を見て、「鉄槌の牙」のメンバーだったことを思い出したのだろう。ギルドカードを確認し、パーティ登録の抹消手続きを進める。羽根ペンが書類の上を走る乾いた音だけが、カウンターに響いた。

「ソロ登録、完了しました。……ハルトさん、現在のギルドランクはEです。パーティ在籍中の戦闘貢献ポイントがソロ換算されますので」

 E。最低ランク。三年間Bランクパーティに所属していて、個人ランクは最底辺。笑い話にもならない。

「Eランクのソロで受注できるダンジョンは限られますが——」

 受付嬢はしばらく手元の台帳をめくり、一つの名前で指を止めた。困ったように眉を寄せながらも、仕事として告げた。

「灰窟でしたら、ソロでも入場許可が出ます」

 灰窟。名前だけは知っている。最低ランクダンジョン。出現する魔物はスライムと小型の甲虫程度。駆け出しの冒険者が度胸試しに潜る場所。まともな探索者は見向きもしない。

 受付嬢の目に浮かんだ感情が何か、ハルトには分かった。それは同情だった。Bランクパーティの元メンバーが、最低ランクのダンジョンを紹介される。屈辱以外の何物でもないと、彼女は思っているのだろう。

 だが、ハルトの指は図鑑の表紙を撫でていた。灰窟——調査報告書は十五年前のものが最後だ。公式図鑑の記載は最低限。出現種は六種とされているが、季節変動や深層の調査記録はほとんどない。

 記録されていないものがある。それだけで十分だった。

「灰窟の入場許可証を頼む」

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 ギルドを出ると、空はもう暗かった。

 石畳の通りを歩きながら、ハルトは図鑑の最後の白紙ページに指を滑らせた。まだ何も書かれていない。これから埋める余白。灰窟で何が見つかるかは分からない。スライムの亜種すら出ないかもしれない。

 それでも、足は止まらなかった。

 知りたい。見たい。記録したい。それが【博物士】という職の、どうしようもない衝動だ。火力がない。戦えない。それでも、この目で見たものを書き留める手だけは、誰にも奪えない。

 夜風が図鑑のページを揺らした。明日の朝、灰窟に潜る。最低ランクのダンジョンに、最低ランクの探索者が一人で。

 革袋の中で、図鑑がかすかに重みを主張した。三年分の記録の重さ。そしてこれから増えていく、まだ見ぬページの重さ。

 通りの角を曲がったとき、ふと足が止まった。宿の窓から漏れる灯りの中に、ギルドの掲示板が見えた。明日の朝にはあそこに、自分がいなくなった「鉄槌の牙」の新メンバー募集が貼り出されるのだろう。攻撃職募集——即戦力優遇。

 ハルトは目を逸らし、宿の扉を押し開けた。安宿の黴た空気が鼻を突く。狭い部屋の寝台に腰を下ろし、図鑑を膝の上に開く。灰窟の項目——公式記録は二ページ。スライム、甲虫、苔鼠、石蜥蜴、穴蝙蝠、灰蛾蟲。六種。特記事項なし。

 だが、ハルトの【観察眼】は知っている。「特記事項なし」と書かれた場所にこそ、誰も見ていないものが眠っていることを。

 蝋燭の炎が揺れる。ハルトは白紙のページに、小さく書いた。

 ——灰窟調査記録、第一日。

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